太平洋戦争末期の昭和19年、私の伯父家族(30代夫婦と4人の子供)が北九州の戸畑に居住していた。学童疎開があり、郷里鹿屋市から20歳の叔母が手伝いに。6月19日、食事中に空襲警報が発令された。B29が爆弾投下を始め、壕へ非難したが、出入り口を爆弾で塞がれ、全員死亡した。市葬になり、私の父と隣人で遺骨を受け取り、大勢の方に見送られて、戸畑駅で別れのあいさつ。実家で待つ祖母は、気も動転し、心の葛藤と闘いながら喪主を務めた。
神棚の遺骨にセミがとまり、案ずることもなく眺めた5歳の私。71年前が鮮明によみがえる。
肝付町 鳥取部京子 2015/11/22 毎日新聞鹿児島版掲載
神棚の遺骨にセミがとまり、案ずることもなく眺めた5歳の私。71年前が鮮明によみがえる。
肝付町 鳥取部京子 2015/11/22 毎日新聞鹿児島版掲載