川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「特殊漁船」の母船員・小野寺さん

2009-02-08 18:02:39 | ふるさと 土佐・室戸
昨日の高麗博物館の講演会「浮島丸事件と日本の戦後責任」の終わりのほうで、小野寺和一(おのでら・わいち)さんという方のお話がありました。沈没当時、浮島丸に乗り込んでいた通信兵で九死に一生を得た方の貴重な証言です。当時16歳だったといいます。
 敗戦直後のことで故郷・秋田に帰れるかと解放感に浸っているときに大湊港(青森県下北半島)から釜山に朝鮮人を送り届ける軍命を受けたそうです。大湊出港は8月22日、舞鶴港(京都府)での触雷による沈没は24日です。
 戦後補償や遺骨返還などがスムーズに進行しないため、遺族には日本政府への不信感が強く、「浮島丸事件は日本軍によって仕組まれた朝鮮人集団虐殺(爆殺)事件だ」という疑惑が今日なお韓国では流布されているそうです。小野寺さんはご自分の体験を紹介しながらそれは事実でないことを話しておられました。この点については青柳さんもソウルの会議などで繰り返し説明してきたがなかなか払拭されない現実があるそうです。

 ぼくが興味を持ったのは小野寺さんが14歳くらいから「特殊漁船」の母船(?)に乗っていたというお話です。
 特殊漁船というのは「敵潜水艦・航空機の哨戒をしながら操業する漁船」です。「海軍が燃料を供給して操業させ、漁獲は軍に納入させた。機関銃一挺がブリッジに据え付けられ、対潜水艦用の爆雷を装着」していたそうです。非戦闘員である漁民が潜水艦や航空機と戦うことは不可能で「敵潜水艦発見、交戦中」という無電を残して南方海上で沈没戦死した人が多いといいます。
 こういう事実を故郷・室戸の島村泰吉先生の論文で知り、「川越だより」に書いたことがあります。

 漁船員の戦死http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20071229

 14・5歳の小野寺少年が故郷・室戸の同級生たちのお父さんが乗る特殊漁船の母船に乗っていたかも知れないのです。母船は水や食糧などの補給をしていたのでしょうか。米軍の攻撃を受けて沈没していく特殊漁船を小野寺さんは目撃もしたことでしょう。
 ぼくの隣りに座っておられたのですが、このことについて詳しく伺うことは出来ませんでした。いつか、おたずねして当時の様子を聞いてみたいものです。

 神戸に「戦没した船と海員の資料館」があることも教えて貰いました。

 http://www.jsu.or.jp/siryo/index.html

 海の藻屑と消えた同級生たちのお父さんのことを知る資料が保存されているかも知れません。呉さんは晃和丸でアボジを失っています。この資料館でモッポの近海で沈められたこの船の情報が得られないものかと期待しているようでした。

故国の洋上に父を訪ねる旅 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080611