今日の夜にテレビを見ていたら「同窓会、有名人、母校に帰る」と言う番組が放映されていた。テレビ界に活躍している有名人が思い出の母校に帰り在学中の思い出を語る番組である。風呂上りに偶々放映されていた番組で有ったが最後まで見てしまった。
私は以前のブログに書いたが小学校時代から大学に行けない事は解っていたので上の二人の兄が徳島県では名門の工業高校に入学し技術系の道に進んで居たので自分も当然の様に其の道を進む事は中学に入学する頃には既に決めていた。そして偶々中学生の後半にアマチュア無線の存在を知った事から電気の世界に興味を持った。当時、県南部には工業高校は無く私が中学2年生の時、阿南市に国立高専、と県立の工業高校が出来たが(古い話に成るが当時の阿南市は全国の13箇所の新産業都市に指定される予定で有ったので其の底辺となる技術者の養成目的で開校された)当時の国立高専の受験は学年で5番以内でないと受験できない空気があり私等は当然、門前払い、一級先輩も同期も何人か受験したが合格したのは学年で2番の成績の者だけでであった。当然に私の入学したのは県立の工業高校であったが余談だが家内側の二人の兄弟は高専の1回と3回生、時々に冠婚葬祭で顔を合わせるが未だに頭が上がらないHi
私の場合は入学動悸が電気を学ぶ過程でアマチュア無線が出来れば良いな?と思っていたし、工業高校を出た程度では所詮ブルー・ワーカー、学業で及ばなくても実世界に出れば人並みに競争していく自信は何故か不思議と持っていた。従って在学中は試験勉強など殆どせずに一夜漬け専門、自分でも呆れる位勉強はしなかった。当然成績は言うまでも無く散々たる状態で有ったが大手の会社に行く事など無理だし全然考えても居なかったし寧ろ三流程度が自分にとっては分相応で実力が出せる場と思っていた。
入学後は運動部にも所属せず帰宅組の生活、少し薄れかかって居た無線への思いが偶々1年の2学期に知り合った樫福君との縁で高校のアマチュア無線部を知り、入り浸ったのが運の尽き、無線の世界への更なる拍車が掛かった。個人では中々経済的に困難な開局は出来なくても高校の無線部でアマチュア無線を楽しめる事が解ると後は一直線に無線の世界に、のめり込んだ。無線部では良き先輩に恵まれ、もう一人の同級生の栗本君が加わり私の勝手に付けた「無線馬鹿三人組」が誕生、其の付合いは卒業まで続いた。三年間の在学中の学校行事(運動会や球技大会其の他)や無線部の三人組み以外の同級生との思い出等は殆ど思い出す事が出来ない。そして三人組みは其々のアマチュア無線を現在でも楽しんでいる。
私が在学中の電子工学の教本は大半が真空管の回路、トランジスターの事も少し勉強した様に思うが余り記憶にない。アマチュア無線の試験も確か真空管回路であった様に思う。卒業して実社会に出て1~2年からトランジスター回路が中心に成り在学中の勉強は私の職種には余り役に立たなかったがアマチュア無線を遣った過程での「遣って見なければ解らない、兎に角挑戦し取り組む中で習得する」アマチュア精神は随分役立った。其の意味では学業で得たもの寄りアマチュア無線を楽しみながら会得したもの方が確りと根底に有る様な気がする。高校在学中の無線三昧も決して無駄では無かったと言う事だろう?ただ在学中の思い出が無線三昧の日々しか無いと言うのも今と成っては残念な気もする。