前神寺は愛媛県西条市洲之内にある真言宗の寺院で石鎚山、金色院と号す。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所霊場・第64番札所で日本七霊場の一つ、霊峰石鎚山の麓に位置する。
西日本最高峰・石鎚山の七合目の標高1400mにあり、発祥より千年法灯を守ってきた山岳寺院であったが、江戸時代以降の変遷に寄り麓の西(標高50m付近)に本拠を移すも、其の後の神仏分離令に寄り廃寺の憂き目にあったが苦難の末、再興し現在の隆盛に繋げている。本堂前での柴燈護摩は年三回ある。(節分、山開きの日と閉山の日)又不動護摩は、管長自ら導師として元旦の年明け直後に護摩堂と続いて奥前神寺とで行なわれ、又毎月20日夜に護摩堂でも催行されて居る。
寺伝に寄ると役の行者(役小角)が石鎚山の頂上を目指すも余りの厳しさで諦めて下山しようとした時に、斧を砥石で磨く老人に出会い、行者が問うと曰く「之は磨いて針にするのだ。」と、此の言葉に行者は挫折しては成らない。「成せば成る」と自分に言い聞かせ再び頂上に向かい、遂には登り着き修行を続けると釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するため合体し石鎚蔵王権現と成って現れたを感得した。其の後、行者が当地(石鎚神社中宮成就社のある場所)まで下山して来たとき「我が願い成就せり」と云ったといわれる。そして其の尊像を彫って祀ったのが当寺の開基とされて居る。
後に石仙(しゃくせん)が当地に堂を建て常住舎と云われた。そして其の弟子の寂仙が山頂への登山道を整備した。桓武天皇(782年~805年)が病気を患った時、常住舎で平癒の祈願を成就した事に寄って当地に七堂伽藍が建てられ勅願寺とし「金剛院前神寺」の称号を下賜され、石仙には菩薩号を賜ったと伝えられる。更に空海(弘法大師)が19歳(793年)の時に石峯(石鎚山)に誇りてと「三教指帰」に自ら記されているように当山で修行をし、後年、当寺を巡錫している。また文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かったことでも知られ当寺に1591年に伊予の領主と成った福島正則が参籠した。其の後1610年に豊臣秀頼が神殿を修築、福島正則が其の普請奉行と成る。そして西条藩主・小松藩主も厚く遇した。
江戸時代の初期には、札所としての便宜をはかる為に麓の橘郷に出張所として里寺納経所として通称里前神寺を設置したため、本寺を通称として奥前神寺と呼ぶように成った。真念の「四国遍路道指南」には里前神寺には前札所で本札所は麓より12里の石づち山前神寺(奥前神寺)と書かれて居て、寂本の「四国遍礼霊場木」には奥前神寺は本堂護摩堂其の他、堂宇相連なり本社は拝殿釣殿奥殿の重層で多数の摂者があり、と壮大な伽藍であった事を表している。なお、奥前神寺から山頂弥山への登拝は6月1日から3日の三日間しか許されて居なかった。1657年西条藩主・一柳直興が里前神寺に仏殿を建立し、西条藩主に成った松平家の信仰も集め松平頼純は寛永10年(1670年)東照宮を里前神寺にまつり。高三石を寄附し、三葉葵の寺紋を許した。1752年には徳川家重が1778年には徳川家治が、里前神寺に厄除け命じたとの記録がある。
此の日、惣門をくぐって長い参道を進み左に折れて薬師谷川を渡ると右手に手水場、鐘楼が左手に庫裏、納経所がありそして右に折れると左に大師堂、穴薬師が右手には金比羅堂、修行大師像、水子地蔵菩薩が像が並び、浄土橋を渡ると右に水が滴り落ちる、お滝不動明王像、石段を上がると直ぐに護摩堂、薬師堂があり、最も奥に入母屋造りで屋根は青い銅板葺きの其れは立派な此の日訪れた札所の中では一番荘厳な本堂が建って居た。また参道の鬱蒼ととした杉・檜の木立や古い灯籠が何基も立並ぶ境内には老樹が生茂り、深山幽谷の佇まいを見せていた。