いつも「川越だより」を覗いていただいてありがとうございます。先日は突然の中断でご心配をかけました。ごらんのように霞ヶ浦方面に小旅行をしていました。お断りする暇もないほど突発的な行動だったのです。ごめんなさい。
このところ訪れてくださる方が150人を過ぎる日が続きました。ただの身辺雑記です。でも読んでくださる方が増えるのは嬉しいことです。
<川越だより>
過去1週間の閲覧数・訪問者数(日別)
日付 閲覧数 訪問者数
2009.02.13(金) 388 PV 161 IP
2009.02.12(木) 356 PV 152 IP
2009.02.11(水) 344 PV 139 IP
2009.02.10(火) 433 PV 121 IP
2009.02.09(月) 496 PV 156 IP
2009.02.08(日) 340 PV 124 IP
2009.02.07(土) 388 PV 118 IP
過去3週間の閲覧数・訪問者数(週別)
日付 閲覧数 訪問者数
2009.02.01 ~ 2009.02.07 2585 PV 938 IP
2009.01.25 ~ 2009.01.31 2515 PV 893 IP
2009.01.18 ~ 2009.01.24 2425 PV 909 IP
2月12日(木)晴れ 無風
望洋荘で府馬の大楠の話をしてみたが知る人はいなかった。代わりに二人の人が匝瑳(そうさ)市の名所として飯高の檀林跡を教えてくれたので行ってみることにする。
駐車場から10分ほど歩いた山の中に飯高寺(ばんこうじ)講堂の立派な建物がある。ここは日蓮宗の檀林(大学のようなところ、か)があったところだが、明治の廃仏毀釈で打ち壊されたのか、いまはただ「立正大学発祥の地」という碑が立っているだけで人の気配さえ感じられない。
妻の話では日蓮は偶像崇拝を否定したので仏像なども安置されていないと言う。そういえばとてもシンプルなお寺の感じがする。鐘楼があったので撞かせて貰おうかと近寄ってみたが「お断り」とあった。
いったん山を下り、法福寺の裏から天神ノ森に登ってみた。お社を取り囲むようにスダジイの巨木が数本生えていてまるで物語の世界に迷い込んだような気分だ。その中の一本は素晴らしく板根が発達している。
「関東ふれあいの道」という案内板にしたがって歩いてゆくと飯高神社に出るが途中の社叢林もスダジイの林といって良さそうだ。ぼくは昔、伊豆大島の泉津の山奥で素晴らしいスダジイの森を見たことがあるがそれ以来の体験のような気がする。こんな道を歩けば誰もが森が好きになるのではないかと思う。
妙福寺という寺の境内に出た。「中帰連」という文字が目にはいったので真新しい黒御影の石碑に近づいてみた。
中帰連千葉県支部の「感謝と謝罪」の碑 妙福寺
http://www.news.janjan.jp/area/0706/0706056762/1.php
中国帰還者連絡会の人々が中国人民に対し自らが侵した戦争犯罪を謝罪する思いを持って建てた碑である。文京高校在職中に話をしていただいた方の名が刻まれているかと名簿を辿ってみたが見あたらない。
駐車場で改めて案内板を見ると近くの安久山というところに全国4位のスダジイの巨木があると書いてあるではないか。個人の宅地内だというが兎に角行ってみることにする。
村のお祖母ちゃんに聞くと「西」さんの家だという。この地の旧地主の家かと思われる立派な屋敷を訪ねてみると、83歳になるという利子お祖母ちゃんが行き届いた接待をしてくださった。
スダジイは母屋の裏に聳えていた。根を張っていたというのがいいか。
安久山の大椎http://seseragi.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_618d.html
お祖母ちゃんは大根を干す手を休めて案内してくれる。「どうぞ、見てやってください。椎の木も喜ぶでしょう」。
どのくらいの年月を重ねてきたのか、あちこちに柊(ひいらぎ)や榊(さかき)の木を宿している。数年前、実をつけなくなったのでいよいよ寿命かなと噂していたら、翌年からまた実をつけ始めたという。こんな話もあった。
大木の脇に、小さな祠(ほこら)がふたつ並んでいる。氏神さんとお稲荷さんで、根元の洞(ほら)に祀(まつ)ってあったのだが、木が太るのに押されてゆがんできたので取り出して祀り直した。数年前、真上の大枝が折れて地面に落ちたが、うまい具合に祠の屋根を壊すこともなかった。これは縁起がいいと、折れた枝はそのままにした。ふたつ並んだ祠の前にいまも横たわっている大枝は、まるで龍のようにも見える。
日当たりのいい縁側で勧められるままにお茶をいただき、しばし、人生の話を伺った。「西」というのはこのお宅の屋号で敗戦直後に軍隊帰りの跡取り息子の元に嫁いできた。旧地主のお宅だから農地解放をはじめ歴史の大波をくぐってこられたに違いない。何でもいいようにいいように考えて生きてきました、といわれる。
近頃は私たちのように椎をみせてくださいと訪ねて来る人も少なくないらしいが「椎も喜ぶだろうし、自分もいろいろな人に会えて楽しい」から歓迎しているとおっしゃる。
帰りには近所に住む妹さんが届けてくれたという収穫したばかりの大根を6本も袋に入れて持たせてくれる。思いがけない心のこもったお接待に感謝しつつ佐原に向かった。匝瑳一帯は巨木の里と言うことがわかったが「西」の利子お祖母ちゃんの住むところとして私たちには記憶され続けるだろう。
香取神宮によって昼食のあと、こんどは霞ヶ浦の稲敷大橋から阿見町までの湖岸の道を走った。これで霞ヶ浦をほぼ一周したことになる。4時過ぎに桜土浦のインターから帰途についた。
このところ訪れてくださる方が150人を過ぎる日が続きました。ただの身辺雑記です。でも読んでくださる方が増えるのは嬉しいことです。
<川越だより>
過去1週間の閲覧数・訪問者数(日別)
日付 閲覧数 訪問者数
2009.02.13(金) 388 PV 161 IP
2009.02.12(木) 356 PV 152 IP
2009.02.11(水) 344 PV 139 IP
2009.02.10(火) 433 PV 121 IP
2009.02.09(月) 496 PV 156 IP
2009.02.08(日) 340 PV 124 IP
2009.02.07(土) 388 PV 118 IP
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2009.01.25 ~ 2009.01.31 2515 PV 893 IP
2009.01.18 ~ 2009.01.24 2425 PV 909 IP
2月12日(木)晴れ 無風
望洋荘で府馬の大楠の話をしてみたが知る人はいなかった。代わりに二人の人が匝瑳(そうさ)市の名所として飯高の檀林跡を教えてくれたので行ってみることにする。
駐車場から10分ほど歩いた山の中に飯高寺(ばんこうじ)講堂の立派な建物がある。ここは日蓮宗の檀林(大学のようなところ、か)があったところだが、明治の廃仏毀釈で打ち壊されたのか、いまはただ「立正大学発祥の地」という碑が立っているだけで人の気配さえ感じられない。
妻の話では日蓮は偶像崇拝を否定したので仏像なども安置されていないと言う。そういえばとてもシンプルなお寺の感じがする。鐘楼があったので撞かせて貰おうかと近寄ってみたが「お断り」とあった。
いったん山を下り、法福寺の裏から天神ノ森に登ってみた。お社を取り囲むようにスダジイの巨木が数本生えていてまるで物語の世界に迷い込んだような気分だ。その中の一本は素晴らしく板根が発達している。
「関東ふれあいの道」という案内板にしたがって歩いてゆくと飯高神社に出るが途中の社叢林もスダジイの林といって良さそうだ。ぼくは昔、伊豆大島の泉津の山奥で素晴らしいスダジイの森を見たことがあるがそれ以来の体験のような気がする。こんな道を歩けば誰もが森が好きになるのではないかと思う。
妙福寺という寺の境内に出た。「中帰連」という文字が目にはいったので真新しい黒御影の石碑に近づいてみた。
中帰連千葉県支部の「感謝と謝罪」の碑 妙福寺
http://www.news.janjan.jp/area/0706/0706056762/1.php
中国帰還者連絡会の人々が中国人民に対し自らが侵した戦争犯罪を謝罪する思いを持って建てた碑である。文京高校在職中に話をしていただいた方の名が刻まれているかと名簿を辿ってみたが見あたらない。
駐車場で改めて案内板を見ると近くの安久山というところに全国4位のスダジイの巨木があると書いてあるではないか。個人の宅地内だというが兎に角行ってみることにする。
村のお祖母ちゃんに聞くと「西」さんの家だという。この地の旧地主の家かと思われる立派な屋敷を訪ねてみると、83歳になるという利子お祖母ちゃんが行き届いた接待をしてくださった。
スダジイは母屋の裏に聳えていた。根を張っていたというのがいいか。
安久山の大椎http://seseragi.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_618d.html
お祖母ちゃんは大根を干す手を休めて案内してくれる。「どうぞ、見てやってください。椎の木も喜ぶでしょう」。
どのくらいの年月を重ねてきたのか、あちこちに柊(ひいらぎ)や榊(さかき)の木を宿している。数年前、実をつけなくなったのでいよいよ寿命かなと噂していたら、翌年からまた実をつけ始めたという。こんな話もあった。
大木の脇に、小さな祠(ほこら)がふたつ並んでいる。氏神さんとお稲荷さんで、根元の洞(ほら)に祀(まつ)ってあったのだが、木が太るのに押されてゆがんできたので取り出して祀り直した。数年前、真上の大枝が折れて地面に落ちたが、うまい具合に祠の屋根を壊すこともなかった。これは縁起がいいと、折れた枝はそのままにした。ふたつ並んだ祠の前にいまも横たわっている大枝は、まるで龍のようにも見える。
日当たりのいい縁側で勧められるままにお茶をいただき、しばし、人生の話を伺った。「西」というのはこのお宅の屋号で敗戦直後に軍隊帰りの跡取り息子の元に嫁いできた。旧地主のお宅だから農地解放をはじめ歴史の大波をくぐってこられたに違いない。何でもいいようにいいように考えて生きてきました、といわれる。
近頃は私たちのように椎をみせてくださいと訪ねて来る人も少なくないらしいが「椎も喜ぶだろうし、自分もいろいろな人に会えて楽しい」から歓迎しているとおっしゃる。
帰りには近所に住む妹さんが届けてくれたという収穫したばかりの大根を6本も袋に入れて持たせてくれる。思いがけない心のこもったお接待に感謝しつつ佐原に向かった。匝瑳一帯は巨木の里と言うことがわかったが「西」の利子お祖母ちゃんの住むところとして私たちには記憶され続けるだろう。
香取神宮によって昼食のあと、こんどは霞ヶ浦の稲敷大橋から阿見町までの湖岸の道を走った。これで霞ヶ浦をほぼ一周したことになる。4時過ぎに桜土浦のインターから帰途についた。