なんだかんだいっても、富士山1周120kを歩いてボロボロになったのは、先週の日曜日。疲れは取れたといってもうそになる。連休最後の日曜日は、完全休養ときめ、午後から、ほんとにしばらくぶりだが、歩いて10分の宮良海岸の浜辺で、「きらクラ」を聴きながらボーとしたときを過ごす。
石垣島トライアスロンから続いた3週連続のイベントで、非日常体験を重ねてきたこの1ヶ月は、ものすごく長い1ヶ月で、遠い昔のようにも感じるが、今目の前にしている宮良海岸で起きている事象、たとえばクロサギの飛翔とかキアシシギの給餌行為は、ごく日常であり、つい昨日見た光景にも感じるのだからヒトの脳は、不可思議なのである。
芭蕉さんは、月日は永遠の旅人とおっしゃったが、目の前のクロサギの羽の開きだって、キアシシギの首の動きだって、昨日のそれとは違うのだって、、風の触れ合い、海の色合いだって、けっしてさっきのそれとは明らかに異なるのだから、日常も千変万化、海岸にボーと座っている行為も永遠の旅なのだろうが、脳にとって旅と日常の時間間隔の何が異なるかと問えば、それは「身体表現」の違いということなのだろう。
日々と異なる場所に移動するのも、朝から泳いだり、出したこともないスピードで自転車を漕いだり、倒れ掛からんばかりの暑さの中をあえぎながら走ったり、低体温となりながら深夜の峠を歩いたり、ひどい疲れにもかかわらず見知らぬ食堂に入り「富士宮焼きそば」の大盛りを麒麟麦酒でいただくという行為もすべてわが身体を異次元に追い込むという「身体表現」。
芭蕉さんのような、偉大な詩人になると目の前の空や風を感じるという行為も「身体表現」なのであろうが、凡人たるオイラは、体をいじめたり、トランスポートしないと変化を感じきれない。
仙人のようにに、山奥で畑を耕しながら生涯を終えるのは、理想としながら、もうしばらくは、動き続けなければならないのか。
野辺山仕様においこむため、今朝から走ってみよう。
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今朝午前3時前の月、木星と一緒です。
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あと、3日で満月か。