よたよたオヤジのポタ雑記

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ボ-ドウォ-ク(ダホン)で神奈川県西部を徘徊?
B級グルメもネ!

もう直ぐお正月です、幼少期の辛い思い出が蘇りました!

2019年12月23日 08時51分00秒 | 想い出(記憶&品物&場所&その他)
今年も残すところ9日、来年は自分の干支の鼠です、3月で72歳になりますよオイラも。今思い出すと小学校時代は貧しかったな・・

怠け者の父親を持つと母親も子供達も辛い思いをします、自分の家は男の子が3人、女の子が3人の6人兄弟でした。そりゃ大変だった。

自分は三男で男の末っ子、容姿も母親に似ていたので??兄弟6人の中では一番可愛がられて育った、その影響で今もマザコンそのもの

なんせ父親が怠け者の遊び人だったので家計は火の車、世間から見れば紛れも無く貧乏な家庭の見本母親は苦労の連続でした。

お正月に「餅」を食べれる事はご馳走でした、今は豊過ぎて「餅」などに見向きもしない傾向でしょうけど。事の重さが全く違うんだよな。

普段は継ぎ接ぎ(ツギハギ)のあるズボンやシャツを着ていた、だが正月になると新しい上着(ジャンパー)を買って貰えるので嬉しかったな~

我が家にが備わったのが中学1年ごろだったかな?もう58年前ぐらいになる。一般家庭からは5年くらいは遅れて入ってきたかな。

貧しいと他人様の優しさや思いやりが身にしみた、反対に口先だけの同情で蔑むような哀れみも敏感に感じた。お陰で感性が豊になった様な気も?

貧乏で何も無かったが、大人になったらと言う思いの夢だけはあったし持った。母親の唯一の自慢=子供達が誰一人間違いを起こさずに成人した事

やはり貧乏だと友人付き合いも限られてくる、俗に言う「類は友を呼ぶ」ですよ貧しい家庭の不良仲間からの悪事への誘惑とかね。

この歳になった今となっては懐かしい思い出だが・・当時はヤハリ辛かった子供心に大きく傷ついた事も多々ありましたもの。

劣等感の塊だった様な時期もあった、でも大人になれば自分の努力次第だと言い聞かせて耐えたけどねで何とか人並みに近い生活に

もう72歳になるしつまらん見栄や体裁は必要ない、この歳になったから書ける事かも知れない。考えればモロに団塊の世代のド真ん中ですよ。

昭和44~46年にかけての大学卒業組(無事に卒業できたかは不問ですが)の世代に入ります、父親は腕のよい職人だったが怠け者じゃね

一般的には職業選択の門戸を広げるには知識(学問)が必要だし、学んでいる間に自分に合っている職業に気づくこともある。知識は邪魔にならないし。

知識と共に人間関係も構築できるし、その間に他人の考えや社会情勢を知れるメリットね。子供達には学ぶ機会を与える事がオイラの方針だった。

それぞれに無事に卒業して独立している、次男だけはまだ同居しているが自分の子供達には同じ様な惨めな思いを味あわせたくなかったし。

貧しさを経験した者じゃなきゃ解らない、子供達に話しても到底理解出来ないだろうね。年金生活に入って貧しいが、昔と違って3食は食べれる。

慎ましく生活すれば特に不自由する事も無い、今こそ「清貧の思想」で過ごす時と思える。穏やかな日々の暮らしを保てれば、それで十分幸せだよ
    
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自分達のために進学を諦めて家計を助けた2人の兄と姉には感謝の言葉しかない、だが未だに口に出して伝えていない、心の中で感謝、感謝

蛇足:昨日は我が神奈川西部もメッチャ寒かった、今朝起きたら箱根外輪山の明神ヶ岳方面も雪化粧していました。



コメント (2)
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