今やテレビの歴史番組などで売れっ子の本郷先生。
中世史が専門ですが、大河ドラマで「鎌倉殿と13人」「どうする家康」と専門としている時代にはまっていてコメンテーターとして引っ張りだこです。
でも少し前には地味で本を書いてもちっとも売れないとかぼやいていたのですけど、どうしてどうして。
機を逃さず新書本を書きまくっていて、売れているみたいです。
今回取り上げるのは2022年に出版されたそうした2冊です。
ところでそれぞれの本の最後には既刊本の宣伝がのっているのですけど、見るとびっくり。
本当に何冊も書いているのが分かります。多分内容がかぶっているものもあると思うのですが、時流を逃さず商売上手というのでしょうか。
ここに取り上げた2冊の本もかぶっているところが多々あるので、まとめてレビューしてみます。
徳川家康という人は、織田信長とか豊臣秀吉とかの天才と比べてみると軍事についても文化についても独創性は見られずある意味凡人で我慢の人。桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られなければ、そのまま今川の有能な一武将で終わった可能性が高い。そもそも松平家は三河の支配を確立していた訳でもなく今川家の人質としての扱いとか桶狭間での役割を見ればそれほどの重要人物とはみられていなかったのか。
三河時代の譜代の武将というのは固い結束で結ばれていたように言われているけど桶狭間後に三河の支配を確立するまでには、離反・内部抗争が絶えなかったし、下剋上の戦国時代に全面的に心許せるようなものではなかったはず。徳川の支配が固まってから勝者の歴史として美しく語られたところを考えないといけない。その面で言えば、徳川家康という人は決して戦上手ではない。小牧長久手の戦い以前はどちらかというと負け戦が多かった。でも徳川の時代になると家康の神格化が進み都合の悪い話はかかれず話はどんどん盛ってくるので街道一の弓取りと言うことになっている。
因みに戦国時代の日本の人口は1200万人程度。戦国武将の兵の動員力というのは、概ね100石当たりおよそ3人、40万石当たりおよそ1万人というのが妥当な線だそうです。基本的には戦いは数なのですが、まさに経済力が兵の多寡を決めています。
桶狭間の合戦では今川軍が4万5千、織田軍3千というのは、勝った織田方が小よく大を負かすと言うことをことさら宣伝したことによると思われます。さらに言えば日本陸軍の戦史研究でも物量的に不利な相手にも奇襲攻撃で勝利できると言うことは対米戦争を考えると都合がいいのでことさら喧伝されたことにもよるのでしょう。今川の領地は駿河、遠江、三河を合わせて70万石程度、一方の尾張は生産力の高い土地で57万石。本郷先生は1万5千対1万ぐらいのだったではと推測しています。今川軍の目的も尾張制圧、上洛などと言うものではなく、鳴海・大高城の周りの織田方を制圧して尾張への進出の足掛かりを確たるものにすることぐらい。今川軍は外征なので正規軍の他にロジスティックを担う輜重隊を引き連れているので数は多くても戦闘員としては突撃してきた織田軍とほぼ互角、むしろ精鋭を鳴海、大高方面に割いているので奇襲攻撃でなくても撃破されたと思われる。
桶狭間の戦いの後、家康は今川から離反して織田と同盟を結び、三河を紆余曲折はあっても平定して、対武田の最前線としての役割を担うのだが、織田にとっては対等な同盟などではなく、いわば将棋の駒、あちこちの戦場にこき使われている。三方ヶ原の戦いでも織田からの援軍はわずか3千。武田側に寝返ると言う選択肢もあったかも思うのですが、ここは律義者の三河人で意地を通して、信玄の病死により何とか苦境を免れます。本当は信長に対してもっと全力を引き連れてちゃんと武田と戦いましょうと言いたかった…
秀吉との関係でも三河を捨てての関東への領地替えなど当時の感覚で言えば徳川にとってはとんでもないことだったのだろうが、秀吉存命中はひたすら恭順の姿勢を取っている。それでも本郷先生が言っているように、秀吉亡き後天下を狙う筆頭は家康である以上、なぜ秀吉は存命中に難癖をつけて家康を殺すなり失脚させるなりしなかったのか?朝鮮出兵の最前線を命じて疲弊させることぐらいはすぐにできただろうに子飼いの大名ばかりを疲弊させて深刻な内紛を抱えてしまっている。家康もいろいろやっているが排除したければ理屈抜きの難癖だろうといくらでもつけれただろうに。
関ケ原の合戦では、戦いの前に内部切り崩し工作をして西軍を軍として統制できないようにしている。蓋を開けてみれば裏切りを確約していたり戦線放棄したりと戦の始まる前に勝敗は決していたのだが、そのような工作を可能にした人心掌握力と将来構想力は抜きんでいたと言うしかない。
戦後家康は戦後処理として領地の配分を行っているのですが、それは主従制的支配権の発露であり実質的な徳川政権が出来上がったと言えます。しかしそれでも火種となる豊臣秀頼をすぐに滅ぼすことなく諸大名の動向を注視つつ、大阪の周りを堅固な城で囲み防衛態勢を整えるとともに満を持して大坂の陣に挑みます。関ケ原から15年かけているのですが、慎重に事を運んでいます。そのうえで方広寺鐘銘での難癖をつけて大坂の陣へと突入していきます。もはや高齢なのに15年待つという辛抱強さは健康オタクとして自身の寿命に自信があったからなのか。
ところで家康は将軍職を秀忠に譲ると江戸ではなくてし駿府に隠居してしまう。そこで実質的な政務を行っていたのだが、なぜ江戸ではなくて駿府?京都大阪は前政権の印象をぬぐうためには避けるとして自身が大規模な土木工事を行って整備した江戸に住んだほうが何かと便利みたいだが、どうも家康は江戸という土地は秀吉に押し付けられたこともありあまり気に入っていなかったのかも。それよりも気候温暖で幼少期の人質時代を過ごした駿府が良かったのか。岡崎や名古屋でもいいような気もしますが、幼少期の記憶で一番安らいだのは駿府だったのか。
このレヴューでは戦国時代の合戦のリアルな姿を紹介できませんでしたが、私たちの想像するものとは違い、兵の動員は在地領主が個々に行うので半分以上は農民の非常勤兼業兵士?従って近代的軍隊のように兵種ごとに組織され統制のとれた行動は難しい。在地領主がそれぞれに5人10人と兵を動員しており、恩賞はそれぞれの動員した武将ごとに行われるので鉄砲だけ引っこ抜いて鉄砲隊を組織したり槍だけ引っこ抜いてとはならないのが実情だし、兵種ごとの統一的な訓練も出来ていないはず。
戦国時代と比べると人口は3倍ほどになっているにもかかわらず戊辰戦争での動員兵力数が大きく減っているのは(例外的に奇兵隊などはあっても)農民を動員せず基本的に武士だけの戦いだったから。
長篠の合戦での鉄砲3段打ちはあり得ず、基本的に兵数と火力で圧倒したと言うことみたいです。勝者の後日談として話を盛ったり物語として盛り上げたりした話と違って実際の戦場ではテレビや映画で見るようにはならないことがよく分かりました。
大河ドラマ受けの2冊ですが、新書本なので読みやすくて、知的好奇心を満足させられました。
中世史が専門ですが、大河ドラマで「鎌倉殿と13人」「どうする家康」と専門としている時代にはまっていてコメンテーターとして引っ張りだこです。
でも少し前には地味で本を書いてもちっとも売れないとかぼやいていたのですけど、どうしてどうして。
機を逃さず新書本を書きまくっていて、売れているみたいです。
今回取り上げるのは2022年に出版されたそうした2冊です。
ところでそれぞれの本の最後には既刊本の宣伝がのっているのですけど、見るとびっくり。
本当に何冊も書いているのが分かります。多分内容がかぶっているものもあると思うのですが、時流を逃さず商売上手というのでしょうか。
ここに取り上げた2冊の本もかぶっているところが多々あるので、まとめてレビューしてみます。
徳川家康という人は、織田信長とか豊臣秀吉とかの天才と比べてみると軍事についても文化についても独創性は見られずある意味凡人で我慢の人。桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られなければ、そのまま今川の有能な一武将で終わった可能性が高い。そもそも松平家は三河の支配を確立していた訳でもなく今川家の人質としての扱いとか桶狭間での役割を見ればそれほどの重要人物とはみられていなかったのか。
三河時代の譜代の武将というのは固い結束で結ばれていたように言われているけど桶狭間後に三河の支配を確立するまでには、離反・内部抗争が絶えなかったし、下剋上の戦国時代に全面的に心許せるようなものではなかったはず。徳川の支配が固まってから勝者の歴史として美しく語られたところを考えないといけない。その面で言えば、徳川家康という人は決して戦上手ではない。小牧長久手の戦い以前はどちらかというと負け戦が多かった。でも徳川の時代になると家康の神格化が進み都合の悪い話はかかれず話はどんどん盛ってくるので街道一の弓取りと言うことになっている。
因みに戦国時代の日本の人口は1200万人程度。戦国武将の兵の動員力というのは、概ね100石当たりおよそ3人、40万石当たりおよそ1万人というのが妥当な線だそうです。基本的には戦いは数なのですが、まさに経済力が兵の多寡を決めています。
桶狭間の合戦では今川軍が4万5千、織田軍3千というのは、勝った織田方が小よく大を負かすと言うことをことさら宣伝したことによると思われます。さらに言えば日本陸軍の戦史研究でも物量的に不利な相手にも奇襲攻撃で勝利できると言うことは対米戦争を考えると都合がいいのでことさら喧伝されたことにもよるのでしょう。今川の領地は駿河、遠江、三河を合わせて70万石程度、一方の尾張は生産力の高い土地で57万石。本郷先生は1万5千対1万ぐらいのだったではと推測しています。今川軍の目的も尾張制圧、上洛などと言うものではなく、鳴海・大高城の周りの織田方を制圧して尾張への進出の足掛かりを確たるものにすることぐらい。今川軍は外征なので正規軍の他にロジスティックを担う輜重隊を引き連れているので数は多くても戦闘員としては突撃してきた織田軍とほぼ互角、むしろ精鋭を鳴海、大高方面に割いているので奇襲攻撃でなくても撃破されたと思われる。
桶狭間の戦いの後、家康は今川から離反して織田と同盟を結び、三河を紆余曲折はあっても平定して、対武田の最前線としての役割を担うのだが、織田にとっては対等な同盟などではなく、いわば将棋の駒、あちこちの戦場にこき使われている。三方ヶ原の戦いでも織田からの援軍はわずか3千。武田側に寝返ると言う選択肢もあったかも思うのですが、ここは律義者の三河人で意地を通して、信玄の病死により何とか苦境を免れます。本当は信長に対してもっと全力を引き連れてちゃんと武田と戦いましょうと言いたかった…
秀吉との関係でも三河を捨てての関東への領地替えなど当時の感覚で言えば徳川にとってはとんでもないことだったのだろうが、秀吉存命中はひたすら恭順の姿勢を取っている。それでも本郷先生が言っているように、秀吉亡き後天下を狙う筆頭は家康である以上、なぜ秀吉は存命中に難癖をつけて家康を殺すなり失脚させるなりしなかったのか?朝鮮出兵の最前線を命じて疲弊させることぐらいはすぐにできただろうに子飼いの大名ばかりを疲弊させて深刻な内紛を抱えてしまっている。家康もいろいろやっているが排除したければ理屈抜きの難癖だろうといくらでもつけれただろうに。
関ケ原の合戦では、戦いの前に内部切り崩し工作をして西軍を軍として統制できないようにしている。蓋を開けてみれば裏切りを確約していたり戦線放棄したりと戦の始まる前に勝敗は決していたのだが、そのような工作を可能にした人心掌握力と将来構想力は抜きんでいたと言うしかない。
戦後家康は戦後処理として領地の配分を行っているのですが、それは主従制的支配権の発露であり実質的な徳川政権が出来上がったと言えます。しかしそれでも火種となる豊臣秀頼をすぐに滅ぼすことなく諸大名の動向を注視つつ、大阪の周りを堅固な城で囲み防衛態勢を整えるとともに満を持して大坂の陣に挑みます。関ケ原から15年かけているのですが、慎重に事を運んでいます。そのうえで方広寺鐘銘での難癖をつけて大坂の陣へと突入していきます。もはや高齢なのに15年待つという辛抱強さは健康オタクとして自身の寿命に自信があったからなのか。
ところで家康は将軍職を秀忠に譲ると江戸ではなくてし駿府に隠居してしまう。そこで実質的な政務を行っていたのだが、なぜ江戸ではなくて駿府?京都大阪は前政権の印象をぬぐうためには避けるとして自身が大規模な土木工事を行って整備した江戸に住んだほうが何かと便利みたいだが、どうも家康は江戸という土地は秀吉に押し付けられたこともありあまり気に入っていなかったのかも。それよりも気候温暖で幼少期の人質時代を過ごした駿府が良かったのか。岡崎や名古屋でもいいような気もしますが、幼少期の記憶で一番安らいだのは駿府だったのか。
このレヴューでは戦国時代の合戦のリアルな姿を紹介できませんでしたが、私たちの想像するものとは違い、兵の動員は在地領主が個々に行うので半分以上は農民の非常勤兼業兵士?従って近代的軍隊のように兵種ごとに組織され統制のとれた行動は難しい。在地領主がそれぞれに5人10人と兵を動員しており、恩賞はそれぞれの動員した武将ごとに行われるので鉄砲だけ引っこ抜いて鉄砲隊を組織したり槍だけ引っこ抜いてとはならないのが実情だし、兵種ごとの統一的な訓練も出来ていないはず。
戦国時代と比べると人口は3倍ほどになっているにもかかわらず戊辰戦争での動員兵力数が大きく減っているのは(例外的に奇兵隊などはあっても)農民を動員せず基本的に武士だけの戦いだったから。
長篠の合戦での鉄砲3段打ちはあり得ず、基本的に兵数と火力で圧倒したと言うことみたいです。勝者の後日談として話を盛ったり物語として盛り上げたりした話と違って実際の戦場ではテレビや映画で見るようにはならないことがよく分かりました。
大河ドラマ受けの2冊ですが、新書本なので読みやすくて、知的好奇心を満足させられました。