風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

判官びいき 37号

2007年02月26日 08時44分19秒 | 随想
宗教的なエコヒイキは、金持ちを金持ちとしてふさわしくないように取り扱うのでなく、貧しい人を金持ちと同じように取り扱うことである。世間のエコヒイキには、二つの種類がある。一つ目は、金持ちを特別な椅子に座らせ、金持ちを他の人より高めることである。二つ目は、貧しい人を普通の椅子ではなく、床に座らせるということで、貧しい人を低くしてしまう
愛読する小川宏助教授の発想辞典の話を引用すれば「女子バレー、シドニー最終予選の日本対オランダ戦。結果は3-1で日本が逆転勝ち。第2セット中盤、12点付近での熊前のサーブ、オランダコートエンドラインの50センチも外に落ちたボールをラインズマン(もちろん日本人)が「イン」のジャッジ。オランダの選手、監督は一斉に抗議しましたが主審はラインジャッジを認め日本のポイントになりました。審判のエコヒイキはミスジャッジと根本的に異なります。だって審判が下手でミスジャッジが多かったとしてもミスジャッジは両チームに同じ確率で起こると考えれば条件は同じですが、エコヒイキは一方的に有利(相手は不利)になるわけですからもはや対等な勝負ではありません。あのジャッジ以降、オランダ側は多少アウトと思われるサーブも取らざるを得なくなり、実質的に日本よりも広いコートで試合をしていたと思われます。あのジャッジ以降、オランダ頑張れって応援しちゃいました。判官びいきです」
個人的な損得・利害・好き嫌いなど相対的な判断がエコヒイキである。合議で決めたルールに従った絶対的な判断が審判である。総論賛成・各論反対がエコヒイキである。
「味噌糞」という言葉がある。味噌も糞も遠くから見れば同じに見える。しかし近くで詳細に調査すると、違いは歴然である。正しい歴史認識で決めたルールに従った絶対的な判断に従えば、味噌は台所に、糞は便所に隔離するのが正しいのである。可愛がっている犬の糞を台所の冷蔵庫に保存し、嫌いな人からの贈り物の味噌を便器に保存したら、味噌は糞になってしまうが、糞は糞のままである。すべてが糞になってしまう。この話は臭い。
数は力という政治集団の永田町論理があり、皆で渡れば怖くないという大衆心理があり、道理に外れ、修正されないなら抵抗する純な正義漢が登場する。数の暴力に抵抗して、七転八倒する頑固者を応援するのが伝統的な日本の「判官びいき」なのだ。判官とは悲劇の英雄源義経である。そして水戸黄門は何処に行ってしまったのか。教育方針が欧米の思想を模倣したから、心の教育が消滅してしまった。姑息な手段を用いたスポーツの勝利には感動が無く空しい。負けるが勝ちで過去の敗戦の屈辱をバネに「東洋の魔女」が金メダルに輝き、涙があった。氷山の海中には巨大な氷があるように、栄光は眼に見えない精進努力の一過性の結果に過ぎない。人種の坩堝になるであろう日本は、古き良き日本を主張しないと独立国日本の存在理由はなくなる。

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