渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

二輪車の呼び方

2023年12月19日 | open
 


モーターサイクル。
モーターバイク。
モト。
モトシクレータ。
モトラッド。
モトチークロ。
オートバイ。
自動二輪。
単車。
二輪。
バイク。
 
他にも様々な呼び方がある。
バイク(日本語の造語)という
言葉が使われ始めたのは1970
年代初期からだった。
バイクとは英語では自転車の
事を指す。
米語のモーターバイクは日本語
に直訳すると原動機付自転車
が、日本ではそれは小排気
発動機付二輪車の事を指す。
単車というのは、古い日本語で、
軍用二輪の側車付きに対して、
二輪車のみを指して単車と呼ん
だ。
オートバイというのは完全な
日本語で造語だ。オート+バシ
クルをベースに創作された日本
語。
自動二輪は自動車に対しての
区別として作られた日本語だ。
正確には自動二輪車という。
自動二輪は、これは免許証など
にも記載される法律用語として
も使用されている。
警察等が一般的に使う呼称は
ートバイが多い。自動二
輪とは
免許区分以外ではあまり
呼ばな
い。
 
バイクという単語は、私が中学
に入る1973年あたりから使われ
始めた。嚆矢は漫画家の望月三
起也だった。
「ワイルド7」という歴史的人気
劇画(1969-1979)の中で、最初
はオートバイと呼んでいたのを
途中からバイクと呼び始めた。
「緑の墓」編からだ。
そして、1970年代前期には、
それまでのオートバイという
呼称よりもアメリカ風味のテイ
ストを感じさせるバイクという
言葉が、特に若者たちのサブカ
ルと結合して流行した。とりわ
け暴走族の大発生と共に不良
少年たちは好んでバイクと呼ん
だ。
不良たち以外の人たちや体制派
りの大人たちは必ずオート
バイ
と呼んだ。
あと、古いレーシングライダー
1980代末期までもオート
バイと
二輪の事を呼んでいた。
レーシングライダーで二輪の事を
バイクと呼ぶのは最近の新世代か
らだ。
ただ言語の普及は恐ろしいもの
で、日本車が二輪世界選手権を
席巻していた頃、世界のトップ
ライダーたちも「バイク」と呼
び始めた。日本語造語なのだ
英語圏やスペイン語圏の人
たち
にもスンナリと来たのだ
ろう。
元世界チャンピオンの
国人
ケニー・ロバーツも今

に入ってからは「バイク」
と呼ぶし、現役チャンピオン
だったスペイン人のロッシも
「バイク」と呼んだ。両人と
日本車乗りの欧米人だ。
 
バイクという呼称がまだ一般的
には未定着だった80年代初期、
Bikeというバイク雑誌が誕生し、
ファッションや旅先情報等、な
かなかポップな内容で若者たち
に人気を博した。
現代に続く二輪車をめぐる多用
な楽しみ方を初めて紹介展開し
たバイク専門誌だった。
まだ、当時はまだ老人しか行か
なかった温泉とかを紹介したり
もしていた。るるぶの走りのよ
うな雑誌だった。今はその手の
二輪雑誌は腐る程ある。先鞭を
つけたのは雑誌Bikeだった。
80年代中に廃刊。
今だと大受けしそうな編集だっ
たが、世の中は走りに徹する
風潮が高まり、旅行バイクなど
はかったるいお遊戯的に捉えら
れ始めていたので、創刊初期
の爆発的伸びから一気に販売
不振に陥ったようだ。
講談社の人気雑誌ベストバイク
が廃刊になったのは圧力だが。
ベストバイクは高速道路料金
訴訟をジャーナリズムの立場
から全面的に報道支援してい
た。訴訟勝利の展開の決着が
ついて高速道路料金が現実的
に改正された直後に編集部閉
鎖、廃刊となった。
一つの「日本の姿」を表して
いた。
 
私個人は二輪の事をいろいろ
呼ぶが、一番好きな呼称は
「オートバイ」だ。
これは古く、大正時代には使
われていた外来語改造の日本
語だ。
長いものに巻かれるのが好き
なくせに、3行以上の文を長文
とする現代脳スカ世代は、長
い単語も嫌いなようで、軒
み「バイク」と呼んでい
る。
それは、1970年代の抵抗文化
としての新語使用ではなく、
出来上がった空気に流される
スタンスとして。みんなが言っ
ているから言う、みたいなもの
で。
 
私はバイクという単語も使う
が、好みの単語は「オート
イ」だ。「二輪」もよく
使う。
「単車」はあまり使わない。
単車という呼び方は、つい最近
までは西日本の人たちは全員
がオートバイの事を単車と呼
んでいた。大阪から西は全員
が単車呼び。
学生の時、まだバイクという
単語が全国版ではなかった頃
に西日本の学生たちと交流し
たら、全員が単車と呼んでい
たし、広島県内の私の親戚た
ちも皆が単車と呼んでいた。
東京ではその旧語はすでに
死語となっていたのが1980
年代前期だった。
だが、バイクという単語が全
に広まって一般化したの
は、
1980年代末期あたり
からだ。
 
私はあえて言う。
オートバイと。
オートバイ乗りである、と。
 
1981年時。まだバイクという
呼称は全国化してはいなかった。
 

嵐を呼ぶ男 〜近藤真彦&西城秀樹〜

2023年12月19日 | open



ある放送局では裕次郎の「嵐を
呼ぶ男」をカバー演奏して歌う
時に、「やくざ」という単語は
いけないという事で「やんちゃ」
に変更させた。

ナンセンスである。
言葉狩りは、自分らの保身だけ
を目的としたもので、本質的な
問題取り組みとは無縁なところ
にある。


おじや

2023年12月19日 | open



朝食は、昨夜の残りスープを
使っておじやにした。
「おーい、藤吉。おじやにする
きに」
てな具合で。
これが滅法うまいときてる。
冬は鍋ぜよ〜。


色を選べる四輪車 ~日本のクルマ社会~

2023年12月19日 | open




四輪車でもとりわけ軽自動車は
色の選択肢が豊富に用意されて
いるケースが多い。
普通自動車の場合は色数が少な
い。


軽自動車は東京大阪等の主要都
以外の地方では圧倒的に多い。
驚くほど多い。
走っている四輪車のほとんどが
軽自動車である程。
それは、地方では完全なる国民
の生活に欠かせない足として四
輪車が存在しているからだ。
車がなければ買い物も通院も
まったくできない。
都市部とは交通機関の発達が
雲泥の差だからだ。
高齢者の免許返納を推進云々は
あれは都会に住んでいる人が言
っている事だ。地方では元気な
80才代はごく普通に車を運転
して移動する。でないと移動
できないからだ。
つまり、車が無くば生活はでき
ない。


地方で軽自動車が爆発的に売れ
いるのは、維持費とコンパクト
さによる小回りが利く点だろう。
長距離は移動しない。
そして、広島県三原市のように
軽自動車には車庫証明が要らな
いという地域もある。

かつて、日本の二輪産業を支えた
のは50ccの原付バイクだった。
それにより日本の二輪は空前絶後
の1980年代オートバイブームを
迎えた。そこらじゅう誰でもバイ
クに乗っている国内状況が生まれ
た。年間250万台売れた二輪は、
今では1/10の販売台数に落ち込ん
だ。今日本の二輪産業は命が風前
の灯だ。
一方、四輪車の世界は順調で安定
した伸びを見せている。
四輪車メーカーの決算黒字は上昇
しか見せていない。
それは、四輪車が移動手段として
国民に定着しているからだ。
そして、それはかつて二輪が原付
によって支えられていたように、
四輪では軽自動車の普及が自動車
産業の底力となっている。

日本の原付50はどうして誰も乗ら
なくなったのか。
それは、かつて二輪車はエンジン
を切って押せば歩行者と法的にも
認められ、買い物や外出でも歩道
に駐車しても駐車違反対象には
ならなかった。そうした時代が
数十年続いた。
だが、現代コンプラクレーマー
の魁のようなクレーマーたちの
通報が突然降って湧いた。
まるで「オバQ」や「ちびくろ
サンボ」をつるし上げた疑似似非
良質市民ムーブメントのように。
一部の人間が火をつけたが、それ
が燎原の火のごとく広がった。
「恐れた人(企業等)」がいたか
だ。
二輪の駐車違反はある時突然警察
権力により一方的に断行された。
そして取り締まりが突然始まった
昨日まで歩けていた道を歩くと
逮捕する、みたいなものだ。
そして、日本の二輪車産業は死滅
へと向かった。現在は延命措置を
対処療法的に施しているが、日本
から二輪車が消滅する日は時間の
問題だ。
今日本国内で二輪に乗っている人
たちは、個人的な趣味で乗ってい
る「浮動層」ばかりだ。配達等の
職務乗車を除けば。
何かあったら即二輪に乗るのを
やめる。そうした存在。そうした
不安定な存在にかろうじて支え

られているのが日本の産業の中
における二輪製造部門だ。

だが、それら日本国内の二輪乗車
層は、奇しくも構造的には、意図
的な権力の二輪規制の歴史の中で、
抵抗戦線の一員を構成する構造の
中にいる。本人が意識せずとも。
ただ、浮動票と同じく浮動層は
いつでもその立場を任意に放棄
できるので、構造変革の起爆剤
にも確実な定着力にもならない。
日本の二輪史の中で唯一の例外
は、1980年代初期~末期に私
たちが起こした社会ムーブメント
よって、ライダー自身の手によ
って行政変革を実現した高速道路
料金訴訟運動だけだ。
あれにより二輪車の高速道路料金
枠が初めて設置された。
それは30数年を経た21世紀のこん
にちの料金枠としても
現存で生き
ている。

あれがなければ、上からの搾り上
げはやりたい放題だった。
それまでは29人乗りのマイクロ
バスと同じ料金を二輪車は徴収
されていたのだ。
現実的に二輪枠の高速道路料金を
設置させた歴史的な訴訟は、法学
の世界では「行政訴訟の奇跡」と
いわれている。

四輪車は現在進行している二輪車
のように消滅の危機はない。
それは前述したように、国民の足
として軽自動車が完全生活必須
アイテムとして堅固に存在して
いるからだ。
二輪車の原付は四輪車の軽自動車
の二輪車版として想定されて普及
が成功したが、作為的勢力により
潰された。
そしてそれは二輪車社会全体を潰
す方向にベクトルが作用し、現在
絶命寸前の日本の二輪産業の状
を発生させるに至った。

今の状況は、誰か特定の者たちが
仕掛けて作り上げたものだが、
我々国民のうち二輪車に乗る人間
たちにも責任がある。
80年代の歴史的大改革を成し遂げ
たような巨大国民運動もなにも
せず、ただ指を咥えてお上の言い
なりになって尻尾を振っているだけ
が二輪乗車国民の全体像となって
しまっているからだ。
そして、それらはコンプラ警察
気取りの良市民ぶる似非国民の
層をも形成している。
今の二輪乗りたちは自分で自分の
首を絞めているのだ。

かつて家庭の主婦や学生たちまで

の多くの人が原付に乗ってタウン
ビークルとして二輪を使用して移
動した。どの家庭にも原付バイク
があったような光景が国内に広が
っていた。今の軽自動車の普及定
着のように。
任意保険制度もそうした社会情勢
を鑑み、ファミリー特約等が新設
された。
それが本来のモーターリゼーション
として正しく健全な交通社会の姿
だ。

そうした光景が広がる完備された
国は栄える。事実日本がそうだっ
た。

だが、そうした明るい未来を予見
させた日本の時代は終了した。
今日本は、最期の断末魔に実は
喘いでいる。
もしかすると、100年後には日本
という国さえも存在しないかも
しれない。
これ、絵空事や冗談ではなく。



年末年始のモスバーガーの攻め手

2023年12月19日 | open
 

 
年末年始にかけてモスバーガー
の突き抜け戦略が来た。
黒毛和牛のハンバーガー。
これはうまそうだ。
 
年始からは別バージョンで追撃。
こちらもうまそうだ。



 

私が演奏できない楽器

2023年12月18日 | open
 

それはドラム。
中学の時、家にドラムある奴
のとこ行って教えてもらった
けど、全くセンスが無かった(笑
 
俺は嵐を呼ばないが、荒らしは
呼ぶようだ(笑
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2023年12月18日 | open



くっそ寒い。
てことで、今夜はベーナーだ。
「藤吉!シャモこうてきや」
てな感じのやつ。
いや、シャモは入ってないの
ですが。

この二人用鍋は便利だよ。






ホットドッグ

2023年12月18日 | open
 

ほんとのところ、この食べ物
考えた人天才。

カフェ

2023年12月18日 | open
 



昼メシ食うべ、と思ってカフェ
行ったら休みだった(笑
チョ。
夜、も一度通ってみたらやって
た。なんのこっちゃ(笑
 
石神井生まれのマスタがいる。
東京もん同士、気が合う。
最初は東京生まれ育ちとは知
らなかった。
だけど、妙に感覚がしっくり
くるなぁと不思議に思ってた
ら、話し込むと東京生まれ育
ちだった(笑
同郷人てのは、なんとなく、
知らない仲でも通じるもんが
あるよね。
客商売なので「標準語」で話
していたマスタだが、なんか
それが地方によくある取って
つけたような言葉使いではな
い。堂に入ってるというか、
標準語というより東京弁に聞
こえる(江戸弁とは異なる)。
なんだべか?と思ってたら、
東京生まれ東京育ちだった(笑
あー、やっぱしね、と思った。
 
 
この店のドッグは好きだ。
というか、かなりイケてる。
旧山手通りの店で食ってるみ
たいだ。
どうでもいい事だが、俺が
生まれた都内の場所は新山手
通りと旧山手通りに挟まれた
とこだ。桜の名所。いわゆる
都内でいうところの山の手。
そして、広島県内で住んでる
とこは江戸から明治には山之
手町と呼ばれていた。
お城の真ん前、というか城内。
これまた妙な偶然。山から山
ヘだ(笑
江戸期に住んでたとこは明治
以降は御作事町(おさくじち
ょう)と呼ばれたとこで、海
の上(笑
出島みたいな人工島に江戸時
代は住んでいた。
海の上だぜ海の(笑)。お台場
たいな。変なとこだよ。



井戸水とかぜってーしょっぱ
かったにちげえねえ。

まあ、もっとも、三原という
町自体が海の真上に無理やり
戦国末期から江戸初期に作ら
れた町だから仕方ないけどさ。
だから三原の城は「浮き城」
と呼ばれた。別名玉壺城。
右下の白い広っぱは講武所の
練兵場ね。今はマックがある。


松本明子という芸能人が四国
から東京に出て来た時、事務
所から代官山のマンションを
用意してもらったら、「大都
会東京に憧れて出て来たのに、
なんで東京に来てまで山まで
行って住まなければならない
のか」と反発したとTVで語っ
ていた。笑い話として。
「あたしはとことん田舎もん
でした」という自虐ネタで(笑
でも、実際に低いけど江戸に
は山が多い。丘なのだけど。
幕末に長州藩士が焼き討ちし
た英国公使館は品川の御殿山
にあった。山だけど低い丘。
今は超高級住宅地だ。
先日売りに出ている戸建てを
見たら、23億円だった。
誰が買うのだろう?(笑
てか、買う人ってどんな人?
品川御殿山と東五反田の丘の
上は、超がつく高級住宅街で
豪邸が建ち並ぶ。
映画『キリン』のチョースケ
が「なんだ?この家」と呟い
たような邸宅が建ち並ぶ。
 


ホットドッグについては、
まるで、ある日本刀小説の中
刀を扱う性格の悪い主人公
の骨董屋になった気分でホット
ドッグは俺は吟味する。
中森明菜ファンの骨董屋のよう
にな(笑
明菜が短刀売りに来たっけ(笑
実は俺はホットドッグマニア
だ。
 
とりあえず、この店のホット
ドッグは、殊の外うまい。
今夜は、カッケーバイクが停ま
ってた。
ライダーが道すがらちょい寄り
してもいい感じだぜ。ここの
自慢のホットドッグは。
ノーマルのホットドッグが一番
おすすめ。


 

上っ張り

2023年12月18日 | open



なんだかんだいって、一番着る
のはこれなんだよね。
革ジャン裏地を専門業者さんに
出してフルリペアしたい(笑
鮮やかなタマムシあたりの生地
で(笑
今のノーマル裏地もタマムシよ。
すり切れてっけど。



疑問

2023年12月18日 | open



最近、なぜ一気に大型二輪を
走らせている人たちはド下手
くそ層ばかりになったのか。
これは推測だが、今の極めて
簡単な免許制度に乗って、一
度もバイクに乗った事が無い
人が、もしかして最初から大
型二輪免許を取ってない?
ひょっとすると。
それで、ど素人ビギナーなの
に最初からビッグバイクに乗
ったりしてない?
もしかして。

だとしたら、最近になって急激
に大型二輪の運転者が下手ばか
りになったのは納得する。
超絶簡単免許制になった1995
年後のしばらくは、旧自動二輪
限定解除者もまだ走っていたん
だよ。
それが高齢化により二輪を降り
た。
そうした事象が年度ごとに累積
され、どんどん旧限定解除者は
消えて行った。
そして残ったのは、新設簡単
制度で、しかも嘘教えを真に
受けた「1980年代のレーシー
な時代」を全く知らない人たち。
さらに、現在進行形で旧限定解
除者たちはどんどん二輪を降り
て行っている、という状況。
まるで太平洋戦末期の真に技
能を有するゼロ戦パイロット
の年次ごとの不足拡大と未習
熟者の大増加という末期的な
現象発生と全く同じで。

だから、ごく最近、相対的に
どわっと大型二輪乗りたちが
ド下手くそだらけになったよ
うに見えるのではなかろうか。
旧限定解除者ではカカシ地蔵
で鳥の姿焼きヤキトリヤッキー
などはいなかった。まず見な
い。
ヘンテコリンな乗り方などし
ないし、してたら笑われた。
これは排気量に関係なく。
今はそうした層として厚かっ
た45年以上自動二輪に乗って
る人たちは、そうした理由
で激減してしまったのではな
かろうか。年次ごとに。技術
保有層は年代的に減る一方だ
から。
旧限定解除者で下手くそな人
にはお目にかかった事が無い。
時々足先が外向いてるだらし
ない乗れてないのはいたが。
さりとて、下手くそではない。
足癖が悪いだけだ。上体直立
腕伸ばしの硬直カカシの腕立
て伏せ姿勢で運転がおぼつか
ない者などは自動二輪限定解
除者にはいなかった。限定条
付自動二輪免許保持者にも
あまりいなかった。

二輪は考えながら乗れば、乗
程コントロールについての
見が実証的に備わる。これ
は確実だ。
ただし、フルパワーを使い切
る事を覚えないと、上達の度
いはフルパワーを使って走
りを励行していた人とは大き
く開きが出る。端的に言うと
泥の差として。
なので小排気量二輪での走行
こそが無制限排気量への有効
な訓練になるのだ。
世界グランプリでヤマハのワ
ークスライダーの本間利彦氏
は50ccでオフコースで練習し
たという。オフのフラット路
面で。
それなのだ。

いきなり免許取り立ての初心
者がビッグバイクに乗ったら、
それはおぼつかない事だろう。
スタート時点は小型二輪、普通
二輪免許取得者と同じだから
だ。
なるほど、ガチガチのカカシ
地蔵直立ヤキトリヤッキーに
なる筈だ。

今は絶滅危惧種だが、黄色ナ
ンバーかピンクナンバーのス
ポーツタイプのロードモデル
にしばらく乗って、接地感の
感知や操作操縦のイロハを徹
底的に習得してから大型に乗
ったほうがいいと私は思う。
結果としては、そちらのほう
が上達の早道だ。

ただし、運転技術を向上させ
て交通安全に寄与しようと考
えていない人は関係ない。
進歩もなく、永遠に事故予備
軍であり、転倒や衝突事故は
時間の問題だ。

カブだってスクーターだって
何だっていいんだよ。
全開でメーター振り切りにし
みろよ。
一皮剥けるから。
そして、真っ直ぐをただ走る
だけでなく、ツイスティなロ
ードを軽快にヒラヒラと走っ
てみろよ。
て、場所は自分で探せ。
公道でなくとも上達する場所
は一杯ある。
ただし、嘘教えの中古屋のと
こみたいのもあるので要注意。
スクールやジムカーナはよく
よくリサーチして厳選したほ
うがよいと思われ。
私の場合は、スクールには
行った事は無い。すべて独学
習と見取り稽古の技盗みだ
けだ。練達者の走りを穴のあ
く程見て、コンストラクター
やGPメカニックや経験豊富な
その道の経験者のうちの一部
の高度知見者や選手ライダー
を質問攻めにして。
上手くなりたくて仕方ないか
らそうしてた。
自分一人でピタゴラスの定理
は発見できない。
学識学究と同じく、過去の人
の偉業から学ぶのだ。その彼
らさえもそれを経て来ていた。
だから彼らは達人、名人の域
にいる。




たった一日で九州をバイクでまわる

2023年12月18日 | open

たった一日で九州をバイクでまわる
天才的な方法を思いついた
 






この人には珍しいツーリング
動画。
ツーリングというより走破系。
大阪から船で北九州に朝5時30分
に上陸し、平尾台、阿蘇を越え
一日で
鹿児島の佐多岬まで行き、
大阪に帰る(予定)。




三式戦闘機 飛燕

2023年12月18日 | open



三式戦闘機飛燕。
カワサキが作った。
よく壊れた困ったちゃんだった
ようだが、シルエットは秀逸。
有り体に言えばカッチョイイ。


個人的にはレシプロ戦闘機で一番
好きなのはスピットファイアだ。
こうした往年の航空機の好みは
「性能」とか「戦績」とかは関係
ない。プラモ作る子どもたちも
「強い」戦闘機を選ぶならば、米
軍機一択になってしまっていた
だろう。
だが、現実はそうではなかったし、
それは今でもそうだ。
それは一つの日本の子の普遍的な

質性として現出している。
そのことは、現代の今の子どもた
ちであっても、幼児などは車の
おもちゃではスポーツカーでは
なく、なぜかしら皆が一様に「働
く車=特装車」を好むという日本人
の摩訶不思議な習性が見られる事
にも顕著だ。特に園児あたりまで
はとりわけ男子は異様に働く車が

好き。

この日本人の嗜好性はナチスドイツ
の戦車など
に対してもいえる。
ただ「強い」物を選ぶならばⅢ号
戦車などはプラモ製作で昭和少年
たちは選ばなかっただろう。

だが、任務遂行が不可能になる程
の性能だったⅢ号は昭和世代の子
どもたちにはなぜか人気だった。
完璧に見た目のまとまりや視覚的
嗜好等で子ど
もは選んでいるし、
大人でも好み
等の問題とはそうだ
ろう。

特に車や二輪や格闘技やスポーツ
でもマッチョでイケイケおらおら
を日本人の一部が好むようになっ
たのは、
ごく最近の事かと思われ
る。

最近のバイクの排気量マウント厨
などもそのクチだろう。
公道で煽りを繰り返すような四輪

も、大抵は箱型の大きな車だ。
あれ、何か根本から勘違いしてる
のでしょうね。そういうのに乗れ
自分が「強くなった」と。
それは四輪も二輪も。
私は、その手の類は埒(らち)も
無い、と思っている。
中国地方方言では「やっちもねえ」
というやつ。
てことで、その延長線上で私は
ジャイアンツの
「巨人」という
名前そのものが
根本的に嫌いだっ
たりする(笑

図体でけえからと偉そうにしてる
んじゃ
ねぇよ、と。
これ、戦前からの対米日本人風味
として。
こちとら戦後まだ15年目の生まれ
し(笑

Ⅲ号戦車実物。これ、戦後昭和の
タミヤ模型作りの子どもたちには

人気があった。将棋の歩みたいな
存在の戦車。
だが、「桂馬の高跳び歩の餌食」

という諺もある。そうした弱者が
実は縁の下の力持ち、柔をよく剛
を制す、というのが日本の伝統的
魂だった。
今は「転倒的魂」ばかりが跋扈
する時代になった。



新型メグロ発表 ~カワサキの軌跡~

2023年12月18日 | open





カワサキが新型メグロ2024年型
を発表した。
目黒製作所は1924年(大正13年)
創業だ。
私が生まれた場所のごく近所に
目黒製作所はあった。
目黒製作所の場所は戦後の品川
の端に位置するが、付近一帯
かつては目黒とも呼ばれていた。
目黒区の端と品川区の端の隣接

エリア。

目黒製作所は日本国産二輪の雄
だったが、経
営が破綻し、昭和
39年(1964年)に川崎
航空機工
業に吸収された。

最初は経営再建の業務提携だっ
たが、のちにカワサキがメグロ
を吸収する
ことによって、川崎
(グループ統合後は重工)は二輪
部門を有する二輪製造メーカー
にもなった。
つい数年前に重工
は鉄道製作部
門と二輪部門を独
立させ、二輪
部門はカワサキ
モータース株式
会社となった。

カワサキ自体は1878年(明治
11年)に川崎正蔵が東京築地に
川崎造船所を設立したのが企業
の始まりだ。まだアメリカでは
西部開拓時代の真っただ中の
ワイルドウエストでは無法時代
の頃だ。コルトSAAの供給開始
から3年目。
その後、船舶や橋や機関車や
複葉偵察機や戦闘機(飛燕)等
の航空機、バス等をカワサキ

作り、日本の近代化に貢献
した。
ルーツを辿ると、二輪の国産
メーカーではカワサキが一番
古い。元々はお船屋さん。
関東大震災後の東京の25の橋は
カワサキが作った。
特に1926年完成の勝鬨橋は当時
の最新技術
を投入して作られた
橋で、道路部分がハの字に大き
く開く二葉式跳開橋だ。

勝鬨橋は1980年に交通量の増加
に伴い、開閉を廃止した。
だが、高度経済成長期には既に
交通量が多すぎたので、1970年
11月を最後に開橋廃止の1980年
まで一切開かなかった。




カワサキの技術。開橋はやめたが、
今でも主要部の機関施設部は残っ
ている。およそ100年前の建造物。


カワサキが作った橋では、やはり
隅田川にかかる永代橋が非常に
美しい。これも昭和初期の橋だ。
大阪は水都といわれ八百八橋と
呼ばれていたが、実は東京こそ
が水都であり、東京の橋のほう
が数は多かった。
「八百」というのは日本語の俗語
であり「たくさん」という意味だ。
「八百万(やおろず)の神」や
「嘘八百」のように。

永代橋。非常に美しいアーチ橋だ。
1926年建築だが、現代の東京にも
とてもよくマッチしている。







新車で買える空冷2気筒250

2023年12月18日 | open





新車で買える空冷2気筒250。
これめちゃくちゃ外見はいい。
馬力は16PSと125cc並みに非力
だが、ビジュアルはかなりいけ
てる。

オートバイは250が一番汎用性
が高い。街中のチョイ乗りも
高速道路を使った長距離も。
ただ、現代の二輪は250では
非力すぎて長距離はきつい。
昔の日本車のように公称45PS、
カプラ外せば60PSとかの250
ならばともかく。
それでも、80km/h巡行ができる
ならば長距離もいけるだろう。
実際非力な国産カワサキ250TR
やエストレヤでも1日500kmあた
りまでは楽勝で走れるようだし。
ただし、高速度巡行は×だ。

このGPXレジェンド250という車、
雰囲気がかなり
いい。
値段も50万円台前半。原産国タイ。
でもよく見ると、限りなくエスト
レヤぽいけどさ(笑
エストレヤの2気筒仕様、みたな。


カワサキ エストレヤ