風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

不老長寿は老人思想 202号

2007年11月26日 09時40分44秒 | 随想
先日、仲間と恒例となったカラオケ教室に行ったのである。酒を飲み、演歌を歌うのであるが、突然心臓の動悸が激しくなり、熱唱を中断した。死の恐怖を実感した。酒を控えないといけない。

若い時は、死にたいけど死ねないと思うし、老境に入ると、死にたくないけど死ぬのだと思う。サミュエル・ウルマンの「青春」に述べられている。青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。

パスカルのパンセから「劇の他のすべての幕はどんなに美しくても、最後の幕は血なまぐさい。ついには頭上に土をふりかけられ、それで永久におさらばなのだ」

「牛を賣る者あり。買ふ人、明日その値をやりて牛をとらんといふ。夜の間に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、賣らんとする人に損あり」と語る人あり。吉田兼好の徒然草の九十三段の書き出しである。

健康で人生を謳歌している時は、死を自分の問題と考えないで、物欲の世界に埋没している。肉親の死に、友人の死に、ペットの死に直面した時に、自分の死に突然気がつくのである。そして自分だけは死にたくないと思い、若さを保ち、健康に配慮しだすのが還暦を過ぎてからである。不老長寿はやはり老人に似合っている。

そして金があれば不可能は無いとする金権主義の反省が、宗教に向かわせる。私は仏教研究で心の平安を求めようとした。
諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)自浄其意(じじょうごい)是諸仏教(ぜしょぶつきょう)
「もろもろの悪を作すこと莫く、もろもろの善を行い、自ら其の意(こころ)を浄くせよ、是がもろもろの仏の教えなり」は七仏通誡偈で、釈迦以前に存在したとされる六人の仏と、釈迦を含む七人の仏(過去七仏)をたたえる言葉である。

「意(こころ)を浄くせよ」の部分の方法論で、浄土教・禅・密教に分かれたのだろうと個人的に納得しているのである。
浄土教は極楽浄土の阿弥陀様に絶対的にお任せする。禅は心に「こだわり・とらわれ・かたより」がない空を体得しようとする。密教は天然自然の営みに同化しようとする。浄土教はキリスト教やイスラムの単神教に似ているし、密教は神道に似ている。自分が仏になろうとする禅が仏教的であるが、何でも有りが多神教の仏教である。

食料を得るために必死で働き、ある日ぽっくり死んでいる、すずめの様な生き様が羨ましいと思っているのである。奈良県斑鳩の吉田寺はぽっくり寺で、参拝すると苦しまずに死ねると言われ、参拝した母親は八日間入院して死んだ。信心は大切なことで、自己責任で選択しなければならない。

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