いとこの奥さんの尽七日法要(じんしちにちほうよう)が、近くにある光西寺であった。
いとこは大牟田市に住んでいたが、数年前に亡くなっており、今年にはその奥さんも亡くなった。
その奥さんが亡くなった時の大牟田市での葬式には参列できなかったので、納骨も兼ねた尽七日法要(じんしちにちほうよう)でおまいりさせてもらった。
愛野町の光西寺にあるいとこの家の室内墓には、いとこの両親と兄弟を含めて5人分のお骨が納められている。
お寺の本堂で尽七日法要があった。
その折に、今は息子さんに住職を譲っておられる元の住職さんから、読経の後に教えて頂いた。
仏教発祥の地インドにおいては、曜日と同じような七進法の概念があって、亡くなった後の七日ごとに法要をすることになっている。
しょ七日、ふた七日、み七日、よ七日、いつ七日、む七日、なな七日というが、「なななぬか」という発音がしずらいことから四十九日と一般的には呼ぶようになっており、仏教用語としての正式な言い方は、「尽七日(じんしちにち)」というのだと元住職さんから説明して頂いた。
要するに、七が七回繰り返されて一回りして元に戻る、すなわち七が尽きるという事のようだ。
また、四十九日の事を中陰が満つるということで、「満中陰」とも言うそうだ。
以下は、ウィキペディアからの引用。(詳細な知識はこちら)
中陰(ちゅういん)、中有(ちゅうう)とは、仏教で人が死んでからの49日間を指す。死者があの世へ旅立つ期間。四十九日。死者が生と死・陰と陽の狭間に居るため中陰という。
浄土真宗では、故人は臨終と同時に仏(諸仏)になると考えるので、中陰期間は、故人に対する追慕、故人を通して「生と死」について考え、謹慎し求法の生活をする期間である。
発祥地であるインドの仏教においては、臨終の日(命日)を含めて7日ごと、7週に渡り法要を行っていた。(古代インド文明の七進法により、七ごとなのである。)輪廻の思想により、人の没後49日目に、次に六道中のどの世界に生まれ変わるかが決まる、と考えられていたからである。また、その、元の生と次の生との中間的な存在である、49日間の状態「中陰」、もしくは「中有」と呼んでいた。
それが日本に伝わり、宗旨によって考え方は様々であるが、人は死後、魂を清めて仏になる為に中陰の道を歩き、あの世を目指す。その所々に審判の門があり、生前の罪が裁かれる。罪が重いと魂を清めるため地獄に落とされるが、遺族が法要を行い、お経の声が審判官に届けば赦される。それが下記の7日毎に行う法要である。また四週目と五週目の法要の間に、最初の月命日が来る。
中陰法要一覧
初七日(しょなのか)…「初願忌」(しょがんき)
二七日(ふたなのか)…「以芳忌」(いほうき)
三七日(みなのか)…「洒水忌」(しゃすいき)
四七日(よなのか)…「阿経忌」(あぎょうき)
初月忌(しょがっき[1])(立日)…没後、最初の月命日。
五七日(いつなのか)…「小練忌」(しょうれんき)
六七日(むなのか)…「檀弘忌」(だんこうき)
七七日(なななのか)(四十九日、満中陰、尽七日)…「大練忌(だいれんき)」、もっとも重要な法要とされる。
以上は、ウィキペディアからの引用。
「忌明け」の事を四十九日の直後というように思っている人が多いと思うが、その元住職さんによれば、忌明けは一周忌が終わった時、要するに「一周忌明け」の事を指すのだそうだ。
ウィキペディアでは、死後50日目を忌明けというとの説明がしてあるが、真宗大谷派の本山にて要職を勤められたこともある、本職の僧侶である光西寺の元住職さんが言われる「一周忌明け」の事を「忌明け」という説明の方が説得力がある。
そのような説明の後に、室内墓の方の建物に移動して、納骨を済ませた。
いとこの奥さんの遺骨を納めた後の納骨スペースは、あと2人分ぐらいになった。
死後の世界がどのようなものなのかは経験した事が無いので分かりはしないが、きっと、いとこの奥さんは、6人の子供たちに見守られて尽七日(じんしちにち)法要を済ませてもらい、旦那さんが待っている極楽浄土に無事に着いたものと思いたい。
豊田一喜
いとこは大牟田市に住んでいたが、数年前に亡くなっており、今年にはその奥さんも亡くなった。
その奥さんが亡くなった時の大牟田市での葬式には参列できなかったので、納骨も兼ねた尽七日法要(じんしちにちほうよう)でおまいりさせてもらった。
愛野町の光西寺にあるいとこの家の室内墓には、いとこの両親と兄弟を含めて5人分のお骨が納められている。
お寺の本堂で尽七日法要があった。
その折に、今は息子さんに住職を譲っておられる元の住職さんから、読経の後に教えて頂いた。
仏教発祥の地インドにおいては、曜日と同じような七進法の概念があって、亡くなった後の七日ごとに法要をすることになっている。
しょ七日、ふた七日、み七日、よ七日、いつ七日、む七日、なな七日というが、「なななぬか」という発音がしずらいことから四十九日と一般的には呼ぶようになっており、仏教用語としての正式な言い方は、「尽七日(じんしちにち)」というのだと元住職さんから説明して頂いた。
要するに、七が七回繰り返されて一回りして元に戻る、すなわち七が尽きるという事のようだ。
また、四十九日の事を中陰が満つるということで、「満中陰」とも言うそうだ。
以下は、ウィキペディアからの引用。(詳細な知識はこちら)
中陰(ちゅういん)、中有(ちゅうう)とは、仏教で人が死んでからの49日間を指す。死者があの世へ旅立つ期間。四十九日。死者が生と死・陰と陽の狭間に居るため中陰という。
浄土真宗では、故人は臨終と同時に仏(諸仏)になると考えるので、中陰期間は、故人に対する追慕、故人を通して「生と死」について考え、謹慎し求法の生活をする期間である。
発祥地であるインドの仏教においては、臨終の日(命日)を含めて7日ごと、7週に渡り法要を行っていた。(古代インド文明の七進法により、七ごとなのである。)輪廻の思想により、人の没後49日目に、次に六道中のどの世界に生まれ変わるかが決まる、と考えられていたからである。また、その、元の生と次の生との中間的な存在である、49日間の状態「中陰」、もしくは「中有」と呼んでいた。
それが日本に伝わり、宗旨によって考え方は様々であるが、人は死後、魂を清めて仏になる為に中陰の道を歩き、あの世を目指す。その所々に審判の門があり、生前の罪が裁かれる。罪が重いと魂を清めるため地獄に落とされるが、遺族が法要を行い、お経の声が審判官に届けば赦される。それが下記の7日毎に行う法要である。また四週目と五週目の法要の間に、最初の月命日が来る。
中陰法要一覧
初七日(しょなのか)…「初願忌」(しょがんき)
二七日(ふたなのか)…「以芳忌」(いほうき)
三七日(みなのか)…「洒水忌」(しゃすいき)
四七日(よなのか)…「阿経忌」(あぎょうき)
初月忌(しょがっき[1])(立日)…没後、最初の月命日。
五七日(いつなのか)…「小練忌」(しょうれんき)
六七日(むなのか)…「檀弘忌」(だんこうき)
七七日(なななのか)(四十九日、満中陰、尽七日)…「大練忌(だいれんき)」、もっとも重要な法要とされる。
以上は、ウィキペディアからの引用。
「忌明け」の事を四十九日の直後というように思っている人が多いと思うが、その元住職さんによれば、忌明けは一周忌が終わった時、要するに「一周忌明け」の事を指すのだそうだ。
ウィキペディアでは、死後50日目を忌明けというとの説明がしてあるが、真宗大谷派の本山にて要職を勤められたこともある、本職の僧侶である光西寺の元住職さんが言われる「一周忌明け」の事を「忌明け」という説明の方が説得力がある。
そのような説明の後に、室内墓の方の建物に移動して、納骨を済ませた。
いとこの奥さんの遺骨を納めた後の納骨スペースは、あと2人分ぐらいになった。
死後の世界がどのようなものなのかは経験した事が無いので分かりはしないが、きっと、いとこの奥さんは、6人の子供たちに見守られて尽七日(じんしちにち)法要を済ませてもらい、旦那さんが待っている極楽浄土に無事に着いたものと思いたい。
豊田一喜