枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

ヒロシマの原爆被災説明板を訪ねる  その3

2014-08-10 | ヒロシマ
     15.広島瓦斯株式会社跡(爆心地より250m)






     16.日本銀行広島支店(爆心地より350m)
          「1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、原爆の強烈な爆風により、外形は
          残ったものの内部は破壊され、42人の犠牲者が出た。 市内の金融機関はほとんど壊滅
          したため、日銀の内部を仕切り各銀行が窓口を設け、8月8日から業務を開始した。」














     17.袋町国民学校(現袋町小学校)(爆心地より500m)











  袋町小学校の一画に残る原爆資料館については以前に紹介しました。
          「被爆校舎の壁の中に」



     18.中国配電株式会社(爆心地より680m)
          「1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、原爆の爆発と同時にこの鉄筋コンクリート
          5階建の建物は外形だけを残して破壊炎上し、内部は焼失した。
          強烈な爆風により、槍のようにとがった鉄の窓枠で頭を突き刺れたり背中をつらぬかれて
          吹っ飛ばされたりして約150人の犠牲者が出た。
          写真説明:爆風で布きれのようにちぎれた北側の雨どい 米国返還写真/
          被爆後の中国配電本社ビル 米国返還写真」








     19.広島赤十字病院(爆心地より1.6k)







          爆風で曲がった窓枠(建物一部の保存)








          この赤十字病院の白い建物には、私は特別の思いがあります。私の通った小学校
          はこの病院の近くで、歩いて通学する道で毎朝見ていましたし、「身体検査」の時
          は、曲がった窓枠のある階段を通って長い廊下を歩いたものでした。
          すべてのものがとても怖かった想いがあります。




     21.広島電鉄株式会社(爆心地より1.9k)






     22,御幸橋(爆心地より2.3k)
          「1945年(昭和20年)8月6日、午前8時15分広島市の中心部上空約580メートルで
          さく裂した原子爆弾がもたらした膨大な被害によって、広島市の大半は瞬時に壊滅し、
          多くの被爆者が救護を求めて南へ、北へと逃れていきました。
          この写真は、被爆後3時間を過ぎたこの地点を撮影したものです。爆心地から
          南南東約2300メートル離れていた、ここ御幸橋西詰めの警察官派出所前には
          建物疎開作業中に被爆した中学生をはじめ、多くの被爆者が群がり、わずか
          ばかりの応急手当を受けていました。」











          この御幸橋(みゆきばし)西詰めで撮られた写真は、これまで幾度となく見てきました。
          爆心地方面より上る黒い雲、蹲ったり、彷徨したりする人々の姿。
          限りなく恐ろしい記憶のよみがえりです。