川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

ぼくの学生運動 (5)筑波移転問題への『主張』(続)

2009-02-02 07:16:15 | 父・家族・自分
 『主張』の続きです。 
 

  “移転”と科学者の責任 「教育大学新聞」63・9・25

     科学者は何をすべきか
 
 一部には、研究学園計画を「軍国主義復活の総路線」に沿ったものであり、科学を米日独占の軍国主義に奉仕させるものだとの“移転絶対反対”の意見があった。しかし、その見解は、科学技術の発展が人類に与える普遍的な価値を拒否せざるを得ない。資本主義が打倒されるまでは、科学者は、生産に関与してはならないという後ろ向きの対応でしかなくなってくる。
 科学者が科学の発展と人類の進歩と対立することによって、果たして、科学を国民に解放することが出来るだろうか。科学ー技術ー生産力そのものの発展のなかに、それが全体的破滅を避けるあらゆる国民の平和共存の闘いと結びつくときに、科学技術の本質と冷戦構造の矛盾を揚棄していく可能性が出てくるのではないだろうか。
 科学ー技術ー生産力の発展そのものが、冷戦構造の奥深く介入し、生産関係をも変革していく可能性はないのか。そのために、現代、科学者は何をなすべきか、何をなし得るかを考えることが、キューリーのいう「科学者の責任」なのではないだろうか。
 「移転するか、どうか」を早急に結論づけることは、何とか防げそうである。私たちは、これから、科学を追究するすべてのももの責任として上に述べたような意味で“科学”と“大学”を再検討してみなければならない。
 移転問題を“移転”の点のみで考えているのでは、私たちはそこからなにものをもみいだし得ないばかりでなく、仕組まれた罠に自らを追い込んでしまうことになろう。科学技術の将来に私たちがどのように対応するかが、問題の核心であることを確認すべきであろう。(了)

 この頃の教育大の学生運動は森くんたちの主導のもとに展開されていた軍縮ゼミ運動に代表される。科学者または科学者予備軍的な学生層の時代的な役割を自覚した運動をつくりあげようとしていたように思う。「労働者階級」の一員として「日本革命」の一翼を担う伝統的な学生運動がなりたたなくなり、新たな可能性を模索していたともいえよう。「学生運動の転換」「層としての運動」などという言葉がつかわれていた。新聞会でこの流れを主導していたのはMくんである。
 ぼくは頭では理解しようと務めていたが「軍縮ゼミ」運動には熱心にはなれなかった。頭で考えるよりは体を動かしている方がむいているからであろう。何か現実離れをしているようにも感じたのではないか。
 筑波移転問題が出てきたとき、科学・技術革命にどう対応するかという問題ととらえることに新聞会内に異論はなかったと思う。しかし、筑波研究学園都市構想自体を積極的に理解し、推進すべしとするMくんの意見にはぼくは賛成できなかった。他にもいろいろな見解があった。そういう討論の状況をふまえて書いた「主張」である。

 「階級対立に深く根ざした冷戦構造」「働く人々の一大共同体の一員として、働くひとびととともに闘う」「全体的破滅を避けるあらゆる国民の平和共存の闘いと結びつくときに」などという言葉をちりばめながら自分なりの主張を書くべく苦労した記憶がある。
 Mくんの意見を載せるのであれば個人の考えとして署名入りで書くように求めたように思う。実際には「時評」として2面の下段に掲載されている。

 2月1日(日)
 昼過ぎ、中国・深せんから国慶節の休みで里帰りしている文恵さんがお子さんを連れて遊びに来てくれました。ペルー国籍の中国人(変な言い方ですが)だというお連れ合いを紹介するつもりだったそうですが、ぼくが伊豆に行っているうちに一足早く帰国したそうです。残念。
 女性二人が話をしている間に、三歳になるこうちゃんと一時間以上近くの公園で遊びました。ぼくを仲間にして飽きることなく滑り台に挑戦します。お陰で結構な運動をしました。今年は深せんに行けるかな。
 同じ時間に杜くん夫妻から菊地くんと昼食会をするから来ないかという誘いを受けていました。杜くんが横浜港から鑑真号に乗せられて国外退去になった時から十数年ぶりの同級生との再会です。