![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/28/9e/aed4f24b1f8355c3ae1867afd670cecd_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0b/fa/fd2377d3a07b2f31b96c5449fd57049f_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/58/86/9c8ca046f65c5109ddd73847fecb6576_s.jpg)
宝寿寺は愛媛県西条市小松町に在る寺院で。天養山(てんようざん)、観音院(かんおんいん)と号す。本尊は十一面観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第六十二番札所である。
聖武天皇の勅願に寄って天平年間(729年~748年)大国主大神の信託に寄り大国主大神ら三神を白坪の里(現在地より約1Km北に中山川があり、其の北岸辺り)に奉斎したという、其の際、道慈律師に寄って、其の法楽所として当時は傍らに建立され金剛宝寺と名付けられた。
大同年間(806年~810年)空海(弘法大師)が逗留し光明皇后を模写した十一面観世音菩薩像を刻んで本尊とし、また、此の頃 国司だった越智氏の夫人が難産で空海に祈念を頼み、空海は境内の玉ノ井の水を加持し越智夫人に与えたところ、夫人は玉の様な男子を無事出産した。此れに因み、寺名を宝寿寺に改め、本尊は安産の観音として信仰を集めるように成った。
天正13年(1585年)羽柴秀吉の戦禍に寄って荒廃したが寛永13年(1636年)宥伝上人に寄って当寺だけ新屋敷の現在地付近に移されて再興されたので、巡拝者は白坪の神社に札を納めた後、当寺で納経を行なう事と成ったが、其の後の延宝7年(1679年)藩主の命に寄り洪水を避ける為に今度は神社が当寺の横に移転された。
明治初期の廃仏毀釈に寄って当寺は神社と分離され廃寺となったが、大石龍遍上人に寄って明治10年(1877年)神社の南隣に移し再興され大正10年(1921年)には予讃線鉄道工事に伴い更に南側の現在地に移転したという。
私達が此の寺を巡礼した時には全く知らなかったのだが納経し納経所で記帳を御願いした処、他の札所よりも料金が高かったので驚いたが、此の寺だけ省く事は出来ずに仕方なく支払ったが不思議に思って帰ってからインターネットで調べたら八十八箇所札所の団体である霊場会と揉め事が在り裁判沙汰に成って此の寺は団体組織から脱会して居る(裁判では勝訴)らしく現在は別の場所に霊場会(八十八箇所霊場の団体会)の作った納経所が在るらしい。従って此の段階では第62番札所が二箇所在る事に成って居る。此の日私達は巡礼の効率を上げる為に札所を順番には回らなかったので其の事を知らずに宝寿寺に直接に向かったが境内にお遍路さんの姿が全く見当たらなかったので不思議な感じはしたのだが・・・・・・然し私は俄か仕立ての礼拝所(納経所)で本来あるべき御本尊は如何したのか?とか、お大師さん所縁で無い礼拝所で納経するのも如何なものかと疑問を感じた。此の問題は寺同士の揉め事で千数百年に渡る弘法大師所縁の寺を巡る私達巡礼者には何ら関わりのない事、(確かに納経時間の問題は在る様だが本当に純粋に、お大師さんを慕い所縁の寺を回る者にとっては此れは然程大きい問題では無い)私としては、どちらを支持するわけでは無く、仏の道に進み信者を導く立場の人達の集団が何故、円満な解決が出来なかったのか?現在の状況は如何なものか?と呆れると同時に弘法大師が此の現状を嘆いているのでは感じた。