パオと高床

あこがれの移動と定住

イタロ・カルヴィーノ『柔かい月』脇功訳(河出文庫)

2008-01-13 20:45:36 | 海外・小説
カルヴィーノの小説を読むのは三冊目だ。最前衛を駆け抜けたこの人の小説は本当に読んで楽しい。『パロマー』の極限の手前という感じはするが、方法的意図は、この作品の方が刻み込まれているのかもしれない。

三部構成で自在に小説空間、時間を行き来していく。そして、小説の境界を拡張していこうとするのだ。
第一部ではQfwfq氏が登場し、地球と月との関係、地球の起源、進化の途中鳥類によってもたらされた進化の結節、鉱物の世界、生命の誕生を語り尽くす。語る相手が存在し、語られる内容は宇宙史、生命史に及ぶ。それが二部になると細胞の世界になってしまう。生殖細胞そのものになったかのような語りになり、生と死の原初的な当事者になる。ここまでは未来的な風貌を示しながら、大きな過去の物語が語られる。
ところが、語られる過去の地点は、その時の、<今まさに>なのである。小説が読者との間に同時性を持つものだとすれば、描写されている地点が常に今なのは当然なのかもしれない。その<今まさに>には、始まりとしての起点や時の流入があり、そこからの時の流出がある。ただ一貫した時間の貫流があるわけではない。それはむしろ環流の可能性がありながら、選ばれた一つの流れになる状況を描き出しているかのようだ。
すると、次に、その<今まさに>を現在で語る物語が必要になる。そこに三部のティ・ゼロが現れる。「ティ・ゼロ」は瞬間の現在を捉える小説だ。それは心理分析よりも状況説明に比重が置かれる。その、まさに、ライオンに襲われようとする時間の一点において、時のターミナルとしての現在を語り尽くす。
そして、「夜の運転手」では意識の流れに集中した小説に転じる。存在が意識になってしまったかのようだ。ここでは、存在の逆説とでもいえるものが語られる。状況を打開しようとする行為が、状況に閉じこめる現況を生むとでも言えようか。しかし、彼は書く。自らが「語られることそれ自体と同化してしまいたい者」であれば、「光の信号」と化して「走り続ける」ことだろうと。「ここ以外には、もう私たちの信号を受信し、理解できる者はいないからである」と。そう、語りの中に語られる存在はある。それが小説の宿命であり、力であると告げているようだ。
そして、最後に「モンテ・クリスト伯爵」が置かれる。脱獄の地図と小説の地図を一致させ、外部と内部の転換と同義を書き、外へが内奥へ向かうと考え、広がる境界の速度と掘削する速度の競走に絶望し、イフ島をセント・ヘレナと結びつけることが可能な小説の飛躍を時の様々な一致への小説の力に置き換えながら、一編の小説が小説論に化していく。それがそのまま作家としての姿勢を示し、『柔らかい月』を語ってもいる。そして、「その可能性を見つけ出すには架空の砦と実在の砦との一致しない点を探し当てればよいのだ」と結ぶ。この人の反リアリズムの徹底と想像力の持つ創造的リアリズムへの宣言が見て取れるのだ。これは、僕が好きな小説のひとつ『見えない都市』を貫くものでもあると思う。

ただし、こんな小難しさとは関係なく、カルヴィーノは楽しいのだ。どこからでも小説を立ち上げていく想像力の楽しさが伝わる。「ティ・ゼロ」は古代文明の壺絵のようなライオンに襲われる射手から状況小説が作られるし、「追跡」は本人が車の渋滞に巻き込まれて、その渦中で発想、創作されたのではないかと思わせる。「柔かい月」の柔らかい月というイメージも、生殖細胞の染色体の分裂の描写なども、各編それぞれ、その奇想が楽しいのだ。

あっ、この人の『文学講座』もよかった。



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