ヒロシマでは69回目のその日が巡ってきました。
街の表通りでは、様々な団体の平和行進が通り、「核兵器反対」「核反対」の声
が響いているように思えます。
今の広島の街並や建物や橋や・・それらの前にその被爆当時の姿を伝える写真板
が設置されています。「原爆被災説明板」と呼ばれ、現在45基があるそうです。
「見せたくない・・」「見られたくない・・」という気持ちも若干は働いたのでしょうか・・
比較的目立たない場所に置かれたものも多く、近くの人に聞いても
「そがいなもの あったかのー・・」という返事がよく返ってきます。
でも、被爆の実態を示す証言の一つには違いないでしょう。
この街をこのように破壊してしまったのか・・その元凶は何だろうか・・
それらに至る根元は、現在もまた蠢いているかもしれないではないか・・
それらを見極めるために、決して忘れてはならないものの一つだという気がします。
私は爆心地近くから北へ南へ逃れていった被災者の道を辿って、その殆どを見て
まわりました。そのうち半数くらいをここに紹介したいと思います。3回に分けて。
(私の写真からは読み取ることが難しい説明板に付されたエピソードの一部は
「青字」で示しています。)
なお、コメント欄は閉じさせていただきます。
1.爆心地
2.猿樂町通り周辺
被爆2ヶ月後に撮られた衝撃を受ける写真です。
原爆ドーム周辺の植込みのなかに隠れるように立つ説明板。気付く人も少ない
ようです。板に付けられたエピソードには次のようにあります。
「この地域一帯は、藩政時代からの城下町として、能楽(猿楽)師、細工師、医師を
はじめ大小の商家が軒を並べてにぎわっていました。 1945( 昭和20) 年8 月6 日
午前8 時15分、人類史上初めての原子爆弾が細工町の島病院の上空約580メートル
でさく裂し、爆心直下のこの一帯は、人も街並みも全滅しました。焼け跡には、
広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)だけが象徴的な姿をさらしていました。
3.原爆ドーム(元広島県産業奨励館)
この建物はチェコの建築家ヤン・レツルにより設計、大正4年に完工したもの。
近づいて見れば、この建物が生きていた頃の「念」のようなものが残っているということを
感じます。
原爆ドーム前で、来訪者にヒロシマの思いを語る女子高生
4.中島地区(爆心地から100~700m)
「中島地区(現在の平和記念公園一帯)は、幕末から明治・大正・昭和にかけて
市内有数の繁華街としてにぎわっていました。1945(昭和20)年8月6日、爆心地
から至近距離にあったこの地区は、全滅状態となりました。この日は、多数の
学徒と地域や職場から動員された人々が現在の平和大通り周辺で、建物の疎開
作業のため動員されていました。顔の判別もつかぬほど焼けただれ、水を求めて
川岸に集まった生徒たちは、全員が死亡しました。」
5.本通り商店街(爆心地より250m)
6.帝国銀行広島支店(爆心地より360m)
「この建物は,1925(大正14)年に三井銀行広島支店として建てられました。
猛烈な爆風のため,屋根は抜け落ち,爆心地に近い北西側の壁も崩れ落ちました。
戦後修復され,現在はベーカリーとして利用されています。」
7.福屋百貨店(爆心地より710m)
「鉄骨鉄筋コンクリート造地上8階、地下2階建の建物は、原爆の炸裂による強烈な
爆風と震動を受け、すべての施設、器具類が吹き飛ばされました。また、全館が
炎の海と化し、建物の中にいた多くの人が亡くなり、建物は骨組みと外郭だけを
残すだけになりました。」
街の表通りでは、様々な団体の平和行進が通り、「核兵器反対」「核反対」の声
が響いているように思えます。
今の広島の街並や建物や橋や・・それらの前にその被爆当時の姿を伝える写真板
が設置されています。「原爆被災説明板」と呼ばれ、現在45基があるそうです。
「見せたくない・・」「見られたくない・・」という気持ちも若干は働いたのでしょうか・・
比較的目立たない場所に置かれたものも多く、近くの人に聞いても
「そがいなもの あったかのー・・」という返事がよく返ってきます。
でも、被爆の実態を示す証言の一つには違いないでしょう。
この街をこのように破壊してしまったのか・・その元凶は何だろうか・・
それらに至る根元は、現在もまた蠢いているかもしれないではないか・・
それらを見極めるために、決して忘れてはならないものの一つだという気がします。
私は爆心地近くから北へ南へ逃れていった被災者の道を辿って、その殆どを見て
まわりました。そのうち半数くらいをここに紹介したいと思います。3回に分けて。
(私の写真からは読み取ることが難しい説明板に付されたエピソードの一部は
「青字」で示しています。)
なお、コメント欄は閉じさせていただきます。
1.爆心地
2.猿樂町通り周辺
被爆2ヶ月後に撮られた衝撃を受ける写真です。
原爆ドーム周辺の植込みのなかに隠れるように立つ説明板。気付く人も少ない
ようです。板に付けられたエピソードには次のようにあります。
「この地域一帯は、藩政時代からの城下町として、能楽(猿楽)師、細工師、医師を
はじめ大小の商家が軒を並べてにぎわっていました。 1945( 昭和20) 年8 月6 日
午前8 時15分、人類史上初めての原子爆弾が細工町の島病院の上空約580メートル
でさく裂し、爆心直下のこの一帯は、人も街並みも全滅しました。焼け跡には、
広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)だけが象徴的な姿をさらしていました。
3.原爆ドーム(元広島県産業奨励館)
この建物はチェコの建築家ヤン・レツルにより設計、大正4年に完工したもの。
近づいて見れば、この建物が生きていた頃の「念」のようなものが残っているということを
感じます。
原爆ドーム前で、来訪者にヒロシマの思いを語る女子高生
4.中島地区(爆心地から100~700m)
「中島地区(現在の平和記念公園一帯)は、幕末から明治・大正・昭和にかけて
市内有数の繁華街としてにぎわっていました。1945(昭和20)年8月6日、爆心地
から至近距離にあったこの地区は、全滅状態となりました。この日は、多数の
学徒と地域や職場から動員された人々が現在の平和大通り周辺で、建物の疎開
作業のため動員されていました。顔の判別もつかぬほど焼けただれ、水を求めて
川岸に集まった生徒たちは、全員が死亡しました。」
5.本通り商店街(爆心地より250m)
6.帝国銀行広島支店(爆心地より360m)
「この建物は,1925(大正14)年に三井銀行広島支店として建てられました。
猛烈な爆風のため,屋根は抜け落ち,爆心地に近い北西側の壁も崩れ落ちました。
戦後修復され,現在はベーカリーとして利用されています。」
7.福屋百貨店(爆心地より710m)
「鉄骨鉄筋コンクリート造地上8階、地下2階建の建物は、原爆の炸裂による強烈な
爆風と震動を受け、すべての施設、器具類が吹き飛ばされました。また、全館が
炎の海と化し、建物の中にいた多くの人が亡くなり、建物は骨組みと外郭だけを
残すだけになりました。」