渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

三泊四日刀剣三昧の旅 ~首都圏⇔中国地区広島エリア~

2024年11月19日 | open



冬の訪れを告げる広島の祭
り、胡子講(えびすこう)。
広島市内では「えべっさん」
と呼ばれて親しまれている。
商売繁盛祈願の祭りとして
も多くの人出がある。

ハマの旅人親子はえべっさん
にも行ったらしい。




昼から広島県の地酒加茂鶴。
これは正解だぜ。
きすひけ~、てね。
昼酒最高。


「がんす」なる広島名物も
食した模様。とてもおいし
かったらしい。
おいらウマいガンスに当た
った事無くてさぁ。それは
アンラッキーだよな。
広島の友人たちはうまいの
あるしちょい焼きでさらに
ウマいとか言うけど、なか
なか店行くおいらにゃ当た
らない。

初広島ガンスで初ヒット、
それは重畳なり。


てことで、あす朝ハマの親子
は帰路につく。
またね~。
差料の刀はまだ当分広島にい
るけど
さ(笑

ハマ友親子はきょうも宮島宝
物館で日本刀
を観て来たとい
う。

初日、二日目、三日目と日本
刀を観続け。
これぁ良い旅ですよ、と。
一口大山宗重(保存刀剣)を保存
協会に貸与してくれたおかげ
で、貴重な宗重集合に花を添
えてくれた。
私とハマの友人が宗重の刀を
所有しているのはたまたまの
歴史のめぐりあわせだが、そ
の奇遇は今回の歴史的な東広
島市市制50周年記念の刀剣展
に協力する事ができた。
郷土の歴史研究への貢献だけ
でなく、日本刀剣史の研究の
深化にも一役買う事ができた。
㈶日本美術刀剣保存協会(本部
東京)も今回の開催には絶賛の
賛辞を寄せてくれている。
そして「千年世の歴史と伝統
を持つ刀剣文化のさらなる発
展を」と締めくくっている。
今回の企画は、ただの名刀展
ではなく、歴史性を改めて掘
り下げる意味においても、日
本刀研究の立場からも極めて
意義深いものとなっている。
開催終了は12/1。
近県近隣の日本刀研究者、興
味のある方はぜひ来訪願いた
く。
私たちが訪問した時には結構
人が入って見入ってました。

友よ、三日間の刀剣見学遊覧
の旅、おつかれでした。
飲み会時の横浜の方言がとめ

どもなく懐かしかった(笑


 

 


厳島・弥山(標高535m)

2024年11月19日 | open


きょうの宮島の山、弥山
山頂付近から。

ハマの旅人撮影。

1980年の弥山の同じ場所
被写体おれ。



人は変われど風景変わらず(笑

花の色は うつりにけりな
 いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに

てな事うちのこまっちゃんが
詠んでたけどよ~。

花は桜木 人は武士

だろうよ、おばちゃん、と。
花はパッと散る桜木に限る、
とね。
あーたの頃は花といえば梅
だったのだろうけどさ。

散ったあと。一昨夜。

散りも積もれば野となれ山
となれ、ってやつさ。
落葉の季節はまだ先。



 


沈む夕日と厳島

2024年11月19日 | open



きょうの沈む夕日と厳島。
ハマの旅人撮影。

瀬戸内海は流れは急だが常
に凪いでいる
ので、朝日も
日中も日没も
海面(うなも)
が鏡のように
なって「光る
海」が現れる。

瀬戸の風物の抒情的景色だ。

厳島に向かう船上から。



 


 


日本刀の美 ~刀剣展示会/東広島美術館~

2024年11月19日 | open

 

日本刀の美 ―大山住宗重と広島ゆかりの刀剣

日本刀の美 ―大山住宗重と広島ゆかりの刀剣

東広島ゆかりの刀鍛冶に大山住宗重と銘する刀工がいる。大山鍛冶は、建武年間頃(14世紀中頃)に筑前の左一派が大山(東広島市八本松町・広島市安芸区瀬野)に来住したとい...

美術展ナビ

 

東広島市制施行50周年記念 日本刀の美 ―
大山住宗重と広島ゆかりの刀剣 |
東広島市立美術館

私の安藝國住仁宗重作。
天正八年二月吉日。


かなり素晴らしい刀剣展示会

です。
照明具合もばっちり。
地元広島県に関係する郷土刀
剣展示の催しですが、他の名
刀も同時展示で堪能できます。
私の差料の天正八年作の宗重
も一口展示してあります。
よろしかったら、ぜひ足をお
運びください。

私は刀剣好きで、1974年から
いろいろな展示催
しに行きま
したが、トッ
プクラスの良企
画の展示内容です。

手前味噌ではなく、おすすめ。
私も開催期間中、あと何度か

行ってみようと思っています。
広島県重要美術品の宗重始め
大山宗重が数多く一堂に会し
て展示されています。
こうした企画はもう二度とで
きないかも知れない。
宗重の作刀領域の変遷も年代
ごとの作品から顕著に観られ、
刀剣探究者としてもとても勉
強になりました。

主催:東広島市立美術館、
   中国新聞社
企画協力:広島県美術刀剣
   保存協会
後援:NHK広島放送局、中国
   放送、広島テレビ、広
   島ホームテレビ、テレ
   ビ新広島、広島エフエム
   放送、株式会社広島リビ
   ング新聞社、プレスネッ
   ト、KAMONケーブル、
   FM東広島89.7MHz、尾道
   エフエム放送


 


通報覚悟!元ローリング族仲間と35年ぶりの公道バトル【GSX-S125・峠・共同危険行為】

2024年11月19日 | open

通報覚悟!元ローリング族仲間
と35年ぶりの公道バトル
【GSX-S125・峠・共同危険行為】


「この先で事故が起きて
るというのに・・・

ヤエーとかしてるヤツ
バカなんじゃないの?」

バカ確定でしょう。
お花畑で危険だから、近寄
ないほうがいい。
乗り方も、SSバイクなのに
ボックス仕様なのもその手
の種族だし。

ただ昔の映像部分で、先生
が自分を「明らかに遅い」
と言っている少年Tとの比
較部分では、先生はアプロ
ーチで突っ込みすぎで、少
年Tと同じ地点で全く向き
が変わってない。ヤマハな
のに。
つまり突っ込み重視過ぎで
車の頭を回せてない。
少年Tは早めに適切減速を
終えて早くから回頭させつ
つ同地点ではすでに完全に
向きを変えてコーナーをベ
ストラインで抜けて行って
るので旋回脱出速度が先生
とまるで異なる。
先生は突っ込みは少年Tよ
り速いが、旋回初期段階で
向きが変わっておらず、結
局「遅い」。
巨摩郡が自分の走りを「結
局遅い」と指摘されたのと
同じような走りをしている。
後輪をGドリフトで外に出
してでも早めに回頭させて
速度を上げていける走りの
ほうが数個のコーナーのト
ータルでは結局速い。秀吉
のように。
秀吉の速さの秘密は回頭性
の区間設定を早目に持って
きている走りの組み立てだ
からだ。
突っ込みの区間タイムだけ
速くとも、それは一発野郎
になってしまうので、結果
として「遅い」となってし
まう。世界一、誰よりも速
い突っ込みのシュワンツが
何年も世界チャンピオンに
なれなかったのは、彼の走
りの組み立てが一発野郎だ
ったからだ。ノリック然り。
何かの拍子には総合でもた
まにまぐれで速いが、トー
タルではローソンやレイニ
ーのほうが速かった。
ローソンやレイニーはケニ
ー譲りの一発野郎走法では
なかったからだ。天才と呼
ばれたファースト・フレディ
でさえ、内実は実は直線部
分でしっかりと適正減速さ
せての脱出速度重視の回頭
性を早めにもってくるケニー
型の走りだった。フォーム
アクションが小柄なケニー
に比べると派手に見えたの
でケニーとは別物のような
走りの如く喧伝されている
が中身はそれとは違う。堅
実なケニータイプの走りだ。
片山さんなどはホンダ時代
は全く曲がらないバイクな
のに向きを早目に変えるの
が抜群に巧かった。片山さ
んは世界トップクラスの2
スト職人走者だった。メカ
ニックとしてのチューニン
グ(調律)のセットアップも
世界トップ。稀有な「車を
自分でセットアップできる」
GPライダーだった。

先生の現在走行のSP127で
の動画の速度域は、先生た
ちにとっては余裕のよっち
ゃんの領域なので、見てい
ても安定していて何一つ不
安要素は無い。
かなりマージンを取って安
全に配慮しているのが看取
できる。ロードもよく読ん
でいるのがコメントに入っ
ているし。好走動画だ。

私自身は峠はアホかという
走って来たが、専属専門
家のローリーでは
ない。行
ったり来たりは殆どしない。
グン&秀吉のように行って
帰るだけのパターンのパッ
シングスルーパー
ソンだ。
ただし、往年はワインディ
ングではド快
速。
今はそれの4割以下での
マー
ジン走行。超えても5割5分
以下の領域をキープしてい
る。
かつては自己の限界を10割
超とすると、9割
5分以上で
走っていた。
そりゃ何かのちょいミスで

がっつり転ぶよな。
2スト50でも下り6速全開フ
ルバン
クで前輪フルボトム
からの
チャター発生ですっ
飛び転
倒40メートル滑走で
ガードレールに挟まって谷
底への転落免れとか。
ちょい大きな排気量車でも
峠で前
後輪ドリフトとか普
通だっ
たし、ハイサイド抑
え制御なんてしょっちゅう
だった。旋回エンド立ち上
がり直前の120km/h前後で
時々発生するウォブル対処
とかも。

んなこと公道でしてっと、
そのう
ち死ぬ。
伊豆スカで直線300km/h以

上出してるSS車の動画を観
た事がある
が、そういうの
はやり過ぎ。
やり過ぎると腎虚になるど。

「オートバイは正しく乗り
ましょう」てやつだ。
どちら様もほどほどに。

嗜む程度に。











日本刀の見方

2024年11月19日 | open




日本刀には見方がある。
当て鑑定形式の鑑賞法では
なくとも。
刀はまず刀姿を観る。
刀姿全体から作られた時代
を探る。刀剣鑑賞法の第一
条項だ。
以降は私独自の方法。
・全体像から棟等の各部を
 観る。
・研ぎの仕上がり具合を観る。
・帽子(鋩=切先)の造形を
 観る。
・鎬の線を観る。
・鎬幅を観る。
・地鉄(じがね)を観る。特に色。
 良質古刀は青い。新刀は総じ
 て白い。
・鎬地と平地の鍛え方を観る。
・鎬地の鉄変態状態を観る。
・平地の鉄変態状態を観る。
・焼き刃の頭=刃文を観る。
・焼き刃の中の鋼の働きを観る。
・区(まち)部分を観る(鎺/はばき
 を取り外している場合)
・茎(なかご)全体の姿を観る。
・茎の錆色を観る。
・茎のやすり目を観る。
・茎の厚みを観る。
・銘の鏨運び具合を観る。
・全体の研ぎ技法の詳細を観る。

という具合。
研ぎについては達人が研ぐと
下地研ぎが抜群に良い。
逆に言うと、下地研ぎが巧み
でなくば、絶対に仕上げ研ぎ
もついて来ない。
観た瞬間に即分かるのが研ぎ
の良し悪しだ。

日本刀には見方がある。
そして、精査するように見る
には、日本刀に関する基礎知
識が無いと、刀を観ても全く
何が何だかわからない。
ポイントとしては、徹底的に
地鉄(じがね)の具合を観る事
だ。
極言すると、「刀を見るには
鉄を見る」なのである。


 



東京の寄席 ~浅草演芸ホール~

2024年11月19日 | open



私の母と娘は二人で浅草
寄席に行ったそうだ。

「らくごお~?」と最初は
怪訝そうに敬遠気味だった
娘だが、場内の客席で一番
声出して大笑いしていた
はうちの娘だったらしい。
なんつーこったい(笑

新宿区民だった頃は末廣亭
に私はよく行った。
娘は新宿生まれだが、新宿
に住んでいた頃は生まれて
間もないので寄席には連れ
て行かなかった。
娘は本物の落語を生で生ま
れて初めて聞いたのが一昨
日だったようだ。
出し物も多く、寄席は東京
人たちの日常的大衆演劇場
として人々は楽しんでいる。
大阪にもお笑いの劇場が多
くあり、大阪の人たちは親
しんでいる。
「笑い」というのは人々に
とってとても大切なものだ。
生命の潤滑油のように。
人の幸せは笑顔から生まれ
る。
笑えない事が多すぎる世の
中、「お笑い」の存在は重
要だ。





 


広島の夜 ~お好み焼き~

2024年11月19日 | open



三泊四日の広島の旅。
初日夜に喰いっぱぐれた
広島のお好み焼きに二日
目の夜、横浜の親子は辿
りつけたようだ。
本場広島で広島焼きを食
べるのは二人とも初めて
だろう。

横浜人が持って来てくれ
たお土産は崎陽軒のシウ
マイだった。シュウマイ
ではない。シウマイ。
私の母が東京旅行から帰
って来てのお土産も崎陽
軒のシウマイだった(笑
ラッキー!
ダブルで崎陽軒だいっ。
「やったぜパパ!あしたは
ホームランだ!」(それは
吉野家の1970年代CMだ)

私が3才の頃、なぜか食が細
くなり、あの手この手で母が
工夫するが食べない。そして
崎陽軒のシウマイだけが食べ
られた時があったという。
「崎陽軒のシウマイで育っ
た」とも母は言う。
それでなくても、神奈川人
は崎陽軒のシウマイに格別
の思い入れがある。
本格的中華飯店のシュウマイ
のような豪華な味ではない。
まるで即席駅弁のようなチー
プな味だ。
だが、特別な味。独特の味。
やみつきになる味。
横浜を中心とする神奈川の
人間は崎陽軒のシウマイが
大好きだ。嫌いだという人
は聞いたことがない。
神奈川人のソウルフードだと
思う。広島人のお好み焼きの
ように。

崎陽軒のシウマイ最高!!


マニアは陶器の醤油入れ
の「ひょうちゃん」を集
めたりしている。
一つ一つ全て絵柄が異な
る「ひょうちゃん」。
箸置きにもなる。
これは横浜の崎陽軒のア
イデア
ヒット物だ。

崎陽軒


東京のお父さんたちの
土産の折詰は、寿司と

うのが定番だった。

神奈川では崎陽軒のシウ
マイが鉄板の定番だった。
よくサザエさんなどでも
お父さんたちが片手にぶ
ら下
げているのは、あれ
は寿司の折詰。

東京は寿司、神奈川は崎
陽軒のシ
ウマイ。
これお土産の法則。



 


日本刀見学の旅 ~ヒロシマの朝~

2024年11月19日 | open


旅の二日目。
翌朝は、私は6時前からず

っと外の川沿いを散歩して
からホテ
ルでモーニング朝
食。


明けてぞ朝は城に行く。


その前に護国神社に参る。






七五三の着物の女の子たちが
何人もいて、とても可愛かっ
た。
うちらの娘もああいう時があ
ったね、と男親同士3人で話す。
全員二輪乗りで剣士で斬鉄剣
所持者。

御城の本丸内に入る。
紅葉と黄色く色づく木の葉
綺麗だ。





赤黄青の色の共演。


本丸天守。原爆で消滅した
ので再建天守だ。


築城は天正年間の毛利輝元だ
が、城の完成は毛利の手によ
るものではない。

福島正則が江戸時代初期に広
島城を完成させた。それによ
り広
島という大きな町が誕生
した。

戦国時代末期まではただの海
とデル
タ地帯だ。戦国期の毛
利の元の城
は内陸部の山の上
にあった。

福島正則が広島城を築城完成
させ、大城下町を作り、
関ヶ
原以降に安藝・備後の太
守と
して入封(にゅうほう)し
た。
広島藩の三原城にしても、

毛利一門の小早川隆景が築城
に着手したが、江戸期の正保
年間に確認できた櫓32基、城
門14もの大規模の城郭は福島
則時代の江戸時代初期に完
成をみた。

安芸備後の広島藩はその後、
幕府の大名潰しの全国的パ

ハラの一貫として福島氏が城
郭無断改築の濡れ衣を着せら
れて転封(てんぽう)改易とな
た。

そして、備後と安藝は領地が
分割され、安藝46万5000石の
石高大名として紀州から外様
の浅野家が入封し、明治維新
まで治めた。
備後国最西部の三原城付近は
浅野家の領地として組み込ま
れ、それより東は元和の時代
に最新城郭として福山城が
作られ、福山という町が初め
て誕生した。福山城は水野家
5代、松平家1代、阿部家10代
と城主が入れ替わった。幕末
の七代藩主の阿部正弘は老中
主座に就任し安政の改革を断
行した。天保の改革後に老中
に返り咲いた水野忠邦と対立
した。阿部正弘は天保改革時
代に不正を行っていた重役た
ちをすべて断罪、処分し、水
野忠邦本人も不正悪事の黒幕
として追及して老中首座から
引きずり降ろして自分が首座
に就いた。幕閣内の政争とは
いえ、かなりの辣腕政治力を
阿部正弘は発揮したが、外国
との外交面では苦戦を強いら
れ、嘉永7年(1854年)に日米和
親条約を結ぶに至り、幕末動
乱のきっかけを作った。
このあたりは、我々も中学の
時の教科書で習った通りだ。
阿部正弘は一度しか国許に訪
れた事がない江戸生まれ江戸
育ちの江戸前大名だった。

なお、広島藩では、浅野家の
家老が治
めた三原の城内と城
下に住んだ武士
たちは全員が
広島本藩の浅野家中だった。
三原にいた武士は46万5000石
の広島藩の藩士。

厳密には江戸時代には「藩」
という組織は正式には存在せ
ず、あくまで俗に呼称する方
式だった。正式には「〇〇家」
だ。

全国の侍という家臣団は領主
たる大名(1万石以上)もしくは
直参旗本(1万石以下)から禄を
食み、代償として「奉公」を
する。奉公の種たる任務は軍
役動員での主君警護と対敵戦
闘になるが、平時には為政者
となって殿様の差配地を治め
るのが武士の役目だった。
つまり、城勤めの武士=侍は
戦士であると共に行政官その
ものだった。
だが、現代の軍隊と異なるの
は、武士には自己決裁権があ
り、藩主隷属の奴隷ではなか
った。傭兵的性格を強く堅持
していたのが武士だった。
そのため、どんなに家禄が少

なくとも、知行地を持つ知行
取の侍は治める領地と領民を
持つ「殿様」だった。

だが、四公六民の分配なので
小禄の場合、知行取よりも
蔵米取の武士のほうが実収入
が多い場合も生じた。家格と
しては知行取のほうが高位だ。
武家政権はこうした地位は高
いが低い者よりも収入が少な
いという巧みな統治形式を
取っていた。旗本などは大名
よりも遥かに収入は低いが家
格は大名よりも高かった。
そのような変則技を末端まで
敷いていたのが武士の社会の
仕組みだった。金さえあれば
高位なのではない、という仕
組み。
しかし、幕閣内では大金が動
く不正が横行していた。天保
の改革などの時代にはひどい

ものだった。幕府内には妖怪
とまで呼ばれた私服を肥やす

重臣もいた。
一方、貨幣経済が発展するに
つけ、「武士は食わねど高楊
枝」が現実となり、元禄以降
は殆どの武士が貧困に喘いだ。
特に下級武士たちは爪に火を

灯すような暮らしぶりだった。

武士は各人が禄高に関係なく
自分で考えて行動する種族で、
主人が誤った事を為せば、そ
れを諫めて批判する存在でも
あった。主君だけでなく、他
者である士に対しても不正に
ついては
真摯に批判し糺し正
そうとす
るのが武士だった。
それらは命をかけて行われた。
首長が全会一致の不信任案で
辞任したのにネットを使った
拡散選挙戦略で事の真実を欺
罔するだけでなくあたかも嘘
が真実であるかのように情報
を広めて愚民がそれを信じて
投票して長に返り咲く
などと
いう、現代社会の歪ん
だ本当
の大たわけの図式が入り込む
余地は無かった。
まして部下を追い込みの執拗
なパワハラで
二人も死亡者を
出していなが
ら、知らぬ存ぜ
ぬの顔で再出馬
するなどとい
う人にあらずの恥知らずでは

日本人としては首長にはなれ
ない。首長自ら
いつでも腹斬
る覚悟がなけれ
ばやっていけ
ない真剣勝負の
世界が武家政
権時代だった。

すべてにおいて命がけ。
そうした種族が政治を司った

のが幕藩体制だった。
殿様だろうが、断罪されたな
ら自らの腹に刃を当てて自刃
するのが武士の世界だったの
である。
すべてが真剣に生きなければ
成立しない世の中が武家政権
だった。腹に刃当てる覚悟の
無い者は人の上には立てなか

った。士の世界とはそういう
ものだったのである。
そしてそれは、世界に冠たる

世界の中でも稀有な日本固有
の伝
統文化だったのだ。
日本に武士がいなければ、今
頃は中南米のように16世紀に
スペインに侵略され、文化も
人間も社会世相も中南米のよ
うになっていた事だろう。
あるいはアフリカの紛争地帯
のように。


広島城の濠は異様に幅が広い。


小さな湖ほどに広い濠が
めぐらされている城郭だ。
ここは力攻めしようとし
ても難攻不落なのでは。


天守内は撮影OKだった。


天守内にある鉄砲ドン!の
銃眼。横には石落としの窓
もある。


幕末の広島藩士の銃と十手。


幕末の小銃。エンフィールド
とスナイドル銃だ。
幕末に広島藩士は全員火縄で
はなく洋式小銃装備に再編さ
れた。


武士の家の居住空間の再現。




天守最上階から広島市内を
観る。


原爆ドームが見える。
遠方は厳島=宮島の山。


城を下りて、平和公園に行く。
ここだけなぜかおフランス風。


このカフェで昼食を取る事
にした。少し待つ。


川のほとりには市内の川の
クルーズ遊覧船、宮島への
船便の発着所がある。
ずらりと外国人観光客が並
んでいた。






外国人観光客だらけ。
ここだけ見たらまるでパリ
だ。


名前予約で待ってようやく
入店できた。テレビ局が撮
影していた。


店内も。何かの番組で我々
も映ったのだろう。


ほんとここだけシャンゼリゼ。


でも食べるのはイタリアン(笑
ここのお店、パスタもピッツァ
もケーキもベラボーに美味し
かった。平和公園内にある有
名な人気店だ。


食事後、原爆ドームに行く。
友人二人と娘さんは周囲を
一周あるいていた。


あたしゃ元安川のほとり
で川眺め。


原爆資料館に4人で行く。
資料館が初めてだという娘
さんは結構ショックを受け
ていた。
その思いが核兵器廃絶と世
界平和への祈願になってく
れる事を祈る。




平和公園から平和大通りに
出て、カフェで一休みする
事にした。すでにかなり歩
いている。


おしゃれなカフェとなると
なぜかフランスかイタリア
風になるという不思議(笑


昨日から食べ物が超ラッキー
だった。この店もかなり美味
しかった。

その頃、私の母は都内に住
む私の娘夫婦と共に千葉県
の鼠國鼠海に行っていた。
千葉のベニス(笑


こちらは園内の食事がウル
トラまずかったそうだ。
特にパスタがなんだこれ?
だった模様。
それは、残念アンラッキー。


広島市内訪問組はとても
おいしい食事とスイーツ
にありつけていた。
我々が行った平和大通りの
店も、棒にベラが付く程に
美味しかった。
観光者にとっては、こうい
うのは単なるラッキー。
たまたまふと行った先々の
店でおいしいお店に当たる
というのは、幸運直撃、ラ
ッキーストライクだ。
今回はどの店も予め調べて
予約取ってから行く、など
というものではなかった。
幸運が連続する幸せな旅だ
った。


てことで私と九州人は広島
駅でバイチャ。
横浜父娘たちは翌日は広島
市内から安芸の宮島まで行
くという。
日本刀見学三昧の二日間だ
ったが実に有意義だった。
東広島美術館でも広島城で
も名刀良作を多く見られた。
眼福至極に御座候。
またいつか会える日を。
横浜の人はこの後もどうか
御無事で良い旅を。


 

日本刀見学の旅 ~差料展示とヒロシマの夜~

2024年11月19日 | open
 


私と刀剣会の東京の友人の
差料が「日本刀の美」とい
う美術館催しで展示されて
いるので見学に行く。
東京から組親子と九州から
の人と広島駅前で合流して
東広島市に車で向かう。
日本刀展示は於東広島美術館。
12/1まで。

撮る人を撮る。親子。
ネイティブ横浜人。
親子ともども英語ペラペラ。
親父なんぞは英米に長く住
んでいた。二人とも居合剣
士有段者。娘さんは初段前
から真剣古刀を愛刀として
使っている。


展示室内は撮影禁止だった。
これまで見て来た日本刀展示
会の中で最高クラスに良い展
示だった。見応えあり。
郷土広島県の刀が数多く展示
され、また、名刀も多い。
紀州徳川家伝来の大名の差料
も時代拵と共に展示されてい
た。私の刀と横浜のMCブラザ
ーの刀も。
照明が非常に良いので、地鉄
や映りがバンバンに見えた。
よい催しだ。
主催は日刀保広島と東広島市。
本当にかなり良い日本刀展示
だった。

広島市内のホテルにチェック
イン。








食事しに4人で街中に出かけ
る。


低く大きな雲龍。


友人の娘さんは広島県は
生まれて初めてとの事だ。


親子とも居合剣士。直伝
英信流。
娘さんは大会で上位入賞
成績も残している。


まだ高校生位にしか見えな
いお嬢さん(笑
勇名大学出てから立派に働
いて
いる社会人だ。姉も居
合剣
士。二人とも美人姉妹
剣士。

剣筋は私の先輩(故人)仕込み
で、大会でも常に上位入賞。

私の娘と同世代の友人の娘
さん。立ち居振る舞いも容
姿も人柄も、何から何まで
ホントに育ちの良いお嬢様
というのはいるんだなぁ~、
てな感じ。
威勢のいい東京下町
のねー
ちゃんみたいなうち
の娘と
は大違いだ(笑


よい雰囲気のリバーサイド
パークを抜けていく。


広島県も広島市内も初めて
という娘さんが嬉しそうだ。




本当に良い雰囲気の場所。
翌日朝に散歩すると決めた。

昭和残像。キャバレーロン
ドンの看板が残っている。
看板のみ。有名な全国チェ
ーンのキャバレーだった。


もろ昭和の建物が残る広島
繁華街。


お好み村は超絶満員で全階
全店入れなかった。混雑で
歩けない程に外国人観光客
だらけ。


適当に探しましょうと歩み
を進める。目当ての個別店
舗のお好み焼き屋は臨時休
業だった。


おでん屋さんみっけ。


どうにかかろうじて4人席
を確保できた。
他の店はどこも予約で満杯。
ほぼ全員が観光客だ。
かくいう我々4人も観光客な
のだが。


お通しで判る店の味。


この店、どの料理も最高に
美味しかった。ラッキー。


日本酒地酒を冷で飲む。
この容器ほしいわ~。


夜の町に親子で繰り出す、
の図。子どもが成人後には
こういうのができるのが良
い。


どこも外国人だらけ(笑
この3軒目のバーもそうだっ
た。メキシコ、スコットラン
ド、デンマーク。横浜3人、
北九1名(笑
全員ここではフォーリナー。
客同士会話が弾む。
全員生まれ育った場所が違う
ので、共通語は英語として、
全員で互いに会話を楽しんだ。


スコットランド人が隣の席に
来て座り、いろいろ話をした。
「日本の文化について多く教
えてくれてありがとう」と言
いながらタイ式の礼をしたの
で私は言った。
「日本に来る外国人観光客の
多くが誤った礼をする。それ
はタイランドのやり方だ。
日本ではこうやる」と教えた。
「日本の礼法は侍時代の文化
フォーマットを今でも継承し
ている」とも。
何でそれを知ってるのかと問
うので、俺も目の前のこの友
も先祖はサムライだ、と言う
とちょっと驚いていた。
「ニンジャ」というのはごく
最近小説家によって作られた
造語なんだよというのも教え
たらちょいたまげてた。と
いうか拍子抜けで「はぁ・・・」
みたいな感じだった。
席に戻ったスコットランド人
が、俺らにジンをストレート
でごちそうしてくれた。薬草
酒(笑
スコッチでないというのがま
た洒落てていいね。ロンドン
風にジンときた。
スコッチの話もして「俺、最
近アイラ島の酒にハマってる
んだ」とか言ったら喜んでた。
スコットランド人でも結構訛
りがある人だった。
ハマの剣友が話すのは米国の
高校大学出てるのに英国在勤
が長いからかクイーンズだっ
た。おいらはブロークンハマ
メリケン語だけどさ。戦後愚
連隊の頃の進駐軍仕込みの(嘘
ワッキャナイドゥ?と言うと
スコッティ―には通じない。
丁寧に単語のイントネーショ
ンを立たせてキャンをカンと
発音して通じる(笑
米兵曰く「おい、おめえら、
英国人と話す時に
はケツに
プリーズをつけろよ」
てな感
じで。

最初に互いに自己紹介で名前
を言った時、俺の名前を発音
しづらかったみたいなので、
「ジョシーでいいよ」と言っ
たら言い易かったようだ。
ヤンダースが英国ではジャン
ダースになるようなもんだ。
スペイン語圏の連中がヤマダ

電気をジャマダ電気と言うの
とはちょっと違うと思うけど。

メキシカンな彼女がかわいー
のなんのって。話してると
人柄もよかった。


デンマーク人のイケメン若
者と友娘は親しく話し込ん
でた。超イケメン君だった。


こんなに日本が好き、と手を
見せてくれたメキシコの女の
子。


「日本大好き過ぎて」と、日
本のアニメのタトゥーを入れ
ていた。許可貰って撮影アッ
プ。最近はアニメファンで日
本に来る外国人がかなり多い。


「じゃあ、またいつかどこ
で。良い旅を」と他の客
に告
げて店を出た。
sometime,somewhere 

出会ったみんなが息災である
ように。

しこたま飲んで、ホテルに歩
いて我ら日本人4名は帰った。