川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

良寛と柏崎刈羽原発  中越の旅(下)

2011-09-05 10:54:32 | 出会いの旅

8月31日(水)晴れ

 (長岡市)寺泊~(長岡市)和島・歴史民俗資料館~隆泉寺(良寛墓碑)・宇奈具志神社(良寛詩歌碑)~出雲崎町・良寛堂~柏崎刈羽原子

力発電所~(長岡市)小国町・真福寺(木喰上人・仁王像)~小千谷IC~関越高速道路~川越

①良寛墓碑・詩歌碑

 良寛が最晩年を過ごした木村家のある(旧和島村)島崎の辺りは「はちすば通り」と名付けられて散歩道になっている。墓碑は木村家の菩提寺・隆泉寺にあり、近くには托鉢する良寛像もある。隣の神社にある良寛詩歌碑を眺めていたら近所の女性が現れて「良寛禅師の遺墨(建碑の拓本の縮刷版)」という印刷物を差し出してくれた。おかげでなんとか読むことができた。漢詩・俳句・短歌が刻まれている。

                                            「倒るれば 倒るるままの 庭の草」

       出典●http://www2.tokai.or.jp/mm/washima.html

 

②出雲崎・良寛堂

良寛の生家跡に建つ良寛堂。ここは昔来たことがある。日本海のかなたに良寛の母の故郷・佐渡島が見える。安田靭彦の作だという。近くの住吉神社に登って佐渡を遠望してみた。

 「いにしへにかはらぬものはありそみとむかひにみゆるさどのしまなり」

 ③柏崎刈羽原子力発電所  

 ここまで来たからには東電柏崎刈羽(かしわざき・かりわ)原発も見ておこうということになる。まずはPR館に寄って昼食。軽食だが安くて美味しい。

 ついで実物の5分の一の原子炉模型を女性社員の案内付きで見学。お姉さんの説明は丁寧で優しいが当然ながら「当社」寄りである。申請すれば原発構内も案内してもらえるというので早速実行する。

 写真付きの公共機関が発行する本人証明書が必要である。妻と娘は運転免許証、僕は住民基本台帳カードでクリアー。しばらく待っていると車がやってきて3人を載せてくれた。発電所入口では運転手(案内人)が警備員のチェックを受ける。

   

 壮年の案内人はかつて福島第一原発でも働いていたという。ここは7号機まであり福島第一よりは広い。合計発電能力は世界最大だが、今動いているのは5号機と6号機だけで、この2機も来春には定期検査に入るらしい。そうなると東電の原発は全て停止となる。

 広い構内の発電施設の周りをゆっくりと(40分くらい)回りながら説明をしてくれた。記憶に残ったこと。

 1 赤くて巨大な避雷針鉄塔が3基、海よりに建っている。雷雲は能登半島方面から米山(よねやま)を経てやってくることが多いらしい。発電所の生命線に打撃を与えかねないので万全の対応をしているという。

 2 この発電所で働いている東電社員は1200人。協力会社社員は6000人。これにはびっくりした。あちこちに協力会社の建物がある。協力会社というのは定期検査の時などに働く下請け会社のことかと思っていたら、日立や東芝などの大会社も含まれるらしい。実際に発電機を回しているのはこれらの会社の社員で東電の社員は全体のマネージメントをしている。どうもそういうことらしい。原発に関する僕の認識は根本的に間違っていたようだ。

 東電には食堂があるが協力会社には無く、街の弁当会社の車で昼時は混雑するほどだという。これだけのひとが働いているとすれば柏崎はまさに原発城下町ということになる。東電抜きには町が成り立たなくなっているのだろう。

 3 海上には海上保安庁の巡視船が停泊していた。北朝鮮などのテロ攻撃を警戒しているのだろう。(01年の9・11までは構内の見学も自由に行われていたらしい)。

 4 津波対策の防波堤や防護壁の建設はこれからだという。中越沖地震で毀れた原発の補修工事も終わっていない。それでも5・6号機は動いており、熱排水が海に流れ込んでいた。地震や津波が起きる可能性はないと言えるのだろうか。

 丁寧に案内してくれた方々にお礼を言って、旅の最後の目的地・小国町・真福寺に向かった。

 参考資料●http://gendai.net/articles/view/syakai/132432

 

 東電・柏崎刈羽原子力発電所全景(廃土で造った岡の向こう側の5・6号機だけが稼働中だ)●http://www.tepco.co.jp/nu/kk-np/index-j.html


 信濃川大河津分水と宮本武之輔  中越の旅(中)

2011-09-04 11:26:28 | 出会いの旅

8月30日(火)晴れ

 喜芳(長岡市三島町上岩井)~寛益寺(かんにゃくじ)~与板町・楽山亭・中学校~信濃川(右岸)~大河津資料館~国上

寺・五合庵~弥彦山スカイライン~越後七浦シーサイドライン~寺泊・住吉屋(泊)

 

①寛益寺山門 仁王像と藁葺き屋根の唐草模様

 地図に「橋の町」とあるところを訪ねたら寛益寺という寺があった。仁王さんの表情も面白いが山門の藁葺(わらぶ)き屋根の庇(ひさし)に唐草模様があるのに気づいた。亀の模様がある一角もあった。村人たちのオシャレ感覚に脱帽。

 

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出典●http://imai-sekkei.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a771.html

②信濃川風景(右岸・中之島町)

 城下町・与板の街並みや楽山亭からの景観を楽しんだあと与板中学校に寄った。校舎の壁が柳行李(やなぎこおり)模様になっている。ここは昔、柳行李の産地だったという。

 信濃川の橋をわたって右岸の土手上の道(「道路ではない」と断り書きがある立派な道)を大河津(おおかわず)分水に向かった。天下の大河・信濃川とようやく出会えたという喜びがあった。向うに見えるのは国上(くがみ)山・弥彦山である。

出典●http://www.pref.niigata.lg.jp/nagaoka_kikaku/1204737350657.html

③大河津分水

 去年12月には閉まっていた「信濃川大河津資料館」に寄った。

 写真(左)。中央に伸びるのが人工の河川・分水。ここから信濃川の余分な水を日本海に流して信濃川下流部(新潟平野)の洪水を防いでいる。堰は可動堰。下方が信濃川本流。洗い堰がかかっている。

 写真(右)。分水上空から見た新潟平野。悪水に悩まされた湿田地帯も分水が完成したおかげで今や日本有数の穀倉地帯になった。整備された大河・信濃川の流れが平野を潤し、日本海に注ぐ。

 

④青山士(あきら)と宮本武之輔

分水の開鑿は江戸時代から農民の悲願だったが、可動堰が完成したのは1931(昭和6)年である。この時の堰建設の総責任者は青山士だが、可動堰を設計し、建設工事の先頭にたったのは宮本武之輔という人であったという。

 青山はどこでどんな工事をする時にも「人類ノ為ニ」という視点を貫いたというが、宮本は民衆のために民衆と共に働いた土木技術者だという。分水が完成したとき、人々の先頭に立って行進する宮本の写真があった。誰の意見にも耳を傾ける広い心の持ち主だったという。こういうリーダーに恵まれて今の新潟があることを私たちは決して忘れてはならない。

 宮本は愛媛県松山市の沖に浮かぶ興居島(ごごしま)の出身だという。僕は愛媛の出身ではないがこの島はなんども眺めている。こんな誇らしい人がいたことを愛媛の友人たちは知っているだろうか。お節介ながらも知らせてやらなくちゃと思った。

 参考資料●宮本武之輔 http://www.jsce.or.jp/contents/avc/miyamoto_rireki.shtml

 


イレッサに薬効あり

2011-09-03 07:01:46 | 父・家族・自分

9月2日(金)晴れたり曇ったり

 午後、癌研有明病院で検査と西尾医師の診断があった。

「抗がん剤イレッサの服用開始から3週間が経過したがX線検査にも血液検査にも格別の異常はなく副作用は現れていない。右肺に転移した癌はX線でも小さくなっていることが確認できる」。

 抗がん剤治療が順調に推移しているという嬉しい診断であった。薬効の程を詳しく調べるCT検査は12日、通知簿は14日にもらう予定である。イレッサが僕の癌に効き目があるだろうことは前々から聞かされていたことではあるが、今日ばかりは先生の顔もほころんでいた。

 病院でもう一つ嬉しい出来事があった。呼吸器センターの外来の待合室で待っていると看護師さんから「鈴木さんの元生徒が働いていますよ。お会いになりますか」と言われた。N・真理子さん(文京高校・2002年3月卒業)だった。僕が顧問をしていた「ASIAN」同好会の元部長。同級生と結婚してお子さんもいるという。ほぼ10年ぶりの懐かしい再会。

 この3月にK・佳代さん(01年3月卒業)が退職して寂しくなったところだった。僕が世話になっている呼吸器科で働いていたとは。心強いことである。(3日朝・記)

 昨日は夜になっても嬉しいニュースがあった。W・胤賓くん(北高・92年3月卒業)からの電話。「円高で事業は厳しいが家族共々元気」。何よりだ。

 台風12号は高知県に上陸するようだ。直前の室戸岬港(旧港)の様子。江戸時代に野中兼山が開鑿した。新港の奥に鎮まっているので穏やかな風景だ。子供の時にはこの港でもよく泳いだ。

 出典●http://blog.umamenoki.com/?day=20110902


木喰仏との出会い 中越の旅(上)

2011-09-02 08:34:03 | 出会いの旅

8月29日(月)晴れ

 川越~越後川口S・A~小千谷IC~小栗山木喰観音堂~金倉山展望台~蓬平(よもぎだいら)温泉(昼食)~寳生(ほうしょう)寺~喜芳

 ①信濃川の流れ(越後川口S・A)

 魚野川と信濃川の合流する風景が見られるかと寄ってみたがそれは叶わなかった。

小千谷・川口 写真

 ②小栗山木喰観音堂(小千谷市小栗山)

群馬県に入る頃小千谷観光協会(0258-83-3512)に電話して拝観をお願いしておいたら管理人の坂詰司朗さんが開扉して待っていてくれた。先年の中越地震でこの辺りも集落ごと孤立するほどの被害を受け観音堂も傾いたという。

 このお堂に安置されているのは如意輪観音像を中心とした33観音と行基菩薩、大黒天。木喰上人はイチョウの巨木を見つけては持ち主の許可を得て仏像を彫った。ここに住みついたのは1803年から04年までのことで上人86才の時であったという。娘や妻に連れてきてもらったが僕は木喰上人のことを何も知らない。微笑みを浮かべた諸仏を見、坂詰さんのお話を聞いているうちにこの人のことを知りたいと思うようになった。

木喰仏

 下は小栗山の諸仏。右は寳生寺の木喰堂で見た「木喰自刻像」。

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  ④金倉山展望台 

  もう一人の管理人である広井正二さんも姿を見せてくださって畑から採ってきたばかりのピーマンを持たせてくれた。後ろの山の眺めがいいというので登ってみた。信濃川や越後三山の眺めはもちろんのことだが足下に見える山古志村の棚田の風景が見事だ。鯉の養殖も再開されているようだ。

 娘がこういった。「東電の罪は深い」。

 中越地震から数年を経て山古志の棚田は見事に耕されている。みのりの秋も近い。福島第一原発事故で放射能汚染された福島県浜通りの田畑が再び稔の季節を迎える日はいつ来るというのだろう。 

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出典●http://blogs.yahoo.co.jp/okuaizu3/29630841.html

 


真福寺の仁王さん

2011-09-01 16:13:01 | 出会いの旅

昨夕8時、新潟県小千谷・長岡地域の旅から無事帰りつきました。充実した3日間を過ごしたためか今日は終日ゴロゴロ。旅のメモは他日を帰すことにします。

真福寺

 旅の最後に寄った長岡市小国町真福寺の仁王像。奄美大島出身の横綱・朝潮太郎に似ているかな。木喰上人(もくじきしょうにん)晩年の作。ケヤキの大木を一木彫成したという。