量発動機付二輪車の事を指す。
オートバイが多い。自動二
輪とは免許区分以外ではあまり
呼ばない。
バイと呼んだ。
は1980代末期までもオート
バイと二輪の事を呼んでいた。
英語圏やスペイン語圏の人たち
にもスンナリと来たのだろう。
元世界チャンピオンの米国人
ケニー・ロバーツも今世紀
に入ってからは「バイク」
並み「バイク」と呼んでい
る。
バイ」だ。「二輪」もよく
使う。
は、1980年代末期あたり
からだ。
四輪車でもとりわけ軽自動車は
色の選択肢が豊富に用意されて
いるケースが多い。
普通自動車の場合は色数が少な
い。
軽自動車は東京大阪等の主要都
以外の地方では圧倒的に多い。
驚くほど多い。
走っている四輪車のほとんどが
軽自動車である程。
それは、地方では完全なる国民
の生活に欠かせない足として四
輪車が存在しているからだ。
車がなければ買い物も通院も
まったくできない。
都市部とは交通機関の発達が
雲泥の差だからだ。
高齢者の免許返納を推進云々は
あれは都会に住んでいる人が言
っている事だ。地方では元気な
80才代はごく普通に車を運転
して移動する。でないと移動
できないからだ。
つまり、車が無くば生活はでき
ない。
地方で軽自動車が爆発的に売れ
ているのは、維持費とコンパクト
さによる小回りが利く点だろう。
長距離は移動しない。
そして、広島県三原市のように
軽自動車には車庫証明が要らな
いという地域もある。
かつて、日本の二輪産業を支えた
のは50ccの原付バイクだった。
それにより日本の二輪は空前絶後
の1980年代オートバイブームを
迎えた。そこらじゅう誰でもバイ
クに乗っている国内状況が生まれ
た。年間250万台売れた二輪は、
今では1/10の販売台数に落ち込ん
だ。今日本の二輪産業は命が風前
の灯だ。
一方、四輪車の世界は順調で安定
した伸びを見せている。
四輪車メーカーの決算黒字は上昇
しか見せていない。
それは、四輪車が移動手段として
国民に定着しているからだ。
そして、それはかつて二輪が原付
によって支えられていたように、
四輪では軽自動車の普及が自動車
産業の底力となっている。
日本の原付50はどうして誰も乗ら
なくなったのか。
それは、かつて二輪車はエンジン
を切って押せば歩行者と法的にも
認められ、買い物や外出でも歩道
に駐車しても駐車違反対象には
ならなかった。そうした時代が
数十年続いた。
だが、現代コンプラクレーマー
の魁のようなクレーマーたちの
通報が突然降って湧いた。
まるで「オバQ」や「ちびくろ
サンボ」をつるし上げた疑似似非
良質市民ムーブメントのように。
一部の人間が火をつけたが、それ
が燎原の火のごとく広がった。
「恐れた人(企業等)」がいたか
らだ。
二輪の駐車違反はある時突然警察
権力により一方的に断行された。
そして取り締まりが突然始まった。
昨日まで歩けていた道を歩くと
逮捕する、みたいなものだ。
そして、日本の二輪車産業は死滅
へと向かった。現在は延命措置を
対処療法的に施しているが、日本
から二輪車が消滅する日は時間の
問題だ。
今日本国内で二輪に乗っている人
たちは、個人的な趣味で乗ってい
る「浮動層」ばかりだ。配達等の
職務乗車を除けば。
何かあったら即二輪に乗るのを
やめる。そうした存在。そうした
不安定な存在にかろうじて支え
られているのが日本の産業の中
における二輪製造部門だ。
だが、それら日本国内の二輪乗車
層は、奇しくも構造的には、意図
的な権力の二輪規制の歴史の中で、
抵抗戦線の一員を構成する構造の
中にいる。本人が意識せずとも。
ただ、浮動票と同じく浮動層は
いつでもその立場を任意に放棄
できるので、構造変革の起爆剤
にも確実な定着力にもならない。
日本の二輪史の中で唯一の例外
は、1980年代初期~末期に私
たちが起こした社会ムーブメント
によって、ライダー自身の手によ
って行政変革を実現した高速道路
料金訴訟運動だけだ。
あれにより二輪車の高速道路料金
枠が初めて設置された。
それは30数年を経た21世紀のこん
にちの料金枠としても現存で生き
ている。
あれがなければ、上からの搾り上
げはやりたい放題だった。
それまでは29人乗りのマイクロ
バスと同じ料金を二輪車は徴収
されていたのだ。
現実的に二輪枠の高速道路料金を
設置させた歴史的な訴訟は、法学
の世界では「行政訴訟の奇跡」と
いわれている。
四輪車は現在進行している二輪車
のように消滅の危機はない。
それは前述したように、国民の足
として軽自動車が完全生活必須
アイテムとして堅固に存在して
いるからだ。
二輪車の原付は四輪車の軽自動車
の二輪車版として想定されて普及
が成功したが、作為的勢力により
潰された。
そしてそれは二輪車社会全体を潰
す方向にベクトルが作用し、現在
の絶命寸前の日本の二輪産業の状
態を発生させるに至った。
今の状況は、誰か特定の者たちが
仕掛けて作り上げたものだが、
我々国民のうち二輪車に乗る人間
たちにも責任がある。
80年代の歴史的大改革を成し遂げ
たような巨大国民運動もなにも
せず、ただ指を咥えてお上の言い
なりになって尻尾を振っているだけ
が二輪乗車国民の全体像となって
しまっているからだ。
そして、それらはコンプラ警察
気取りの良市民ぶる似非国民の
層をも形成している。
今の二輪乗りたちは自分で自分の
首を絞めているのだ。
かつて家庭の主婦や学生たちまで
の多くの人が原付に乗ってタウン
ビークルとして二輪を使用して移
動した。どの家庭にも原付バイク
があったような光景が国内に広が
っていた。今の軽自動車の普及定
着のように。
任意保険制度もそうした社会情勢
を鑑み、ファミリー特約等が新設
された。
それが本来のモーターリゼーション
として正しく健全な交通社会の姿
だ。
そうした光景が広がる完備された
国は栄える。事実日本がそうだっ
た。
だが、そうした明るい未来を予見
させた日本の時代は終了した。
今日本は、最期の断末魔に実は
喘いでいる。
もしかすると、100年後には日本
という国さえも存在しないかも
しれない。
これ、絵空事や冗談ではなく。
たった一日で九州をバイクでまわる
天才的な方法を思いついた
この人には珍しいツーリング
動画。
ツーリングというより走破系。
大阪から船で北九州に朝5時30分
に上陸し、平尾台、阿蘇を越え
一日で鹿児島の佐多岬まで行き、
大阪に帰る(予定)。
三式戦闘機飛燕。
カワサキが作った。
よく壊れた困ったちゃんだった
ようだが、シルエットは秀逸。
有り体に言えばカッチョイイ。
個人的にはレシプロ戦闘機で一番
好きなのはスピットファイアだ。
こうした往年の航空機の好みは
「性能」とか「戦績」とかは関係
ない。プラモ作る子どもたちも
「強い」戦闘機を選ぶならば、米
軍機一択になってしまっていた
だろう。
だが、現実はそうではなかったし、
それは今でもそうだ。
それは一つの日本の子の普遍的な
質性として現出している。
そのことは、現代の今の子どもた
ちであっても、幼児などは車の
おもちゃではスポーツカーでは
なく、なぜかしら皆が一様に「働
く車=特装車」を好むという日本人
の摩訶不思議な習性が見られる事
にも顕著だ。特に園児あたりまで
はとりわけ男子は異様に働く車が
好き。
この日本人の嗜好性はナチスドイツ
の戦車などに対してもいえる。
ただ「強い」物を選ぶならばⅢ号
戦車などはプラモ製作で昭和少年
たちは選ばなかっただろう。
だが、任務遂行が不可能になる程
の性能だったⅢ号は昭和世代の子
どもたちにはなぜか人気だった。
完璧に見た目のまとまりや視覚的
嗜好等で子どもは選んでいるし、
大人でも好み等の問題とはそうだ
ろう。
特に車や二輪や格闘技やスポーツ
でもマッチョでイケイケおらおら
を日本人の一部が好むようになっ
たのは、ごく最近の事かと思われ
る。
最近のバイクの排気量マウント厨
などもそのクチだろう。
公道で煽りを繰り返すような四輪
も、大抵は箱型の大きな車だ。
あれ、何か根本から勘違いしてる
のでしょうね。そういうのに乗れ
ば自分が「強くなった」と。
それは四輪も二輪も。
私は、その手の類は埒(らち)も
無い、と思っている。
中国地方方言では「やっちもねえ」
というやつ。
てことで、その延長線上で私は
ジャイアンツの「巨人」という
名前そのものが根本的に嫌いだっ
たりする(笑
図体でけえからと偉そうにしてる
んじゃねぇよ、と。
これ、戦前からの対米日本人風味
として。
こちとら戦後まだ15年目の生まれ
だし(笑
Ⅲ号戦車実物。これ、戦後昭和の
タミヤ模型作りの子どもたちには
人気があった。将棋の歩みたいな
存在の戦車。
だが、「桂馬の高跳び歩の餌食」
という諺もある。そうした弱者が
実は縁の下の力持ち、柔をよく剛
を制す、というのが日本の伝統的
魂だった。
今は「転倒的魂」ばかりが跋扈
する時代になった。
カワサキが新型メグロ2024年型
を発表した。
目黒製作所は1924年(大正13年)
創業だ。
私が生まれた場所のごく近所に
目黒製作所はあった。
目黒製作所の場所は戦後の品川
区の端に位置するが、付近一帯
かつては目黒とも呼ばれていた。
目黒区の端と品川区の端の隣接
エリア。
目黒製作所は日本国産二輪の雄
だったが、経営が破綻し、昭和
39年(1964年)に川崎航空機工
業に吸収された。
最初は経営再建の業務提携だっ
たが、のちにカワサキがメグロ
を吸収することによって、川崎
(グループ統合後は重工)は二輪
部門を有する二輪製造メーカー
にもなった。
つい数年前に重工は鉄道製作部
門と二輪部門を独立させ、二輪
部門はカワサキモータース株式
会社となった。
カワサキ自体は1878年(明治
11年)に川崎正蔵が東京築地に
川崎造船所を設立したのが企業
の始まりだ。まだアメリカでは
西部開拓時代の真っただ中の
ワイルドウエストでは無法時代
の頃だ。コルトSAAの供給開始
から3年目。
その後、船舶や橋や機関車や
複葉偵察機や戦闘機(飛燕)等
の航空機、バス等をカワサキは
作り、日本の近代化に貢献した。
ルーツを辿ると、二輪の国産
メーカーではカワサキが一番
古い。元々はお船屋さん。
関東大震災後の東京の25の橋は
カワサキが作った。
特に1926年完成の勝鬨橋は当時
の最新技術を投入して作られた
橋で、道路部分がハの字に大き
く開く二葉式跳開橋だ。
勝鬨橋は1980年に交通量の増加
に伴い、開閉を廃止した。
だが、高度経済成長期には既に
交通量が多すぎたので、1970年
11月を最後に開橋廃止の1980年
まで一切開かなかった。
カワサキの技術。開橋はやめたが、
今でも主要部の機関施設部は残っ
ている。およそ100年前の建造物。
カワサキが作った橋では、やはり
隅田川にかかる永代橋が非常に
美しい。これも昭和初期の橋だ。
大阪は水都といわれ八百八橋と
呼ばれていたが、実は東京こそ
が水都であり、東京の橋のほう
が数は多かった。
「八百」というのは日本語の俗語
であり「たくさん」という意味だ。
「八百万(やおろず)の神」や
「嘘八百」のように。
永代橋。非常に美しいアーチ橋だ。
1926年建築だが、現代の東京にも
とてもよくマッチしている。
新車で買える空冷2気筒250。
これめちゃくちゃ外見はいい。
馬力は16PSと125cc並みに非力
だが、ビジュアルはかなりいけ
てる。
オートバイは250が一番汎用性
が高い。街中のチョイ乗りも
高速道路を使った長距離も。
ただ、現代の二輪は250では
非力すぎて長距離はきつい。
昔の日本車のように公称45PS、
カプラ外せば60PSとかの250
ならばともかく。
それでも、80km/h巡行ができる
ならば長距離もいけるだろう。
実際非力な国産カワサキ250TR
やエストレヤでも1日500kmあた
りまでは楽勝で走れるようだし。
ただし、高速度巡行は×だ。
このGPXレジェンド250という車、
雰囲気がかなりいい。
値段も50万円台前半。原産国タイ。
でもよく見ると、限りなくエスト
レヤぽいけどさ(笑
エストレヤの2気筒仕様、みたな。
カワサキ エストレヤ