川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

ぼくの学生運動(7)生徒会活動?

2009-02-05 06:25:50 | 父・家族・自分
 文学部自治会委員長として活動した日々のことはほとんど覚えていません。思い出すままに断片を記しておきます。

 ①常任委員会 正副委員長の他数名で構成される常任委員会が執行部。副委員長の飯田くんの同級生である金子・名護・高崎くんや東条さんなど一年生がほとんどで二年生は前田くん一人だったように思います。彼は「共青」のメンバーですが余り出てこなかったように記憶しています。ほかに「共青」関係者からの「指導・助言」などは一切なく、全てこのメンバーで相談しながら自治会の運営にあたりました。
 ぼくは高校の時に生徒会長だった前田潤一郎くんに指名されて、副会長をやったことがあります。この時以来の体験で、まるで生徒会の執行部の延長のような雰囲気ではなかったかと思います。
 日韓会談の妥結に反対する闘争の組織にあたって、雑誌『世界』(岩波書店)を読みあって討議資料を作ったり、集会の講師の選定を磯野誠一先生(民法)に相談して村常男さん(朝日新聞・「京城」特派員)にお願いしたりという具合です。
 そういえば日韓会談について私たちは「復活した日本帝国主義の朝鮮半島再侵略」ととらえ、『反対・妥結阻止』が前提になっていましたが、前田くんは「南北問題」ととらえているようで反対という姿勢ではなかったように思われます。強く主張したわけではないので議論にはなっていません。
 いま、振り返ってみると日韓条約で日本から得た「経済協力資金」をてこに韓国の「漢江の奇跡」が実現したのであり、「再侵略・植民地化」は勝手な思いこみであったという他はありません。在日朝鮮人の人権問題や戦後補償問題にはほとんど目が向かないままのまさに観念的な反対運動であったと思わざるを得ません。

 ②自治委員会 日本史一年から一人という具合に各クラスから選出された自治委員で構成される日常的な議決機関です。民青(共産党)系の人も多く執行部の提案通りにはなかなか進みません。政治的な課題の取り組みには社学同系の自治委員の協力を得ながらすすめた記憶があります。ぼくは一応は法律政治学が専攻であったせいか、形式民主主義を重視します。この機関での決定にしたがって自治会の活動をすすめていったはずです。

 ③一番始めにやったことは自治会室の大掃除。 ゴミが山のようでした。旧来の指導部と人的なつながりもなかったので思いきって処分できたのかも知れません。大学側と交渉して(?)掲示板をたくさん作ってもらいました。ビラやステッカーを壁にべたべた貼るのにはぼく自身抵抗があったからです。

 ④中平解文学部長や穂積重行補導連絡協議会委員の仲介で三輪知雄学長と四学部の執行部が会見して移転問題や大学の運営について話し合うと言うことがありました。朝永前学長と違って学生運動に否定的な学長との会見は画期的な試みだったと思われますが、一度きりでした。この人は後に筑波移転を強行し、筑波大学の初代学長になりました。学生自治会の設立も認めなかったと聞きます。

 ⑤研究学園都市・移転問題に就いての講演会や討論会を開く他は都学連の行動として何回か日韓会談反対、ポラリス潜水艦帰港反対などの集会やデモに参加したはずです。構造改革派の法政大学社会学部自治会の小沢遼子さんなどと協議しながら進めました。デモの指揮などはぼくには出来ません。森くんや金井くんたちがやってくれたのかも知れません。
 学生運動が沈滞している時期で参加者は限られていたと思いますが、教育大は比較的「普通の」学生が参加します。自治会民主主義が比較的機能しており、クラス討論などが行われていたからでしょう。街頭での過激なデモに流れがちな他のセクトに巻き込まれないように独自の行動を取ったこともあります。

 ⑥この時期、民青(共産党)は中国共産党寄りで、僕らが党派的運営を極力排除するように務めているにもかかわらず、「反党修正主義分子」攻撃をするばかりです。そういうこともあったのか、筑波移転・研究学園都市問題や大学改革問題などで自治会としてこれはという取り組みも出来ないまま任期を終えたような気がします。ぼくの委員長は文字どおり、「過渡期のつなぎ役」というところだったのでしょう。