風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

小豆坂界隈は昔も今も戦場 314号

2008年07月02日 10時27分50秒 | 随想
世は戦国時代である。西の尾張は織田家、東の駿河は今川家。中間の三河の岡崎城に松平家がある。

500年前の話である。松平のお家騒動の時、領土拡大の野心を持った、織田信秀と今川義元が岡崎に出兵、矢作川近くの小豆坂で戦があった。ほんの500m程の新興住宅街の竜美丘に住んでいる。

刈谷城主は、徳川家康の母親で岡崎城主の妻・於大の方の兄でありながら松平氏と絶縁し、今川氏を離反して織田氏に従った。

岡崎城主は今川家との関係をさらに緊密にするため、徳川家康を人質として駿府城に送ることにしたが、田原城主の裏切りによって織田氏に引き渡される。その頃、織田信長は斎藤道三の娘・濃姫を女房とする。

清洲城主は奪取した安祥城を橋頭堡として、岡崎城を武力で攻略することをめざし、4000余の兵を率いて矢作川を渡り、上和田に着陣した。今川義元は小豆坂の合戦で勝利する。

清洲城主の死後、織田信長の兄弟喧嘩の時、尾張・三河国境地帯の鳴海城・笠寺城が今川氏の勢力圏になった。

兄弟喧嘩を収めた織田信長は、桶狭間の戦いで宿敵の今川義元を殺害する。尾張の織田信長と三河の徳川家康は軍事同盟を結んで、長らく続いた尾張・三河国境地帯に平和が訪れた。

徳川家康の生誕地は、三河岡崎だが、生涯を通じて、静岡県を生活の拠点としている期間が長く、尾張の織田信長の許に人質として過ごすなど、三河岡崎については、幼少期と桶狭間後10年と、意外にも短い在住である。

経済戦国時代の小豆坂界隈は、マンション建設の野心が渦巻いている。高層マンションの建築ラッシュである。高齢の住民は黄色い旗印を立てて戦うが、国民の代官である役人は、建築を許可する。何時の時代でも、権力者の犠牲になるのは弱い立場の人間で、昔は百姓、今は老人である。


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