川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

横田さんご夫妻と田月仙さん

2009-02-09 17:55:41 | こどもたち 学校 教育
 嬉しい報せが飛び込んできました。都立小山台高校の生徒たち(定時制)が企画した講演とコンサートの会です。

 横田ご夫妻を知らない方はおられません。田月仙(チョン・ウォルソン)さんは在日コリアンのオペラ歌手ですがお兄さんたちが北朝鮮に帰国した後に非業の死を遂げました。


田さん『海峡のアリア』の紹介 野村進さんの文章がぼくのお薦めhttp://www.wolson.com/books/wolson-Aria-media.html 


 こういう企画を立て実行する生徒たちと教職員がいる都立高校があることをぼくは誇りに思います。その願い応えて冬の夜に足を運ぶ横田ご夫妻と田さんには深い敬意をいだきます。学びの機会を与えてくれてありがとうございます。喜んで参加させて貰います。知友の皆さんご一緒しませんか。         
                   



                  東京都立小山台高等学校長
                             矢 作  洋

     人権教育公開授業のご案内


 余寒の候、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。平素より本校の教育
活動について、ご理解とご支援を賜り、感謝申し上げます。
さて、文部科学省人権教育研究指定校の取り組みである、第7・8回「こや定ふ
れあいスクール」を下記の通り実施いたしますので、ご案内申し上げます。今回
は、「家族の思い・人権は国を越えて」をテーマに、横田めぐみさんのご両親で
ある横田滋様、横田早紀江様ご夫妻のお話しとオペラ歌手として活躍されていら
っしゃる田月仙(チョン・ウォルソン)様の歌をお聴きします。
 ご多用中、誠に恐縮ではありますが、皆様のご参加をいただきたくご案内申し
上げます。

              記

1 授業テーマ 「家族の思い・人権は国を越えて」

2 日 時  平成21年2月13日(金) 
         17時30分~20時30分  

3 内 容  17時30分~18時15分 アニメ「めぐみ」上映
                      (地歴・公民科)
       19時00分~19時40分 横田滋さん、早紀江さんのお話
       19時50分~20時30分 田月仙(チョン・ウォルソン)さ
                     んの歌

4 場所   17時30分~ 本校視聴覚教室 
       19時00分~ 小山台会館3階ホール 

   小山台会館http://members3.jcom.home.ne.jp/sjk1962/conference/map_tokyo.htm



           
   
             

「特殊漁船」の母船員・小野寺さん

2009-02-08 18:02:39 | ふるさと 土佐・室戸
昨日の高麗博物館の講演会「浮島丸事件と日本の戦後責任」の終わりのほうで、小野寺和一(おのでら・わいち)さんという方のお話がありました。沈没当時、浮島丸に乗り込んでいた通信兵で九死に一生を得た方の貴重な証言です。当時16歳だったといいます。
 敗戦直後のことで故郷・秋田に帰れるかと解放感に浸っているときに大湊港(青森県下北半島)から釜山に朝鮮人を送り届ける軍命を受けたそうです。大湊出港は8月22日、舞鶴港(京都府)での触雷による沈没は24日です。
 戦後補償や遺骨返還などがスムーズに進行しないため、遺族には日本政府への不信感が強く、「浮島丸事件は日本軍によって仕組まれた朝鮮人集団虐殺(爆殺)事件だ」という疑惑が今日なお韓国では流布されているそうです。小野寺さんはご自分の体験を紹介しながらそれは事実でないことを話しておられました。この点については青柳さんもソウルの会議などで繰り返し説明してきたがなかなか払拭されない現実があるそうです。

 ぼくが興味を持ったのは小野寺さんが14歳くらいから「特殊漁船」の母船(?)に乗っていたというお話です。
 特殊漁船というのは「敵潜水艦・航空機の哨戒をしながら操業する漁船」です。「海軍が燃料を供給して操業させ、漁獲は軍に納入させた。機関銃一挺がブリッジに据え付けられ、対潜水艦用の爆雷を装着」していたそうです。非戦闘員である漁民が潜水艦や航空機と戦うことは不可能で「敵潜水艦発見、交戦中」という無電を残して南方海上で沈没戦死した人が多いといいます。
 こういう事実を故郷・室戸の島村泰吉先生の論文で知り、「川越だより」に書いたことがあります。

 漁船員の戦死http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20071229

 14・5歳の小野寺少年が故郷・室戸の同級生たちのお父さんが乗る特殊漁船の母船に乗っていたかも知れないのです。母船は水や食糧などの補給をしていたのでしょうか。米軍の攻撃を受けて沈没していく特殊漁船を小野寺さんは目撃もしたことでしょう。
 ぼくの隣りに座っておられたのですが、このことについて詳しく伺うことは出来ませんでした。いつか、おたずねして当時の様子を聞いてみたいものです。

 神戸に「戦没した船と海員の資料館」があることも教えて貰いました。

 http://www.jsu.or.jp/siryo/index.html

 海の藻屑と消えた同級生たちのお父さんのことを知る資料が保存されているかも知れません。呉さんは晃和丸でアボジを失っています。この資料館でモッポの近海で沈められたこの船の情報が得られないものかと期待しているようでした。

故国の洋上に父を訪ねる旅 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080611

希望のありか示す  沢山町政

2009-02-07 21:17:13 | ふるさと 土佐・室戸
 ときどき、高知県東洋町の沢山町長の日誌を読ませてもらっています。町長が先頭に立って殖産興業を計り、役場の職員や町民を奮い立たせようとしている様子が伝わってきます。



       2009年2月 1日 (日)
    面接


東洋町単独で緊急雇用対策を打ち出した。臨時議会にかけて、失業者・不安定就労者を雇用すべく、公募した。定員10名ほどだ。
1週間ぐらいの期間で35名の応募があった。
大勢の応募者を見てはじめからあきらめて辞退者もあった。

今すぐにどこかの職場で欠員が生じた、というわけではない。役場や直轄会社リボルトも目一っぱい人を雇っている。
失業対策で採用してもこれらの人々の仕事場を作り出すことが先決であった。野山の放置された耕地や山林に入ってもらうにしても、その耕地と山林を用意しなければならず、道具類も用立てねばならない。採用した10人の人を統率するリーダーも必要である。そして、それらの人間と業務について、効率よく働いてもらうように当方が管理し運営するのであるから、その気遣いも大変である。

しかも、予算が続く間の、使いっぱなしでいい訳ではなく、その事業が採算ベースに乗り、継続出来るようにしなければならない。昔の失対のように道の清掃などだけではなく、地域の産業復興の先端としての役割を担うのである。
多くの応募者の中で10人を選択するのは極めて困難である。農作業や、山の仕事であるから、経験や技能、体力を主としてみているが、扶養する家族が多い人も救わねばならない・・・・。

1人でも多くを雇いたいし、まだ少々の予算はあるけれども、仕事場を構える当方の能力に限界があるのだ。賃をやるから何でもして働け、というわけにはいかないのである。
4月からの来年度は雇用対策について国の支援金も相当あるけれども、それを活かせる準備・体制が間に合わないのである。
町長が正月返上365日休みなく働いても、おびただしい雇用を求める需要の声に、供給が追いつかない。都会で働いていて失業したとか、地元の土建業がつぶれたとか、町内の状況は極めて厳しい。

1月31日の面接は無事終了した。10人を社員として雇い、その他に数人を役場で雇えないか検討することにした。なお、4月からは予算が可決されたら、今回選にもれた応募者からさらに何人か相当人数を採用する予定で5~6人を補欠者として決めた。今のところ、東洋町としてはこれが精一杯だ。

 都会に出ていた多くの人々が失業をしてどんどん故郷に帰ってくる。昔と違うのは、帰っても田や畑は荒れ、海は枯渇していて生きるすべが少ないということである。自ら土にまみれて開墾から始めねばならない。
日本を覆うこの暗い経済状況はこれから一層悪くなることはあっても少しもよくなることはない、ということだ。社会全体が激変しつつあり、大変動の時代が迫ってきている感がする。疾風怒濤の時代の中で東洋町だけは町民やその親族が生き抜いていく準備をしなければならない。

 面接の後、数人の者と野根の奥山に入って間伐の状況を見て回った。東洋町の大自然を活かせば十分やっていけるという感懐を抱いて山を下りた。

 出典
http://sawayama.cocolog-nifty.com/blog/


 ぼくは一昨年の夏、この文章の最後に出てくる東洋町野根の山村を訪ねたことがあり、山林の再生について「川越だより」に書きました。

四人の元お嬢さんhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20070824

 沢山さんは早くからこの課題に気づいておられたのでしょう。雇用対策として山林の再生にさっそく取り組み始めたようです。普通なら森林組合がやるところなのでしょうがそちらの方はどうなっているのでしょう。スズメバチの退治からはじまって、何でも町長が実行部隊の先頭に立たなければならないと言うのは少し悲しい気がします。役場の職員を始め力を持った方々がいるはずです。それぞれの分野で
リーダーシップを発揮する人々の姿が見えるようになってくると嬉しいのでが…。
 ぼくは日本中の自治体がこの機会に山林の再生に取り組んでほしいと思います。そして政府はこれを全面的に後押しすべきです。危険の伴う重労働です。しかし、森林の再生は日本の人々が生き残っていく上で不可欠な課題です。自衛隊員や海上保安庁職員に匹敵する人材を確保し、教育を施し、賃金を保障しなくてはなりません。
 農林水産業を蔑視する教育のあり方も転換しなければなりません。なかなかに難しく、おいそれとは行かない大事業です。しかし、今は100年に一度の試練の時だと言う人もいるぐらいです。沢山さんが言われるように、どんなことがあっても生き抜いて行かれるような準備を智慧のあるリーダーなら考えるでしょう。

浮島丸事件と日本の戦後責任

2009-02-06 05:46:45 | 在日コリアン
 宮崎県に住む友人・青柳敦子さんから展示会と講演会の案内をいただきました。講演は明日、新宿の高麗博物館です。この方の誠実で地道な取り組みには日頃から敬意を抱いています。天気も良く暖かい日になりそうですからぼくも久しぶりに伺うつもりです。宜しかったら皆さんも是非どうぞ。



     講演と展示  浮島丸事件と日本の戦後責任

              ―― 隣人への信義を守れ ――

 

戦争終結直後の1945年8月24日午後5時頃、京都府舞鶴湾で、海軍輸送艦・浮島丸が爆発・沈没しました。この船には、帰国する朝鮮人約4千人が乗っていました。浜にいた漁師たちがすぐに救助にむかいましたが、幼い子供を含む5百人以上の人々がなくなりました。

 日本政府は、日本人乗組員の死傷者には補償しましたが、韓国人には何の補償もしませんでした。1992年~1994年、生還者と遺族たち80人が陳謝と賠償、遺骨返還を求めて、裁判を起こしました。裁判は負けましたが、いろいろなことがわかってきました。

 地元では1954年から毎年、追悼会が開かれています。


         展示会期 2009年1月14日(水)~3月22日(日)


●講演会● 

<第1回> 2009年2月7日(土)16:00~18:00

     「浮島丸事件と全承烈さん ―遺族との和解へ向けて―」
       講師:青柳敦子さん(朝鮮人徴兵・徴用に対する
                  日本の戦後責任を求める会 代表)
      「祐天寺における市民の追悼会 20年の歩み」
       講師:小林喜平さん(朝鮮人戦争犠牲者追悼会 世話人)


<第2回> 2009年3月7日(土)16:00~18:00

      「記録から読み解く 浮島丸事件と戦後補償問題の実像」
       講師:青柳敦子さん(朝鮮人徴兵・徴用に対する
                  日本の戦後責任を求める会 代表)

  ◆参加費:1000円(入館料を含む)
  ◆講演後に「恨の海」(青森放送制作ドキュメンタリービデオ)を上映予定

 出典 高麗博物館(場所はこのHPで確かめてください)
  http://www.40net.jp/~kourai/2event/kourai%20202.html


 昨日、韓国国会が在外国民に投票権を保障する立法を行ったそうです。在日コリアンも韓国の大統領選挙や国会議員選挙に参加できる道が開かれます。国民であるからには当然のことですが、多くの人々にとって何のことかというのが実感でしょう。在日コリアンのリーダーの方々、ほんとうにこんなことでいいのでしょうか。行ったこともなければ住んだことはもちろんない、祖先の故郷のある国の選挙に参加する権利が認められて、生まれ育った日本の参政権が認められない状況がいっそう固定化するのかも知れないのです。
 民団の幹部だった人々が主催する集会があるようです。未来を生きる子どもたちの視点に立って真剣な議論が行われることを期待します。ぼくも出かけるつもりです。


    「移民開国」でシンポ…青年会OB会

 在日韓国青年会OB全国連絡会(林三鎬会長)は同会設立2周年を記念し21日、在日韓国YMCA「スペースワイ」(JR水道橋下車)で「日本の移民政策と在日のスタンス」と題したシンポジウムを開く。

 基調講演は外国人政策研究所所長の坂中英徳さん。テーマは「坂中論文から32年…日本の外国人受け入れ策について」。坂中さんは東京入管局長当時、「移民鎖国」を唱えてきたが、高齢少子化時代のいまは50年間で1000万人の移民を受け入れるよう主張している。

 引き続いてのパネルディスカッションにはOB会の林会長と近江渡来人倶楽部代表の河炳俊さんも加わり、「移民開国」時代に在日がどのようなスタンスで関わりを持ち続けていくのかについて坂中さんと討論する。午後2時30分から。参加費500円。
  会場 韓国YMCAhttp://www.ymcajapan.org/ayc/jp/
出典 民団 http://www.mindan.org/shinbun/news_t_view.php?category=13&page=32

ぼくの学生運動(7)生徒会活動?

2009-02-05 06:25:50 | 父・家族・自分
 文学部自治会委員長として活動した日々のことはほとんど覚えていません。思い出すままに断片を記しておきます。

 ①常任委員会 正副委員長の他数名で構成される常任委員会が執行部。副委員長の飯田くんの同級生である金子・名護・高崎くんや東条さんなど一年生がほとんどで二年生は前田くん一人だったように思います。彼は「共青」のメンバーですが余り出てこなかったように記憶しています。ほかに「共青」関係者からの「指導・助言」などは一切なく、全てこのメンバーで相談しながら自治会の運営にあたりました。
 ぼくは高校の時に生徒会長だった前田潤一郎くんに指名されて、副会長をやったことがあります。この時以来の体験で、まるで生徒会の執行部の延長のような雰囲気ではなかったかと思います。
 日韓会談の妥結に反対する闘争の組織にあたって、雑誌『世界』(岩波書店)を読みあって討議資料を作ったり、集会の講師の選定を磯野誠一先生(民法)に相談して村常男さん(朝日新聞・「京城」特派員)にお願いしたりという具合です。
 そういえば日韓会談について私たちは「復活した日本帝国主義の朝鮮半島再侵略」ととらえ、『反対・妥結阻止』が前提になっていましたが、前田くんは「南北問題」ととらえているようで反対という姿勢ではなかったように思われます。強く主張したわけではないので議論にはなっていません。
 いま、振り返ってみると日韓条約で日本から得た「経済協力資金」をてこに韓国の「漢江の奇跡」が実現したのであり、「再侵略・植民地化」は勝手な思いこみであったという他はありません。在日朝鮮人の人権問題や戦後補償問題にはほとんど目が向かないままのまさに観念的な反対運動であったと思わざるを得ません。

 ②自治委員会 日本史一年から一人という具合に各クラスから選出された自治委員で構成される日常的な議決機関です。民青(共産党)系の人も多く執行部の提案通りにはなかなか進みません。政治的な課題の取り組みには社学同系の自治委員の協力を得ながらすすめた記憶があります。ぼくは一応は法律政治学が専攻であったせいか、形式民主主義を重視します。この機関での決定にしたがって自治会の活動をすすめていったはずです。

 ③一番始めにやったことは自治会室の大掃除。 ゴミが山のようでした。旧来の指導部と人的なつながりもなかったので思いきって処分できたのかも知れません。大学側と交渉して(?)掲示板をたくさん作ってもらいました。ビラやステッカーを壁にべたべた貼るのにはぼく自身抵抗があったからです。

 ④中平解文学部長や穂積重行補導連絡協議会委員の仲介で三輪知雄学長と四学部の執行部が会見して移転問題や大学の運営について話し合うと言うことがありました。朝永前学長と違って学生運動に否定的な学長との会見は画期的な試みだったと思われますが、一度きりでした。この人は後に筑波移転を強行し、筑波大学の初代学長になりました。学生自治会の設立も認めなかったと聞きます。

 ⑤研究学園都市・移転問題に就いての講演会や討論会を開く他は都学連の行動として何回か日韓会談反対、ポラリス潜水艦帰港反対などの集会やデモに参加したはずです。構造改革派の法政大学社会学部自治会の小沢遼子さんなどと協議しながら進めました。デモの指揮などはぼくには出来ません。森くんや金井くんたちがやってくれたのかも知れません。
 学生運動が沈滞している時期で参加者は限られていたと思いますが、教育大は比較的「普通の」学生が参加します。自治会民主主義が比較的機能しており、クラス討論などが行われていたからでしょう。街頭での過激なデモに流れがちな他のセクトに巻き込まれないように独自の行動を取ったこともあります。

 ⑥この時期、民青(共産党)は中国共産党寄りで、僕らが党派的運営を極力排除するように務めているにもかかわらず、「反党修正主義分子」攻撃をするばかりです。そういうこともあったのか、筑波移転・研究学園都市問題や大学改革問題などで自治会としてこれはという取り組みも出来ないまま任期を終えたような気がします。ぼくの委員長は文字どおり、「過渡期のつなぎ役」というところだったのでしょう。

三鷹高校長への卑劣な仕打ち

2009-02-04 08:47:03 | こどもたち 学校 教育
<川越だより>
過去1週間の閲覧数・訪問者数(日別)


日付 閲覧数     訪問者数
2009.02.03(火) 424 PV    120 IP
2009.02.02(月) 387 PV    135 IP
2009.02.01(日) 361 PV    135 IP
2009.01.31(土) 309 PV    126 IP
2009.01.30(金) 434 PV    129 IP
2009.01.29(木) 379 PV    154 IP
2009.01.28(水) 340 PV    114 IP



過去3週間の閲覧数・訪問者数(週別)


日付   閲覧数  訪問者数
2009.01.25 ~ 2009.01.31   2515    893
2009.01.18 ~ 2009.01.24   2425    909
2009.01.11 ~ 2009.01.17   2834    841



  都立三鷹高校長:定年後の非常勤教員選考で不合格に
              (毎日新聞 2月1日)
 

 東京都教育委員会が職員会議で挙手・採決を禁止した06年の通知の撤回を求めている都立三鷹高校(三鷹市)の土肥信雄校長(60)が定年後の非常勤教員の来年度選考に応募したところ、不合格にされていたことが分かった。31日、土肥校長が都内で開かれた自身の支援集会で明らかにした。土肥校長は不合格を不服として取り消しを求める訴訟を検討する考えだ。

 土肥校長によると、今年3月末に迎える定年後も教育相談を受けたり、若手教員の支援に当たろうと、昨年12月に応募した。都教委から1月16日付で不合格を通知されたが、理由は不明という。土肥校長は「処分を受けたこともなく、何も悪いことをしていない。ぜひ不合格の理由を知りたい」と話している。

 土肥校長は都教委の06年の通知について「学校現場で言論の自由が失われている」と主張し、昨年5月からはメディアを通じて撤回を訴えてきた。都教委は同11月に一連の言動を問題視し、反省を促す措置を講じる方針を決めていた。【木村健二】


 あきれ果てる仕打ちである。都教委はならず者の集団と言う他はない。

 
東京都教育委員会委員は、次のとおりです。

(1月8日現在)
    委員長       木村 孟

    委員長職務代理者  内館 牧子  
    委員長職務代理者  坂 節三
    委員        竹花 豊
    委員        瀬古 利彦
    教育長       大原 正行

 朝青龍の品格を非難する内舘という人とマラソンランナーであった瀬古という人以外は思い起こすことが出来ません。内舘という人が並はずれた品格の持ち主であることはぼくにもわかります。瀬古さんも同列のならず者なのでしょうか。
 どうしたらこのような卑劣な決定を取り消させることが出来るのか、東京の教育に関わりを持つ全ての人が考えなければなりません。
 とりあえず、土肥さんに励ましの声を届けましょう。教育委員に抗議の声を届けましょう。自由な言論を封じたらどんなことになるか、学校現場で進んでいる荒廃を想像すれば、恐ろしい限りです。

 1月31日の集会の様子を報告するHPがあります。土肥さんの姿も映っています。http://wind.ap.teacup.com/people/2967.html

 





ぼくの学生運動(6)文学部委員長選挙

2009-02-03 09:33:19 | 父・家族・自分
 副委員長候補は日本史一年の飯田くん、推薦文は同級生の高崎宗司くん(後に「思想の科学」・津田塾大学・朝鮮史)が書いています。これらの人々と面識はなく、立候補が決まってから紹介されたのではないかと思われます。

 先に紹介した「立候補にあたってー学生運動に現実的価値と意義を与えよう」というパンフレットを見ると私たちの選挙スローガンはつぎの3つです。

 ◎軍縮ゼミの成果の上に平和のための多数派を
 ◎平和と科学の創造をめざし、科学の解放と発展のために闘おう
 ◎伝統的学生運動を批判的に克服し、創意性と科学性に立脚した運動に

 直面する課題である筑波移転問題を意識して2番目のスローガンについて詳細な見解と活動方針が示されている。

 (A)科学技術革命は研究者・学生・国民のイニシアチブでーそれを独占資本に任せてはならない。

 …私たちは独占資本と国家権力の指導権のもとで新都市が建設されることに、断固反対する。したがって、「その限りにおいて」、本学の新都市移転にも絶対に賛成できない。それは科学を独占資本に従属させ、その限りない可能性を制限し、国民から隔絶するからである。… (註 カッコ内の文字には強調点がふってある)

  (B)民主的な大学と民主的な移転を勝ち取るために我々は何をどのように闘うか
 ①研究者と学生の共闘
 ②高等教育の民主的改革
 ③大学運営の民主的な改革と学生の参加
 ④学生自治会の民主的運営

 森くんが自ら鉄筆を握ったのか教員時代にも良く目にした端正な文字で心のこもった文章がつづられている。

 パンフレットの最後の文章はこうなっています。

 学生運動を反権力闘争に解消してしまったり、政治的に利用しようとする引き回しとは断固として闘わなければならない。
 学生運動は、政治・経済・科学・哲学・文化…あらゆる分野で、社会と歴史とのふれあいのなかで、逞しく歴史をうごかしていく。そのもっともヒューマニスチックな有機的な運動の中で、人間性を奪うあらゆるものと、もっとも有効に闘うであろう。

 ぼくが当選すれば同学年で4人目の委員長になります。役員の任期は半年ですからこれは異常です。直ぐ下の学年にやる人がいなかったのでしょう。森くんが自治会になじみの薄いぼくに話を持ってきたのはよっぽど困り果てた末だったのだろうと思われます。デモの指揮などは誰かがきちんとするからそんなことは心配しないで受けてくれと言われたことだけは覚えています。ぼくに自信があったはずはありませんがそういう事情でのショートリリーフということで引きうけたのではないかと思います。
 今、森くんたち、当時の教育大「共青」の指導部が作ったに違いない選挙のためのパンフレットに目を通してみると新入生を中心にして学生運動の再生をめざす思いが詰まっていることに気づきます。政党・党派の引き回しに反対し、全員加盟制の学生自治会を基盤にした民主主義的な運動の構築にかける意気込みです。「共青」の一員ではあるとはいえ、同世代の指導部とさえほとんど関わりのなかった無党派に近いぼくが委員長候補に擬せられたのにはそれなりの意味もあったのかも知れません。

 「教育大学新聞」(401号)によれば投票は11月27日から3日間で
 鈴木・飯田 293票  民青派の候補 274票  ということで辛勝したことがわかります。投票率は52・5%です。
 同時に行われた理学部・教育学部でも共青派の候補が勝ち、農学部を含めた4学部とも同系列の執行部となりました。(体育学部には自治会が認められていません)。

ぼくの学生運動 (5)筑波移転問題への『主張』(続)

2009-02-02 07:16:15 | 父・家族・自分
 『主張』の続きです。 
 

  “移転”と科学者の責任 「教育大学新聞」63・9・25

     科学者は何をすべきか
 
 一部には、研究学園計画を「軍国主義復活の総路線」に沿ったものであり、科学を米日独占の軍国主義に奉仕させるものだとの“移転絶対反対”の意見があった。しかし、その見解は、科学技術の発展が人類に与える普遍的な価値を拒否せざるを得ない。資本主義が打倒されるまでは、科学者は、生産に関与してはならないという後ろ向きの対応でしかなくなってくる。
 科学者が科学の発展と人類の進歩と対立することによって、果たして、科学を国民に解放することが出来るだろうか。科学ー技術ー生産力そのものの発展のなかに、それが全体的破滅を避けるあらゆる国民の平和共存の闘いと結びつくときに、科学技術の本質と冷戦構造の矛盾を揚棄していく可能性が出てくるのではないだろうか。
 科学ー技術ー生産力の発展そのものが、冷戦構造の奥深く介入し、生産関係をも変革していく可能性はないのか。そのために、現代、科学者は何をなすべきか、何をなし得るかを考えることが、キューリーのいう「科学者の責任」なのではないだろうか。
 「移転するか、どうか」を早急に結論づけることは、何とか防げそうである。私たちは、これから、科学を追究するすべてのももの責任として上に述べたような意味で“科学”と“大学”を再検討してみなければならない。
 移転問題を“移転”の点のみで考えているのでは、私たちはそこからなにものをもみいだし得ないばかりでなく、仕組まれた罠に自らを追い込んでしまうことになろう。科学技術の将来に私たちがどのように対応するかが、問題の核心であることを確認すべきであろう。(了)

 この頃の教育大の学生運動は森くんたちの主導のもとに展開されていた軍縮ゼミ運動に代表される。科学者または科学者予備軍的な学生層の時代的な役割を自覚した運動をつくりあげようとしていたように思う。「労働者階級」の一員として「日本革命」の一翼を担う伝統的な学生運動がなりたたなくなり、新たな可能性を模索していたともいえよう。「学生運動の転換」「層としての運動」などという言葉がつかわれていた。新聞会でこの流れを主導していたのはMくんである。
 ぼくは頭では理解しようと務めていたが「軍縮ゼミ」運動には熱心にはなれなかった。頭で考えるよりは体を動かしている方がむいているからであろう。何か現実離れをしているようにも感じたのではないか。
 筑波移転問題が出てきたとき、科学・技術革命にどう対応するかという問題ととらえることに新聞会内に異論はなかったと思う。しかし、筑波研究学園都市構想自体を積極的に理解し、推進すべしとするMくんの意見にはぼくは賛成できなかった。他にもいろいろな見解があった。そういう討論の状況をふまえて書いた「主張」である。

 「階級対立に深く根ざした冷戦構造」「働く人々の一大共同体の一員として、働くひとびととともに闘う」「全体的破滅を避けるあらゆる国民の平和共存の闘いと結びつくときに」などという言葉をちりばめながら自分なりの主張を書くべく苦労した記憶がある。
 Mくんの意見を載せるのであれば個人の考えとして署名入りで書くように求めたように思う。実際には「時評」として2面の下段に掲載されている。

 2月1日(日)
 昼過ぎ、中国・深せんから国慶節の休みで里帰りしている文恵さんがお子さんを連れて遊びに来てくれました。ペルー国籍の中国人(変な言い方ですが)だというお連れ合いを紹介するつもりだったそうですが、ぼくが伊豆に行っているうちに一足早く帰国したそうです。残念。
 女性二人が話をしている間に、三歳になるこうちゃんと一時間以上近くの公園で遊びました。ぼくを仲間にして飽きることなく滑り台に挑戦します。お陰で結構な運動をしました。今年は深せんに行けるかな。
 同じ時間に杜くん夫妻から菊地くんと昼食会をするから来ないかという誘いを受けていました。杜くんが横浜港から鑑真号に乗せられて国外退去になった時から十数年ぶりの同級生との再会です。


ぼくの学生運動 (4)筑波移転問題への『主張』

2009-02-01 05:50:59 | 父・家族・自分
 ぼくが編集長をしていた63年夏に教育大学の筑波移転問題が浮上してきました。筑波研究学園都市構想の中核になる大学として教育大を移転・再編しようというものです。飯田くん(編集次長。のちに教育庁指導部高校教育指導課長・都立高校長)などと情報の収集につとめ、なんども新聞の号外を発行しました。また、「主張」討論を繰り返して新聞会としてのこの問題に対する基本姿勢の確立に務めました。ぼくの任期の最後の新聞(397号 63・9・25)に討論をふまえてぼくが書いた「主張」が載っています。論文を書くのが苦手なぼくが精魂を振り絞って書いた記憶があります。当時の私たちの考えを知って貰うために書き写すことにします。


  “移転”と科学者の責任   教育大学新聞「主張」(63・9・25)

 “私たちの時代には、純粋科学と応用科学はますますおたがいに依存するようになってきた。基礎的な実験および理論科学における成果は、いよいよ急速に新しい技術の進歩に移される。この加速度的な傾向は、破壊力を増す武器をつくり出すと同様に、人類の富と福祉を増大させる手段の進歩においてもはっきりあらわれている。”(第3回パグウォシュ会議「ウィーン宣言」1958年)


   科学技術革命と冷戦構造

 現代は「科学技術革命」の時代である。技術が科学をリードした時代では既になくて、科学が技術、したがってまた生産力の発展を規定する時代である。今世紀に入ってからの原子物理学のめざましい発展は、このことをはっきりと示し、未来への限りない可能性を人類に与えた。しかし、現代は同時に、階級対立に深く根ざした冷戦構造が私たちの生活の隅々まで貫徹している時代でもある。キューリー夫妻・ラザフォード・アインシュタインなど高名な科学者の研究が、原水爆として具現され、人類と敵対している現実を考えれば十分であろう。バナール教授が指摘するように、「資本主義国においては、科学者は……政府が独占資本の使用人でしかなく、その成果が何に用いられるかは政府と独占資本の意志によって決定される」からである。冷戦の論理はすべてのひとびとの生活を貫きとおし、進歩と発展を阻んでいる。
 「科学・技術革命」がもつ、こうした現代的矛盾は、科学をさらに国民に解放し、生活を豊かにすることを阻むだけではなく、”共滅”の淵深く人類を陥れようとさえしている。科学者は、彼らのもたらした恐怖に戦慄しながら、なお、大規模に発展した研究を支えるため、政府や独占資本に頼らざるをえない矛盾に苦悩している。
 こうした時代にあって、科学者に課せられた使命は、いうまでもなく、科学技術革命の本質と軍事価値優先の論理ー冷戦構造との矛盾を止揚し、「科学を平和と人類の幸福のため最大限に利用できるよう」「働く人々の一大共同体の一員として、働くひとびととともに」(ジョリオ・キューリー)闘うことである。

      移転問題の焦点

 私たちが先に指摘したように(本紙号外)、新研究学園都市は、単に、首都の過大化防止という側面にとどまらず、「科学・技術革命」に当面している我が国にとって、必然的に提起されてきた計画と見るべきであろう。冷戦の論理が冷酷に支配しているこの国である以上、<前節>に指摘した矛盾はこの計画にも貫かざるを得ない。移るべきとされる大学に主に“期待”されるのは、技術ー生産力の発展を保障する基礎科学研究部門なのであろう。そうであるなら、その都市への移転を考える者は、科学者として、冷静に、キューリーのいう「科学者の責任」について考えねばならないはずだ。「科学技術革命」と冷戦構造の矛盾、その止揚と科学の国民への解放について考えてみなければならないはずだ。
 問題は決して「移るか、移らないか」ではない。核心は「東京から遠い」「田舎大学になる」「一時研究が妨げられる」ではない。
 私たちは大学首脳部の独走的、非民主的なとりあげ方は、大学と科学を自ら失うことになると、9月移転決定には絶対反対してきたが、教授会をはじめ、さまざまな討論の場で、“大学人根性”丸出しの意見(“賛成”にせよ、“反対”にせよ)が主流を占め、科学者としての自覚に基づいて、科学の未来に責任を持つ意見が僅少でしかなかったことをそれ以上に遺憾に思う。(つづく)