枯雑草の写真日記2

あの懐かしき日々を想いながら・・つれずれの写真日記です。

ヒロシマの原爆被災説明板を訪ねる  その2

2014-08-08 | ヒロシマ
    8.本川国民学校(現本川小学校)(爆心地より350m)
          「爆心直下に近く、その被害は言語に絶するものでした。校舎は、鉄筋コンクリート造で、
          焼夷弾や通常爆弾には比較的安全な建物と思われていましたが、原爆のすさまじい
          爆風圧のため、壁はへこみ、窓枠その他の付属物は飛び散り、外部だけを残して
          完全に焼失しました。焼け果てた校舎は、被爆者の救護所にあてられ、校庭には
          死体の山が築かれました。」













          被爆当時の校舎の一部は、今も「本川小学校平和資料館」として保存されています。
          窓枠をふき飛ばされた外壁など、当時の状況の一端がうかがえます。























     (付)本川沿いの慰霊碑(爆心地より500m)
          この地は本川地区一帯の被爆死亡者数千を本川小学校で荼毘に付し、遺骨を
          埋めた場所です。(後に平和公園内の供養塔に移される。)
          市内の川沿いにはこういった慰霊碑が数多くあります。







     9.広島第二陸軍病院跡(爆心地より1k)
          「広島第二陸軍病院は、軍施設が立ち並ぶ基町地区の北西端に建っていました。
          被爆当日、病院内には、職員330人、入院患者750人がいたとされていますが、
          一発の原子爆弾により倒壊炎上し、多くの死傷者を出しました。美しい桜並木が
          入院患者をなごませた太田川の堤防には、わずかに残った職員が、ムシロやトタン
          を使って天幕を張り、臨時救護所を設置し、多くの負傷者の治療にあたりました。」









     (付)陸軍病院慰霊碑






     10.中国軍管区司令部の地下通信室(爆心地より700m)





          当時、ここで学徒動員中、辛うじて生き残った女学生の一人は、今は「被爆のかたりべ」
          としてボランティアをされているとか・・

               今も残る地下通信室の入口







     11.広島逓信病院(爆心地より1.3k)
          「鉄筋コンクリート2階建てのこの病院は、原子爆弾による爆風で、すべての窓ガラスが
          吹き飛び、近隣の弾薬庫からの類焼などにより、2階内部はほとんど全焼しました。空襲に
          備えて、被爆1カ月前に、入院患者すべてを退院させていたため、人的被害は比較的軽微でした。
          火勢が弱まった当日の夕方から、数多くの負傷者が押し寄せ、職員は医薬品や衛生材料、
          食糧の確保を行う一方、懸命な救護にあたりました。この病院は、市内に残った数少ない
          医療機関として、医療面、調査面で重要な役割を果たしました。」












     12.稲荷町電車専用橋(爆心地より1.35k)
          「京橋川に架かるこの鉄橋は、人類史上初めての原子爆弾により、爆風でレールが
          上下左右に波打ち、熱線で枕木が焼けこげました。市内電車の専用橋でしたが、下流の
          柳橋が焼け落ちたこともあり、市内中心部から郊外へ避難するため、多数の被爆者が
          この橋を渡りました。橋の下では、無数の死体が浮かぶ川に、水を求める人が殺到しました。」









      13.饒津神社(爆心地より1.8k)
          「原爆の炸裂による強烈な爆風のため、本殿や唐門などの建物が一瞬にして破壊されました。
          その直後本殿から出火し、他の建物も次々と延焼していきました。爆風により、境内の
          樹木はふき倒され、参道の石灯籠も倒されました。
          境内には、燃え盛る市内から大勢の人々が避難してきて、臨時の救護所が設けられました。」








     14.広島駅(爆心地より1.9k)