今日、兄の「お十夜法要」に行って来ました。午前中に止みかけた雨が2時過ぎから本降りに成り私の実家から800m程は離れたお寺が今回は当番で雨の中を直ぐ上の兄と歩いて行きました。我家は此のお寺の檀家では無いのですが私が小学生の3~4年生の頃はこのお寺の本堂で遣っていた「そろばん教室に通って居ました。そろばん教室は夕方の5時頃からの始まりでしたが近隣の悪ガキが学校が終わると早々と境内に集合し遊び場と成って居ました。当時は古いボロ寺で檀家も少なかったのでしょう。多分そろばん教室に貸す場所代も貴重なお寺の収入に成って居たのでしょう。悪ガキが境内を走り廻っても小言一つ言わない子供が思うのもおかしいですが本当に人間が出来た住職で子供心に尊敬して居ました。反面、そろばん教室の先生は若い独身の女性でしたが結構な豪傑さんで「ごさんじく」太い幹の方は節が短く続いて居る1m程の竹を持って居て悪さをすれば其れを鞭代わりにして良く其れで打たれました。其れから先生が生徒の前で「そろばん玉」のはじき方を実演するための結構大きいそろばんが壁に掛けて有るのを見て「あの実演用のそろばん(横幅が1m50cm縦が60~70cm位ある)で本堂の廊下を滑ったらそろばん玉がローラーに成って面白いんでないかえ?」等と良からぬ事を思い付き遊んで居たら滅多に早く現れない先生が如何した訳か急に現れてにやっと笑みを浮かべたと思ったら首根っこを捕まれて其の「そろばん玉」で頭から背中じゅうをゴリゴリ遣られてポロリと涙がこぼれた事が有りました。其の時、先生が「天網恢恢疎にして漏らさずとは此の事を言うんじゃ憶えとけ」と言われ小学生低学年には少し難しい諺を自身の痛みをもって知る事と成りました。其れでも負けずに「女が そんな事をするから嫁に貰い手が無いんじゃ」と反論したら例の鞭を持って追っ掛けらました。気も強く口も悪い先生でしたが教える事には熱心で女女して居ない所が好きでしたが一回り以上も年上なのでひょっとしたらお十夜法要の対象者に成って居るのでは無いかと思います。私が工業高校の電気科に進んだ時に珍しい同じ苗字の同級生が居たので「わしが子供の頃に教えて貰ったそろばんの先生が女傑で本気で時々ボロボロにされたわ」と言っていたら「其れ僕の身内じゃ」と言われ「え~あの先生嫁に行ったか?」と聞いたら「おお~わしも良く偉い目に合わされたが物好きがおってな無事嫁に行けたわ」と大笑いしていた。
今日久し振りに訪れてみると子供時代の事が思い出され懐かしくて周辺を一回りしましたが本堂も新しく建替えられて居て昔の面影は全く無く、鐘楼だけが昔のままの状態でした。途中の道筋の家々も昔からのお金持ちの蔵と槙囲いだけは昔の侭でしたが其れ以外は全て建替えられて立派には成って居るのですが私としては思い出の景色が全て変り一寸残念な思いがしました。
「お十夜」は正式には「10日10夜別時念仏会」と言い今では浄土宗のお寺で多く行われて居る行事で平たく言えば「此の世で10日10夜念仏の行を行えば仏国土で1000年良い事をした事に勝る」と言う教え(無量寿経)をもとに阿弥陀如来の法恩に感謝しお念仏の尊さを感得する法要でお詣りになる貴方自身の修善の場であり其の善を先祖様に御回向する場所と言う事らしいです。平たく言われても凡人には良く解りませんが???実家の宗旨は真言宗???実際は11月5日から始まり11月15掛けて行われて居た行が段々と省略され現在は亡くなった初仏の在りし日の面影を思いながらご先祖様ともども御供養されては如何でしょうか。」即ち今年亡くなった人の回向をしようと言う事なのでしょう。
此の「お十夜の法要」の特徴は坊さんが喪主と亡くなられた人の戒名を読み上げると其々のご家族の方が賽銭箱やお坊さんの前にお金をばら撒く儀式で横から後ろからお金が飛んで来ます。此れは量が多い方が良いのか大半が1円玉ですが5円玉や10円玉も有りますが一人が50個から100個近くばら撒きますので今日は大半が1円玉でしたがその数は尋常な数では有りません。前の方に座ると後ろからバンバンお金が飛んで来ますので座った場所に寄っては大変な事に成ります。私の家内等は最前列に座って居ましたので家に帰り着いた時靴を脱ぐ為に屈むと1円玉が何個か頭の髪の毛の間からこぼれ落ちました。Hi 言葉は悪いですが私は余り善行を積んで居ないのでお金の方で御容赦して頂きましたが此のお金を撒いた事で兄が別の世界の良い所に行ければ良いのですが・・・・・