産経新聞 2019.11.18 07:15
10月31日未明に発生した首里城の火災は、正殿をはじめ北殿、南殿、二階御殿(ニーケーウドゥン)といった6棟を焼き尽くし、御庭(ウナー)への正門であった奉神門の北側部分などを焼いて、同日昼すぎに鎮火した。まず、沖縄の皆さまに心からお見舞い申し上げたい。そして首里城を守ろうと、懸命な消火活動に取り組まれた方々に感謝したい。
私もあの朝、ニュース速報が伝える火災の様子を見て涙を流した。首里城は沖縄の歴史と文化を象徴するとともに、日本の城の多様性を物語るかけがえのない存在である。30年もの年月をかけて復元を進めた首里城主要部を火災で失ったことは残念でならない。
一般に日本の城といえば「本土の城」を思い浮かべる人が多いだろう。日本列島には北海道を中心にアイヌの人びとが築いたチャシがあり、本州・四国・九州には大和スタイルの城、沖縄・南西諸島にはグスクがあった。ひとつの国の、重なり合う時代に、これほど多様な城があったのは世界的にもまれで、城は私たちの国の歴史の豊かさをみごとに反映している。
グスクは名護市の名護城(ナングスク)のように、もともとは土造りで、14世紀頃に琉球石灰岩を用いた石垣の城へと進化した。同時代の大和スタイルの城は、楠木正成(くすのき・まさしげ)が築いた千早(ちはや)城や赤坂城などのように土造りの山城で、大和スタイルの城が石垣を導入したのは16世紀。日本列島最初の石垣の城は、織田信長や豊臣秀吉のはるか以前のグスクなのである。
14世紀から15世紀にかけた石垣のグスクの発達は目覚ましく、今見る主要なグスクはこの時期に成立した。グスクは建物配置や石垣の壁で守った点に、東アジアの大陸の城との共通性をもつが、決して大陸の城の模倣ではなかった。
大陸の山城は土や石の壁で城を囲んで守ったが、壁と城内の平場は一体ではなかった。それに対し、グスクは基本的に城壁とそれで守った城内平場が一体化していて、本州などの大和スタイルの城と共通した。
つまり、グスクは東アジアの大陸の城と、大和スタイルの城の優れた点を併せ持つ城だったのだ。そして琉球を統一した尚(しょう)氏が、石垣のグスクの集大成として15世紀に首里城を築いた。首里城は安土城や大坂城、江戸城と並ぶ、もう一つの天下人の城だった。
首里城は正殿に至るまでに、歓会(かんかい)門、瑞泉(ずいせん)門など多数の門を連ねたが、これらは「枡形(ますがた)」と呼ぶ、門と広場を組み合わせた防御施設だった。中枢部を守った連続枡形の防御空間は、江戸城にも認められた。つまりグスクと大和スタイルの城は守りの方法にも共通性も備えた。そして、注目すべきは首里城が江戸城よりもおよそ100年も前に、複雑な連続枡形を実現した先進性である。
火災で失われた首里城の再建は、決して沖縄だけのことではなく、城を通じて私たちの国の歴史の多様性と豊かさを取り戻すことだと思う。一日も早い首里城の復興を願いたい。 (城郭考古学者・千田嘉博)
◇
【用語解説】首里城
標高100メートルほどの珊瑚礁の丘の上に築かれた琉球王朝の王府。15世紀に琉球を統一した尚巴志(しょうはし)が付近を首都に定めたころから、現在の規模になったとされる。1879(明治12)年の琉球処分で王国が途絶えた後も建物は残り、1925(大正14)年には正殿が当時の国宝指定を受けた。太平洋戦争ですべての建物が焼失。1958(昭和33)年に守礼(しゅれい)門が復元され、1992(平成4)年以降、正殿などの主な建物が甦った。2000(同12)年に城跡を含む「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」が世界文化遺産に登録された。
https://www.sankei.com/life/news/191118/lif1911180005-n1.html
10月31日未明に発生した首里城の火災は、正殿をはじめ北殿、南殿、二階御殿(ニーケーウドゥン)といった6棟を焼き尽くし、御庭(ウナー)への正門であった奉神門の北側部分などを焼いて、同日昼すぎに鎮火した。まず、沖縄の皆さまに心からお見舞い申し上げたい。そして首里城を守ろうと、懸命な消火活動に取り組まれた方々に感謝したい。
私もあの朝、ニュース速報が伝える火災の様子を見て涙を流した。首里城は沖縄の歴史と文化を象徴するとともに、日本の城の多様性を物語るかけがえのない存在である。30年もの年月をかけて復元を進めた首里城主要部を火災で失ったことは残念でならない。
一般に日本の城といえば「本土の城」を思い浮かべる人が多いだろう。日本列島には北海道を中心にアイヌの人びとが築いたチャシがあり、本州・四国・九州には大和スタイルの城、沖縄・南西諸島にはグスクがあった。ひとつの国の、重なり合う時代に、これほど多様な城があったのは世界的にもまれで、城は私たちの国の歴史の豊かさをみごとに反映している。
グスクは名護市の名護城(ナングスク)のように、もともとは土造りで、14世紀頃に琉球石灰岩を用いた石垣の城へと進化した。同時代の大和スタイルの城は、楠木正成(くすのき・まさしげ)が築いた千早(ちはや)城や赤坂城などのように土造りの山城で、大和スタイルの城が石垣を導入したのは16世紀。日本列島最初の石垣の城は、織田信長や豊臣秀吉のはるか以前のグスクなのである。
14世紀から15世紀にかけた石垣のグスクの発達は目覚ましく、今見る主要なグスクはこの時期に成立した。グスクは建物配置や石垣の壁で守った点に、東アジアの大陸の城との共通性をもつが、決して大陸の城の模倣ではなかった。
大陸の山城は土や石の壁で城を囲んで守ったが、壁と城内の平場は一体ではなかった。それに対し、グスクは基本的に城壁とそれで守った城内平場が一体化していて、本州などの大和スタイルの城と共通した。
つまり、グスクは東アジアの大陸の城と、大和スタイルの城の優れた点を併せ持つ城だったのだ。そして琉球を統一した尚(しょう)氏が、石垣のグスクの集大成として15世紀に首里城を築いた。首里城は安土城や大坂城、江戸城と並ぶ、もう一つの天下人の城だった。
首里城は正殿に至るまでに、歓会(かんかい)門、瑞泉(ずいせん)門など多数の門を連ねたが、これらは「枡形(ますがた)」と呼ぶ、門と広場を組み合わせた防御施設だった。中枢部を守った連続枡形の防御空間は、江戸城にも認められた。つまりグスクと大和スタイルの城は守りの方法にも共通性も備えた。そして、注目すべきは首里城が江戸城よりもおよそ100年も前に、複雑な連続枡形を実現した先進性である。
火災で失われた首里城の再建は、決して沖縄だけのことではなく、城を通じて私たちの国の歴史の多様性と豊かさを取り戻すことだと思う。一日も早い首里城の復興を願いたい。 (城郭考古学者・千田嘉博)
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【用語解説】首里城
標高100メートルほどの珊瑚礁の丘の上に築かれた琉球王朝の王府。15世紀に琉球を統一した尚巴志(しょうはし)が付近を首都に定めたころから、現在の規模になったとされる。1879(明治12)年の琉球処分で王国が途絶えた後も建物は残り、1925(大正14)年には正殿が当時の国宝指定を受けた。太平洋戦争ですべての建物が焼失。1958(昭和33)年に守礼(しゅれい)門が復元され、1992(平成4)年以降、正殿などの主な建物が甦った。2000(同12)年に城跡を含む「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」が世界文化遺産に登録された。
https://www.sankei.com/life/news/191118/lif1911180005-n1.html