湯河原温泉に宿泊した翌日は、「箱根山は天下の険」か「いざ鎌倉」かの行先論争に敗北し、女房の希望の鎌倉で紫陽花を観賞することにした。朝食を済ませ、女房の運転で湘南の海岸道路を走行し、様変わりの激しい江ノ島を通過して、源頼朝・義経など鎌倉武士の守護神である鶴岡八幡宮を参拝した。中学時代の修学旅行で訪れた経験があるが、鎌倉大仏との位置関係等の記憶が曖昧である。
直ぐ近くの、臨済宗建長寺派の大本山である建長寺のビャクシンの巨木が見たくて徒歩で訪ねた。巨福山(こふくさん)建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。開山(初代住職)は南宋の禅僧蘭渓道隆である。鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)の第一位の名刹である。
『本来の自分を失えば、すべての事柄も見失ってしまう。こころの真髄を見つければ、人生の道も見えてくる』
境内のもっとも奥の山の中腹にある建長寺の鎮守である半僧坊大権現を祀るお堂を経由して、見晴台まで365段の石段を登る事にした。普段の運動不足の影響で、過酷な道中になった。膝が痛むし、下から100段先を見上げると、引き返したくなるのであるが、若い女房に励まされ、登る事にする。
コツを会得したのである。先を見てはいけない。石段を見て、一段一段一段を365回繰り返すと見晴台に到着する。水前寺清子の唄「365歩のマーチ」を心で唄い、マイペースで歩けば、結果は付いてくる。見晴台からは富士山が遠望でき、建長寺伽藍や鎌倉市外を俯瞰できる。汗の吹き出た体に爽やかな風が心地よく、空腹時の食事のように、心に栄養がゆき渡る心地である。
ここに祀られる半僧坊大権現は1890年に当時の住持であった貫道禅師が静岡県浜松市引佐町奥山・方広寺から勧請した神で、火除けや招福に利益があるという。半僧坊大権現とは、後醍醐天皇皇子の無文元選禅師(方広寺開山)の元に忽然と現われ、無理やり弟子入りした白髪の老人で、神通力を持っており、無文禅師が死去するとその老人も姿を消したという。半僧坊へ上る石段の途中には天狗の像がある。
権現は神仏習合思想による神の表現で、明神は日本古来の神道に由来する。徳川家康の神号をめぐって、南光坊天海(天台宗の僧)の「大権現(薬師如来が権に現れた)」案と、金地院崇伝(臨済宗の僧)の「大明神」案をめぐる論争は有名で、豊臣秀吉は「豊国大明神」で、徳川家康は「東照大権現」である。織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちの歴史があり、その家臣の秀吉の明神を家康に使わないことが、天海和尚の信長に対する怨念の清算となった。薬師浄土が東方浄瑠璃浄土で家康は東京で共に東である。
鶴岡八幡宮駐車場の管理人に、紫陽花で有名な明月院の道順を尋ねた。明月院には駐車スペースが無いので、円覚寺に車を止め、徒歩で明月院を目指したのであるが、JR東日本北鎌倉駅の近くなので、電車の訪問者が列を成し、門前は大渋滞である。青色の紫陽花、数千本で統一した庭園は伝統の美意識なのだろう。花菖蒲園と合わせて2時間を越える散策であった。
円覚寺駐車場の管理人は、三河ナンバーで遠来の客で有る事を考慮したのだろうか、駐車料金を半額にしてくれた。駐車料金は高過ぎる。お寺の関係者は慈悲深いのである。長谷寺・高徳院大仏の道案内を尋ね、世間話をした後で、案内地図に記載の無い渋滞を避ける、秘密の生活道路・抜け道を内緒で教えてくれたのである。我々夫婦が仏教徒に見えたのか、生活困窮者と感じたのか不明であるが、通常は教えない様である。普段学習している仏教哲学のオーラが出ていたのだろうか。鎌倉仏教の己を捨てて相手の立場で奉仕する臨済禅の実践と感じた。しかし長谷寺・高徳院大仏の参拝は混雑を理由に割愛した。
風来坊の三男と夢見る三女の旅は気紛れである。湯河原温泉の宿「花長園」は予約したが、それ以外は白紙である。鎌倉の紫陽花は現地の情報で知り、訪ねたのである。
「花より団子」の諺があるが、ロマンより現実を、精神主義より物質主義ということであろう。ご無沙汰している逗子の兄、横浜の兄を訪ねることも可能であったが、これまた割愛した。「兄より紫陽花」で現実を逃避して、幽玄の世界に遊んだのである。
追記 帰宅して調べたら郊外の駐車場から電車に乗り換えることが出来る。
七里ガ浜パーク&ハレールライド:七里ガ浜の駐車場に車を停めて、江ノ電に乗り換えて市内へ入る。(1,500円、パーキング5時間、江ノ電等フリー切符2人分込み)
由比ガ浜パーク&バスライド:由比ガ浜の駐車場に車を停め、バスで市内に入る。(1,600円、パーキング4時間、バスのフリー切符2人分込み)
直ぐ近くの、臨済宗建長寺派の大本山である建長寺のビャクシンの巨木が見たくて徒歩で訪ねた。巨福山(こふくさん)建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。開山(初代住職)は南宋の禅僧蘭渓道隆である。鎌倉五山(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)の第一位の名刹である。
『本来の自分を失えば、すべての事柄も見失ってしまう。こころの真髄を見つければ、人生の道も見えてくる』
境内のもっとも奥の山の中腹にある建長寺の鎮守である半僧坊大権現を祀るお堂を経由して、見晴台まで365段の石段を登る事にした。普段の運動不足の影響で、過酷な道中になった。膝が痛むし、下から100段先を見上げると、引き返したくなるのであるが、若い女房に励まされ、登る事にする。
コツを会得したのである。先を見てはいけない。石段を見て、一段一段一段を365回繰り返すと見晴台に到着する。水前寺清子の唄「365歩のマーチ」を心で唄い、マイペースで歩けば、結果は付いてくる。見晴台からは富士山が遠望でき、建長寺伽藍や鎌倉市外を俯瞰できる。汗の吹き出た体に爽やかな風が心地よく、空腹時の食事のように、心に栄養がゆき渡る心地である。
ここに祀られる半僧坊大権現は1890年に当時の住持であった貫道禅師が静岡県浜松市引佐町奥山・方広寺から勧請した神で、火除けや招福に利益があるという。半僧坊大権現とは、後醍醐天皇皇子の無文元選禅師(方広寺開山)の元に忽然と現われ、無理やり弟子入りした白髪の老人で、神通力を持っており、無文禅師が死去するとその老人も姿を消したという。半僧坊へ上る石段の途中には天狗の像がある。
権現は神仏習合思想による神の表現で、明神は日本古来の神道に由来する。徳川家康の神号をめぐって、南光坊天海(天台宗の僧)の「大権現(薬師如来が権に現れた)」案と、金地院崇伝(臨済宗の僧)の「大明神」案をめぐる論争は有名で、豊臣秀吉は「豊国大明神」で、徳川家康は「東照大権現」である。織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちの歴史があり、その家臣の秀吉の明神を家康に使わないことが、天海和尚の信長に対する怨念の清算となった。薬師浄土が東方浄瑠璃浄土で家康は東京で共に東である。
鶴岡八幡宮駐車場の管理人に、紫陽花で有名な明月院の道順を尋ねた。明月院には駐車スペースが無いので、円覚寺に車を止め、徒歩で明月院を目指したのであるが、JR東日本北鎌倉駅の近くなので、電車の訪問者が列を成し、門前は大渋滞である。青色の紫陽花、数千本で統一した庭園は伝統の美意識なのだろう。花菖蒲園と合わせて2時間を越える散策であった。
円覚寺駐車場の管理人は、三河ナンバーで遠来の客で有る事を考慮したのだろうか、駐車料金を半額にしてくれた。駐車料金は高過ぎる。お寺の関係者は慈悲深いのである。長谷寺・高徳院大仏の道案内を尋ね、世間話をした後で、案内地図に記載の無い渋滞を避ける、秘密の生活道路・抜け道を内緒で教えてくれたのである。我々夫婦が仏教徒に見えたのか、生活困窮者と感じたのか不明であるが、通常は教えない様である。普段学習している仏教哲学のオーラが出ていたのだろうか。鎌倉仏教の己を捨てて相手の立場で奉仕する臨済禅の実践と感じた。しかし長谷寺・高徳院大仏の参拝は混雑を理由に割愛した。
風来坊の三男と夢見る三女の旅は気紛れである。湯河原温泉の宿「花長園」は予約したが、それ以外は白紙である。鎌倉の紫陽花は現地の情報で知り、訪ねたのである。
「花より団子」の諺があるが、ロマンより現実を、精神主義より物質主義ということであろう。ご無沙汰している逗子の兄、横浜の兄を訪ねることも可能であったが、これまた割愛した。「兄より紫陽花」で現実を逃避して、幽玄の世界に遊んだのである。
追記 帰宅して調べたら郊外の駐車場から電車に乗り換えることが出来る。
七里ガ浜パーク&ハレールライド:七里ガ浜の駐車場に車を停めて、江ノ電に乗り換えて市内へ入る。(1,500円、パーキング5時間、江ノ電等フリー切符2人分込み)
由比ガ浜パーク&バスライド:由比ガ浜の駐車場に車を停め、バスで市内に入る。(1,600円、パーキング4時間、バスのフリー切符2人分込み)