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読まれている。
8t限定中型免許(旧普通免許)
で運転すると捕まるハイエース
#8t限定 #中型免許
12時間前にアップされた動画。
免許制度なんて知らないうち
に勝手に変わるからなぁ。
注意が必要。
レーサー2台積んでかみさんが
運転していた超ロングハイエ
ースなどは、今同じ免許で運
転できるのかどうか(笑
先日ミニバイク載せて運転し
た今持ってるトランポはタウ
ンエースなので小さくて運転
しやすかったよ。アルファー
ドよりちっちゃいの(笑
車体にリングフック装着して
下からロープやタイベルトで
引っ張れるように改造してる。
シフトはマニュアル車。
今の時代、マニュアルのほう
が車両価格高いでやんの(笑
え~と、ラダーなんてのは
使いません。大昔から板よ、
板。足場板(笑
このオートバイはトラッカー
なのか、オフロードなのか、
モタードなのか、デュアル
パーパスなのか、ストリート
なのか、スクランブラーな
のか、エンデューロなのか。
答えはトライアル車である。
まだ日本にはトライアルと
いう言葉が存在せず、トラ
イアルスという名称だった
時代の1973年に誕生した。
俗称で乗り手たちが「トラ
イアル」と呼んでいた競技
がやがて正式名称になった。
トライアル競技の世界戦は
1960年代末期に英国のエン
デューロ競技から分離して、
1975年から選手権が開始さ
れた。
それよりも先立ち、日本で
は「トライアルス」と名付
けた全日本選手権が1973年
に開催された。全日本とい
う全国選手権方式は欧州選
手権よりも組織化が早かっ
た。
ただ、1973年頃は、現在の
ような超絶高度な走行操作
技術を競うものではなく、
ヨーロッパのエンデューロ
と分岐したばかりの走行方式
だった。荒れ地を足を着地せ
ずにいかにクリアするか程度
の。
今のように、垂直の岩を登っ
たり、前輪のみでターンした
り、完全静止からポンポンと
小刻みなジャンプで向きを変
えたりするようなテクニック
は存在していなかった。
そして、車両だ。
競技用ではあるが、まだオフ
ロードのモトクロスとエンデ
ューロや走破ラリーやダート
トラック等の専用車両に分岐
する前の車がバイアルスだ。
手探り状態の形が定まる前の
二輪分岐の黎明期の車両。
それがこのホンダバイアルス
TL125の全体の造形と構造に
なっている。
だから、一見するとロードな
のかクロスカントリーなのか
分からない姿を見せているの
だ。
オフ車だと分かるのはタイヤ
と車体下部の車高とマフラー
位置が高い事だけだ。
全体的なシルエットはロード
スポーツのような、ダート
トラッカーのような造形に
なっている。
だが、そこがとても面白い。
それこそが面白い。
単純に造形も工業デザインと
して秀逸だが、二輪の歴史の
流れの転換期を実車で感じさ
せるのが実に良い。
「ああ、どういう方向に車
を作ろうか製作者たちが燃
え燃えの頃のカタチがこれ
なんだなぁ」と。
この車両よりあとに出て来た
トライアル車は、完全に競技
の特製に純化させて進化し、
まるでバッタみたいな形にな
っていく。タンクは極限まで
小さくしてフレームと一体化
させ、フレームも「くの字」
に折れ曲がった物になる。
この初期の二輪分岐黎明期の
バイアルスのような後年の全
てのバイクの要素が入ったよ
うな造形にはなっていない。
現行のトライアル競技車。
スコルパSCファクトリー
(2017年式)
全世界のオートバイの専用
タイプへの分岐。
それは1973年以降に開始さ
れた。
だが、分岐しての進化の速
度はすさまじく、あっとい
う間にほんの数年で現代の
オートバイと繋がるカテゴ
リー構造が1970年代中期以
降にはすべて登場した。
その後新たに登場したのは
1980年代のレーサーレプリ
カというカテゴリーと、今
世紀に入って新しく登場し
たモタードというカテゴリー
程度だろうか。
オートバイの目的純化の分
岐と進化は、ほぼ1970年代
中期~後半には既に確定し
ていたのだった。
あ、あとまだ別なのあった。
ホンダやスズキが登場させ
た冗談バイクのカテゴリー
が(笑
アメリカはダートトラック
レースが今でも大人気だ。
陸上競技場のようなオーバ
ルコースを左回りに周回す
る。
そのトラックレースが日本
でも戦前から開催され、戦
後には日本独自のオートレ
ースとして定着した。
ダートトラックはフラット
トラックとバンク付きコー
ナーのトラックとがある。
日本のオートレースは専用
レース場が無い頃は競馬場
でも開催されていた。
アメリカンレースの真骨頂
ともいえるトラックレース
だが、始まりはボードトラ
ックという板張りの専用円
周コースでレースが行われ
ていた。
1900年代初頭の頃だ。
そこを時速160キロで駆け
抜けて行く。TON-UPだ。
まだヘルメットも防護服も
存在しない。
せいぜい出始めた航空機パ
イロット用の帽子を被る程
度。
GRIT (Full Length) -
The History of Motorcycle
Board Track Racing
あまりに死人が出るので、
1920代に入りボードトラッ
クは廃止になった。
そしてダートトラックに置き
換わったという歴史がある。
ダートトラックはその後バン
クのついたコースが復活し、
やがてはアスファルト舗装路
のコースも登場した。
アスファルトオーバルコース
でのスピード競争はアメリカ
人は大好きだ。
日本人でオーバルコースの
レースを好きなのは公営ギャ
ンブルファンが多いが、米国
では一般スポーツ競技として
も定着している。
そもそも、それでもアメリカ
はバクチが合法化されている
州も多いので、レースにも
賭け事が入って来るし、スポ
ンサーもつくので、スターティ
ングマネーも高額だ。
エントリーできて、予選通過
して、スターティンググリッド
につくだけでファイトマネー
のような大金が入る。
なのでレースで食っていける
が、それでもアメリカでさえ
もバイクのレースの選手は
プロスポーツとして社会的
地位も低く、プロモーターが
大きな興行収入を選手に還元
するプロスポーツとしては
成立していなかった。
アメフトやバスケやメジャー
リーグのベースボール選手
などは日本円にして何億円を
稼ごうとも、その当時で日本
円にするとトップアメリカン
選手でもレーシングライダー
はせいぜい1千万いくかいか
ないかの収入だった。雲泥の差。
それをどうにかプロスポーツ
として成功させようとレース
界に働きかけて変革させたの
が英国のバリー・シーンと米
国のケニー・ロバーツだった。
彼らは世界チャンピオンを連
続で取る世界トップの人材だ
ったが、単に選手だけでは
終わらなかった。
モーターサイクルレーシング
スポーツの世界にプロスポー
ツとして成立する仕組みと
働きかけと活動をしたのだ。
そしてバリーは英国から功労
として貴族の末端であるサー
の称号を女王陛下から下賜
された。一代限りの称号と
して。
一方ケニー・ロバーツは奮闘
するも、当時の世界選手権開
催者と対立を深めた。
全く選手の競技の安全性や報
酬について、主催者は関心が
なかったからだ。
どこかの国のプロ野球連盟の
重鎮が「たかが選手が無礼な
口をきくな」という態度と
全く一緒だ。
日本では古田氏が史上初の
プロ野球選手のストライキ
を敢行して、決死の行動に
よってプロ野球選手の待遇
改善が実現した。
だが、会頭などは最後まで
選手は使い捨ての駒程度に
しか考えていなかった。
スポーツ振興が国家的な国民
の健康発展に寄与するという
視点などは一切ない、封建的
な絶対君主思想の持主たちに
日本のプロスポーツは完全支
配されていたのだった。
それは実はアメリカでもモー
タースポーツレースの世界
では全く同様な構造があった。
「たかが二輪乗りの選手が」
という目線で資本家たちは
見下していたし、現実的に
危険なスポーツをするレーシ
ングライダーたちを見下して
扱っていた。四輪のF1などの
世界とは違ったのだ。
そうした感覚は私が子どもの
頃には国内も海外もその空気
が伝わって来た。
「貧乏でお金がない人が四輪
には乗れないから二輪に乗っ
て我慢している」という空気
が米国だけでなく日本でも蔓
延していたのは事実だ。
なので、二輪競技の出身者の
多くが「やがては四輪競技の
世界に」というのを目指した。
二輪などは刺身のツマ程度で
四輪こそがメインディッシュ
であり花形だった、という構
造は確実に存在したのだ。
そうした世界的な実際の構造
と人々の意識を変革させたの
は、1970年代~1980年代初期
のバリー・シーンとケニー・
ロバーツだった。
彼らの功績は多大なるものが
ある。単なる一選手ではない。
選手生命をかけて業界の改革
に身を投じたのだ。
彼らの偉大さは、ただ単に
「世界一速い男」だった事
だけではない。
世界そのものを変えたのであ
る。
なんのため?
それは、人々のため。
自分だけ一人儲けるような仕
組みを提案して年棒アップを
要求したのではない。全体の
全員の社会的地位の向上と安
全配慮の普及の活動をした。
日本のプロ野球では古田さん
のみがそれをやって仕組みと
構造を変革したが、レースの
世界ではバリーとケニーがそ
れをやった。
ケニーが世界選手権主催者と
完全対峙になった時、ケニー
は世界グランプリとは別枠の
ワールドグランプリシリーズ
の組織化まで構想し、それを
対置させた。
情勢は動き、選手の多くがそ
のケニーの動きに同調しよう
とした。
焦ったWGP主催者はケニーに
和解を求め、組織的な運営方
針まで見直す事を約束して事
態は収拾したのだった。
ケニーや古田さんのような行
動は成功した例としてレアだ。
日本のビリヤード界でそれを
やろうとしたグループは潰さ
れた。
日本刀界でそれをやろうとし
た人たちも排除された。
大相撲界でも、不正を排し、
新枠組構想をしようとした
貴乃花は排除され角界からの
引退を余儀なくされた。
プロレスの世界は、分離独立
新団体設立で繚乱状態で、全
体のまとまりはない。
とりあえず、現在の二輪レー
スの基礎はケニーとバリーが
作った。
なお、現行の日本国内の二輪
の高速道路料金枠を作ったの
は私と仲間たちによる。
立ち上がらなければ、きっと
今でも二輪車は29人乗りの
マイクロバスと同じ高速料金
のままだった。
これは1980年代に日本の道路
事情の仕組みを根本から変え
た歴史的成果といえるだろう。
非合法活動ではなく真正面から
合法的にやって、多くのライ
ダーの力で今の仕組みを勝ち
取った。ほんとは全線無料化
が最終目標だったが、第一
段階を勝利的に終える事が
1980年代末期に実現し、現在
の高速道路料金体系に生きて
いる。
私らが何もせずに指を咥えて
ただ陰で文句や愚痴を言って
るだけでは世の中の構造は
現実的に何も変わらなかった
事だろう。
既存の「構造体」というもの
は甘くない。
決死の覚悟で動かないと現実
をつかみ取る事はできない。
私は二輪乗りだ。
二輪は前にしか進まない。
身体で風を切り開いて前進す
るのがモーターサイクルだ。
私はそれに乗る人間だ。
乗る者はみんなも進め。前へ。
さらに、一歩前へ。
カワサキ 250TR F8(1970~1971)
23.5PS/6800rpm 246cc ロータ
リーバルブ Fホイール19インチ
ヤマハやスズキの同クラスを
凌ぐクラス最速マシンがカワ
サキの250TR=通称バイソン
だった。1970年登場。
これは速かった。友人の兄が
乗っていて、中学の時に後ろ
に乗せてもらいバイパスを
爆走した事がある。250なの
に出だし加速のガッと来る感
じは、同じ人の後ろに乗った
マッハⅢよりも強かった記憶
がある。最初のガツンは。
中速域からはマッハはマッハ
加速だった。同級生の年の離
れた兄のその大学生の人は大
小2ストバイクを4台持ってい
た。
バイソン名は商標の問題があ
りすぐに取りやめにしたが、
バイク乗りの間ではずっと70
年製F8~FAの250TRは「バイ
ソン」と今でも呼ばれ続けて
いる。
劇画『ワイルド7』でオヤブン
が最初の頃に乗っていたバイ
クだ。最初は任務の時は白バ
イ隊員の格好で乗っていたが、
ほどなくしてからは任侠スタ
イルのまま乗るようになった(笑
1972年に250TRはモデルチェ
ンジで、フロントホイールを
21インチに変更して走破性を
高め、エンジンもピストン
リードバルブに変更してバイ
ソンで6800rpmピークだった
出力特性を6000rpmピークに
落として中速域のトルクを太
らせて、やや低い回転域での
レスポンスを向上させた。
馬力は23.5PSでやはりクラス
最速マシンだった。
不思議なもので、2ストは各社
で音質が異なり、カワサキは
野太い2スト音を響かせる特徴
があった。
これは後年のパラツイン2スト
の88年式KR-1でも同様で、同
じパラツインのヤマハ2スト
のような吹き抜ける笛のよう
な音と違い、カワサキは太い
複数の音が重なるような音を
出す。パラレルなのにまるで
Vツイン2ストのような。
なので、カワサキのパラツイ
ン2ストはヤマハよりもNSR
などの音に近い。
250TR(1975)最終モデルF11
カワサキは他社を寄せ付けな
いクラス最速(=世界最速)の
二輪を時々作る。
国産3社が世界で台頭し、カ
ワサキの最速を超える二輪を
出すと、カワサキは必ず巻き
返して世界最速モデルを出す
のが常だった。
カワサキは常に「世界一速い
カワサキ」を目指していた。
一般市販車だけでなく特にレ
ースの世界で。
これは1970年代からずっと。
カワサキのオフ車の250TRは
1970年から1975年まで販売
されたが、カワサキの競技
モトクロッサーの開発ベース
となり、その後カワサキはモ
トクロスの世界でも常にトッ
プ粋を争うマシンを作った。
一方市販車では、後年のKDX
などの2ストオフ車の名品の
ベースとなったのも1970年の
2スト250TRだった。
その名跡のみを注いだモデル
をカワサキは大人しい非力な
4ストエンジンを搭載して
2002年に新型モデルを登場
させた。
名称は32年前の1970年と同じ
く250TR。型式はBJ250F。
この4ストTRは250TRの名前を
与えてもいいの?というよう
な大人しい走りの車だった。
製造は2002年~2013年まで。
2018年あたりまで販売市場で
は新車が手に入った。
かつての荒々しい走りのバイ
ソンやF11-250TRと異なり、
用途をシティに振ったシティ
トラッカーのような「オフ車
ぽい街バイク」として位置づ
けられ、これはこれでその
コンセプトは成功し、一定の
ファン層を獲得した。
4ストTRのエンジンはロード
モデルのエストレヤと同じだ
が、高速度走行を続けるとピ
ストンヘッド周辺が溶解した
りする程に高速度向きのエン
ジンではない。
最高速を出すモデルではなく、
中低速域でトコトコとずっと
走るのを楽しむような二輪に
仕上げられていた。
ただ、タイヤをロードのスポ
ーティーなタイプに履き替え、
足回りとハンドル等をいじく
り倒してオンロード車風味に
仕上げたら、非力ながらなか
なか鋭い走りをするモデルで
はあった。乗り手にもよるが。
実際に並走させると、同じ
250排気量クラスの同じカワ
サキでも、2ストレーシング
クォーターの88年式KR-1な
どには、到底コーナーの突
っ込みや旋回速度そのもの
や脱出加速は敵わないが、
4ストライトウエイト独特の
一定バンド内高回転を保つ
走法を採れば、そこそこに
は走る。
走行ラインも2スト250スポー
ツモデルとは異なる。2スト
は鋭く奥まで突っ込んで一気
に向きを変えて直線的にギュ
ーンと立ち上がる感じで、4
ストTRは極力なだらかなRの
ラインを通過する感じで走ら
せるのがベストだ。
" RIDING "
まあ、そうしたレーシーな走
りではなく、ツーリングバイ
クや街乗りシティバイクのよ
うに乗るのが21世紀の新型の
4ストロークエンジン搭載の
250TRには合っているのかも
知れない。
1970年代前半の世界一のクラ
スカテゴリー最速の2スト爆速
カワサキとは異なる性質を見
せるオートバイになっている。
この「ゆっくりTR」は1台欲
しくなる。2ストのパンチと
吹け上がりを知っていると、
こうした4スト単気筒はモッ
サリした鈍重なオートバイに
感じやすいが、それはそれで
ビルや石畳のある街路を行く
シティモービルとして楽しい。
快速爆速だけがオートバイで
はない。ツーッと低中速巡行
で行くのもいいもんだ。
1970年代初期の爆速カワサキ
TR、21世紀のゆっくり復活TR。
どちらもそれぞれ味がある。
ストレートのエスプレッソか
ミルクコーヒーかの違いのよ
うに。
江戸期に海(干潮時に潟)
だった宮之浦という場所
は現在は三原市内西部の
大住宅街になっている。
私が大学の頃までは田んぼ
と畑しかないような土地だ
った。
その田園の中を山陽本線が
一直線に通っていた。
鉄道は今は大幅に位置を移
動して高架線になっている。
江戸期の元禄13年(1700)
というと、劇画の「子連れ
狼」では柳生と拝一刀が激
烈に争っていた時代だ。
拝一刀も柳生烈堂も元禄15
年(1702)に死亡。
その頃、三原城下町の外の
宮之浦新開は開田されたと
いう。宮は城下の西の宮
八幡宮の事だろう。
海水が押し寄せるエリアな
ので、たぶん糸崎と同じく
塩田だったのではなかろう
か。明治初期の写真を見る
と三原城周辺はぐるりと塩
田だらけだ。
宮之浦とは読んで字のごとく、
神社の前は一面の海だった。
本格的に埋め立て含め土地
改良工事が実行されたのは
昭和の戦後からだろう。
石碑の北側に水門がある。
灌漑用水の水門だったのだ
ろう。
左手遠方は三原市役所。
ここら一帯は江戸時代は海
の中。左手に見える川は人
口河川だ。本来の河口はず
っと内陸部のため、満潮時
には海水が川を逆流して数
キロ上流まで上る。
用水路を集めて河口付近に
流す水門。
どこから来た水なのかは、
現在は市内西部は全て暗渠
になっているので不明。
2024年現在から74年前の土
地整備事業なので、今では
付近に住む人も事情をよく
知らない模様。
石碑にも刻まれた発生した
「水利」とは、農業用水の
水利の事だろう。
ここは宮沖という場所だが、
明治以降は明治期の写真を
見ると、あたり一面塩田だ
った。海水を分ける土手も
現在も残っている。
知らない人は「なぜ住宅街
の街中に土手が?」と思う
ようだ。私も最初そう思った。
ここ、川だったのではと思っ
たが、調べたら塩田の海水仕
切りの土手だった。
江戸期の城下外れの現在の市
街地西部の開田にあたっては、
悲惨な伝承も残されて慰霊碑
のようなものもある。
あまりに開墾防水工事が難航
したため、人柱を立てて生き
埋めにしよう、という事にな
った。
そこで城の武士たちが協議し
て、駆り出した地元農民の徴
用工事夫のうち、服につぎあ
てのある者を埋めよう、とい
う事に決定した。
無茶苦茶な話だが封建時代の
事だ。そういう事があるのだ
ろう。築城の際に工事に従事
した人々を丸ごと皆殺しとか
ごく普通に実行されていたの
が封建時代だったから。
そして、三原城外の開墾整備
工事においては、甚五郎と
いう人が生き埋めに決定し、
人柱として埋められたという。
その供養のために松が植えら
れ、その松は甚五郎の松とし
て現在も何代目かが残ってい
る。初代甚五郎の松の切株も
残存している。
劇画の世界とはいえ柳生と拝
一刀の果し合いの時代。
現実社会でも人権意識などは
日本人には存在しなかった。
その人権意識の不存在は武士
だけでない。
百姓家であっても、貧しけれ
ば平気で子どもや娘を金で売
り、老人たちは姥捨て山に捨
てられた。現代語では「悪意
の遺棄」という犯罪になる類。
さらには、口減らしと称して
生まれたばかりの子を殺す事
も百姓たちはやっていた。
封建時代という殺伐とした時
代、人の命の価値などはとて
も小さなものだった。
制度により、人がそうなった。
人殺しなどは本職の武士だけ
でなく、農民や町人たち、全
ての階級も平気だった。坊主
は人殺しはやらずとも、人殺
しに対して目を背け何もせず、
むしろ権力側に密着してわけ
のわからぬ外国語の呪文を唱
えるだけだった。
これでは駄目だ、となったの
は明治期に入って国の上層部
が西欧先進国の実態を知って
からで、その一例として明治
初期に決闘二関スル罪(決闘
罪)が制定された。
この法律は現行でも生きてい
る。
現代社会は、江戸期の甚五郎
さんを生き埋めにした不条理
の集団的暴力がまかり通るよ
うな時代ではない。
そして、暴力は暴力の連鎖を
呼ぶ。それは果てしない。
全てにおいて、よろしくない。
オフロードでもオンロードで
も、2ストバイクでペィーン
ペンペンと行くのは、かなり
楽しい。
これなどは、ついほんの数年
前まで国内でも輸入新車状態
で買えた2ストだ。
スズキTS185ER。2014年型と
比較的近年の型式なのに空冷
2スト単気筒だ。183cc。
スズキの南米向け販売モデル
になる。
今も日本で新車が買えるのか
どうかはわからない。
走行距離が極端に少ない中古
車ならばまだ市場に存在する。
「一番新しく製造された2ス
ト」の部類に入る希少バイク
だろう。
というか、最近作られた空冷
2ストバイクなどは、この機
種以外には聞いたことがない
かも。
根性のスズキ、変態のスズキ、
やる事が一味違う。
南米の知り合い2名(両者別
国)から聞いた話だと、向こ
うでは一番人気はヤマハだが、
古い2スト小排気量バイクで
はカワサキが多かったらしい。
そういえば、紛争物などの映
画で南米ロケのアクションシ
ーンなどでは、街中でやたら
カワサキの小排気量2ストが
出て来る。
日本の4メーカーも、海外での
勢力図とかあるのだろうなぁ。
北米ではビッグバイクではカワ
サキは結構人気あるようだし、
ホンダは東南アジアで市場を
確保しているみたいだし。
最近米軍特殊部隊ではカワサキ
の110を上陸特殊作戦等で使用
しているみたい。
本格的な二輪偵察部隊とかでは
なく通常の作戦群ラインで。
第二次大戦中のこれや、
これと同じ使用方法かも(笑
航空機や車両に積載して行っ
て、現地で降ろしてチョイ
乗り移動の足にする、という
ような。
英軍のウェルバイクなんて、
折り畳んでカプセルに入れて
落下傘で輸送機から降下させ
て使っていた。
ホンダのモトコンポも使用方
法は同じ発想だろう。畳んで
運搬して現地で組み立てて乗
る、という。
ホンダのユニークバイクの
モトコンポ。
それはホンダのレジャーカー
であるシティに折り畳んで載
せて運搬し、キャンプ場や旅
先で車から降ろしてそこらで
乗る、というコンセプトで作
られた面白いバイクだった。
ホンダはそのような面白クル
マを時々作る。
スズキもやる。ギャグなんて
チョロQバイクが出た時には
バイク乗りたちには大笑いし
て大ウケしてた。機種名さえ
「ギャグ」だよ(笑
そのリアルギャグパロぶりに、
ギャグパロ番組の『仮面ノリ
ダー』では、改造人間仮面ノ
リダー変身後のバイクには
スズキのギャグがサイクロン
号として使われていた。
ヤマハは真面目君であまりそ
ういうのはやらない。近い
風味でバイクを作っても、ど
こかオサレ感を出そうとして
いた。ポップギャルとか。
カワサキは硬派っぽくしてて、
冗談バイクは作ったりしてこ
なかった。唯一、モンキーを
パロったKV-75というレジャー
ミニバイクを1971年から1980
年まで出したりしたが。
カワサキKV-75
ホンダとスズキは遊び心満載
のユニーク車を時々ポンポン
と出していた。
スズキのチョイノリという原
付は「ダジャレでバイク作っ
てるでしょ?」みたいな感じ
だったし、ホンダも面白原付
を多く出したりしていた。
最近はどのメーカーもそうい
う製作の心の遊びのようなの
はあまり見られないですね。
なんかギチギチアップアップ
している。
やはり日本メーカーは失速し
てるなぁとどことなく感じる。
スズキチョイノリ。
製品名からして遊んでいる。
スケボーがひっくり返った
ようなデザインも遊んでる。
ホンダシティとモトコンポ。
シティもこのデザインなんて
最高だよ。ドクタースランプ
に出てきそうな形してるし。
TVCMもポップでくだけた物
だった。
【世田谷ベース】
ホンダのバイクをカワサキ
「バイソン」にしちゃう計画
10万円の本物
人喰いバイク(笑
カワサキバイソンのニセモノ。
最後に10万円の本物という歌
までおまけに付けてる。
楽しんでるなぁ。
私が高校生の時代、まだ東京
都内には「3ない運動」は存
在しなかった。
国民の権利として満16才以上
は二輪運転免許が取得できる
のに、それをさせない、乗ら
せない、買わせない、という
超暴虐強制偏向教育が「3ない
運動」だった。
地方から開始され、じわじわ
と東京都心部に襲来した。
都内でいったら私の世代がそ
の端境期だ。
広島県などは早くから3ない
運動を開始していたそうだ。
私より2学年上の人などは3
ない運動徹底により広島県
内の高校時代にはバイクの
免許が取れなかったという。
なので、地方の人たちは大不
良か性根ある抵抗者以外は、
全員バイクは大学か社会人
デビューというのが1970年代
後半~1980年代の実相だった
ようだ。
私の5学年上の人は広島県内
の高校卒業でも3ない運動が
まだ無かったので、普通に免
許取って高校生がバイクに乗っ
ていたとの実話を聞く。
居合の5学年先輩も「みんな
普通に高校生はバイク乗って
たよ」と言う。
都内の場合は1970年代末期ま
では、それと同じく適正適法
遵法精神遵守でオールフリー
だった。
だが、やがて都内も1980年代
に入り、地方から来襲した3
ない運動というバイクファシ
ズムに呑み込まれたのだが。
3ない運動については、最高裁
まで心ある人たちの提訴により
争われた。
そして、「3ない運動は違憲で
ある」という最高裁判決が確
定した。つい数年前の事だ。
これにより旧文部省である文
科省は全国の高校に通達を出
した。
曰く、「免許取得を許可し、
早期交通教育が必要」と。
掌返しとはこの事だが、そも
そもが憲法でも道交法でも規
定されている法の中の権利を
侵害する事を教育者とされる
連中が犯していたのだ。国民
を愚弄するふざけた話だ。
小学校から交通安全教育は必
要であるし、法律で運転免許
取得が認められた年齢では免
許を取得する事は国民の権利
として法で定められているの
に違法行為を教師や教育関係
者が断行していた。
これは法治国家としては如何
とも是認しがたい事態だった。
そうした脱法違法行為をファ
シズムのように推進していた
のが「教育者」たちだった。
ろくなものではない。
法を犯す事を自らしながら、
何を生徒たちに「指導」しよ
うというのか。
さて、そうした世界的に稀有
な、先進国では考えられない
人権侵害である3ない運動の
存在とは別に、どうしても法
的に抗えない事案がバイクの
免許取得には存在した。
それは満年齢16才以降でない
と運転免許を取得できない事
だ。
これは4月2日生まれの子と翌
年3月31日生まれの子は同じ
学年だが、実年齢としてはほ
ぼ1年違う。
4月生まれの子が16才になって
すぐに運転免許を取得しても、
早生まれの翌年3月生まれの子
は約1年間待たなければ免許が
取得できない。物理的に。
これは実は実際に高校時代に
そうした例が多くあって、か
なり早生まれの高校1年の生
徒たちは地団太を踏んでいた。
他の連中がもうすぐ高校2年
になる時までバイクの免許を
取る事ができないからだ。
同学年の同級生たちはバンバ
ンとバイクに乗っているのに
だ。
「え?おまえまだ免許取らな
いの?」
「おれ3月生まれなんだよ」
「おれは2月生まれだ」
という話になるケースはかな
り多くあった。高校で1クラス
50人いたら10数人程はバイク
に乗っていた時代だから。
5人に1人以上がバイク乗り。
私の1学年上のイトコは4月生
まれだったので、16で即免許
を取ってバイクに乗っていた。
1975年の事。
この年から自動二輪免許を限
定付きと限定無しに分ける
制度が秋から開始されたが、
ギリセーフで排気量無制限の
「通常の」自動二輪免許がご
く普通に教習所で取得できた。
そのイトコに幼馴染の友人が
いて、その人は10月以降生ま
れなので新免許制度該当者と
なり、イトコと同じ学年なの
に自動二輪限定付き免許しか
取れなかった。
その人は今はBMWの大型車
に乗っているが「あの時は
なんてアンラッキーと参った
よ」などと回顧談を話す。
生まれた年や月は本人のせい
ではないのに、縛られるもの
が存在する。
学年などもそうだ。
同じ学年でも幼少期にほぼ1年
違ったらかなり身体や脳の発
達具合も異なるかと思う。
法的にはいろいろ勤続年数等
々での自動的結果的優遇環境
には置かれるが、早生まれは
なにかと同学年同期の人たち
の中では頑張らないとならな
い部分も多いのではなかろう
か。
その結果なのか、実際に早生
まれの人たちはいろんな分野
で優秀な人たちも多いように
見受けられる。
これは同学年ではほぼ1齢年下
なのに幼少の頃から「同枠」
としてもまれるからではと思
ったりもする。
しっかり者さんが多いように
見受けられるからだ。
ただ、免許に関しては仕方な
い。
「免許まだ取んねぇの?」
「おれぁ2月生まれだっつーの」
というシーンが高1の時に結構
何人もあったのは、今思うと
成長変化や感性や好みの変化
が激しい高校時代には、早生
まれの人たちは他の者には分
らぬいろんな苦労があったの
ではなかろうか。
バイクの免許取得にしても、
ほんと、もうすぐ高校2年にな
ろうかとしている頃にようや
く16才になってバイクの免許
が取れるようになるのが早生
まれだったから。
1973年製。ホンダの車。
日本にトライアル競技を定着
させた歴史的な機種だ。
まだ黎明期にあったこの時期
独特の未確定なスタイリング
を持つ。
走行性能も良いが、何よりも
そのシルエットが魅力だ。
トライアル車というよりも、
むしろフラットダートトラッ
カーのような風貌を見せる。
手探りだった時代の造形だが、
かえってそれがイケてる。
【世田谷ベース】2スト旧車を
ダートラにカスタム
カワサキ サイドワインダー250
[ KAWASAKI SIDE WINDER ]
いいねぇ。
カワサキの旧車2スト。
広島発。世田谷まで納車。
最高!