先日飲めない飲むと昔話をしている時に、話題が就職活動の苦労話に及びました。
記憶というのは長い間封印されていたものが、ある日突然封印が解除され溢れ出してくることがある。
ファミレスに居座りいろいろ話したのだが、記憶は布団に横になってからもどんどん出て来て、こんなものは年寄りの昔話で誰も聞いてくれないのですが、備忘録として書き留めておくことにしました。
私の就職活動は1975年9月解禁だったのですが、実は1975年は石油ショックの真っただ中で私の1年先輩たちはまだ余裕がある就職活動だったのですが、年が改まる頃には企業業績が急速に悪化し、就職内定していたはずなのに4月の入社式を目前にして内定取り消しがあったりして社会問題となっていました。
その翌年と言うことで私たちの就職活動は暗雲漂った中でのスタートで、一年前の先輩の体験談が全く通用しない世界でした。名古屋市とか愛知県とかも新規採用するかどうかも分からないと例年6月に行われる就職試験は延期になっていました。通常の年では試験に合格して任用候補者名簿に登載されてもある割合で任用辞退があるのでそれを見込んで合格を出すのですが、厳しい経済状況から辞退して民間に就職する人が大幅に減って辞退者が激減、名簿登載者でも4月に採用できずに1年遅れになる人も。当然つぎの新規採用をできるかどうかと言うことみたいでした。
ともあれ就職はしなくてはいけないので夏休み前にリクルートから送られる採用予定企業の一覧の分厚い本を見ながら併せて大学の掲示板を見て就職企業をいろいろ考えていきます。
9月解禁なので1日から着なれない背広を着て企業回り。父はしがない自転車屋のおやじなので背広などは着たところを見たことがなく、その息子の私も当然ながらスーツ姿は様にならない。夏のくそ暑い中を何でこんなものを着るのかと思っていたのですが、同級生たちはちゃんと着こなしていたのでそれだけで負けた気がして劣等感を感じていたものです。
9月1日からは会社訪問ですが、事前に履歴書は提出していて一次試験は履歴書の確認と係長?面接。短期決戦で面接日は決まっているんで日程が重ならないように志望会社を決めて回って行きます。私は製造業に拘り金融とか商社は眼中になかったのでオイルショック後は余計厳しい現実。地元企業を含めて何社か回ったのですが、一次であえなく討ち死にというところも多々あって、落ち込みながら次を目指すしかない。
9月の第1週に決まらないと企業規模としてはどんどん小さくなってくるのですが、学部の掲示板をため息つきながら見ていると同じようにため息ついてみているのも何人かいて顔なじみに。そのうちに顔を見なくなったのでどこかに合格したのかと思いきや2次面接に立てつづけに落ちてショックで家で寝込んでいると言うのもいました。
それでも旧帝国大の強みで何社かは2次面接を突破して、いよいよ重役面接に。ここまでくると最終確認でほぼ決まるのですが、一応3社残っていました。
ところがここで某建設資材会社から重役面接に際して指導教授の推薦状を出してほしいと言われて困惑していしまいます。とにかく教授に頼んでみようとお願いしたら、どう書けばいいのかと言いつつ書いてくれました。
どうやら私立大学などでは推薦状の様式が決まっていて教授がサインして押印すればいいみたいなのですが、私のゼミは社会政策なのですが、同学年ゼミ生3人という弱小ゼミで教授は世事に疎く、学生の就職の世話などはしたことがないと思います。どう書けばいいのかとブツブツ言いながらその場で手書きで親切丁寧に書いていただき、会社に提出したらこんな推薦状は観たことがなくてよっぽど教授に見込まれていたと勘違いされたみたいです。もっともこの会社は結局辞退したのですが、そのおかげで書類一式を返してくれてこの推薦状は今も私の宝物になっています。
因みにゼミ生3人のうち政府系金融公社に入った人は優秀で多分学年でトップだったと思いますが、就職すると聞いて学部の事務長があんなに優秀な学生を大学院に行かせないで、院を志望するのは出来が悪いやつばかりじゃないかと教授に怒ったと言うエピソードがあります。それでもゼミ生3人の中で私が一番教授には愛されていたと密かに思っています。
閑話休題。他にも某ポンプメーカーも重役面接となったのですが、その日が何と統計学の試験の日と重なってしまいました。必修科目でここで落ちると卒業できないので日程変更をお願いしたのですが、聞いてもらえずに断念。ところがその重役面接を欠席したらその後もう一度日程を設定するので来てくださいと言われたのですが、ちょっと冷めてしまいご縁がなかったことに。この会社は学閥的には慶応系で名古屋から志望するなんて初めて位だったのですが、その分東京の学生しか目配りしていなかったみたいです。2次試験の日に新幹線代が出なかったので出ないのですかと請求した覚えがあります。
結局中堅化学メーカーに決まりかけたのですが、気分としてはちょっと不本意で、遅ればせながら公務員試験があったので受けてみたら合格だったので、学生課の事務からは仁義にもとることはだめだと言われながら、そちらに転進してしまいました。
1975年の就職戦線は本当に厳しい年で、大学の卒業生就職先を見てもそれまではほとんど行かないような企業にも就職しているし、就職浪人と言うかわざと留年したほうがよかったかもというくらいです。就職先としては金融機関が多かったのですが、その後のバブルの崩壊を見るとみんなどうだったかと考えてしまいます。
書いているとどんどん思い出すことが合ってまだまだ出てきそうですが、ひとまずこの辺で爺の思い出話はやめておきます。
記憶というのは長い間封印されていたものが、ある日突然封印が解除され溢れ出してくることがある。
ファミレスに居座りいろいろ話したのだが、記憶は布団に横になってからもどんどん出て来て、こんなものは年寄りの昔話で誰も聞いてくれないのですが、備忘録として書き留めておくことにしました。
私の就職活動は1975年9月解禁だったのですが、実は1975年は石油ショックの真っただ中で私の1年先輩たちはまだ余裕がある就職活動だったのですが、年が改まる頃には企業業績が急速に悪化し、就職内定していたはずなのに4月の入社式を目前にして内定取り消しがあったりして社会問題となっていました。
その翌年と言うことで私たちの就職活動は暗雲漂った中でのスタートで、一年前の先輩の体験談が全く通用しない世界でした。名古屋市とか愛知県とかも新規採用するかどうかも分からないと例年6月に行われる就職試験は延期になっていました。通常の年では試験に合格して任用候補者名簿に登載されてもある割合で任用辞退があるのでそれを見込んで合格を出すのですが、厳しい経済状況から辞退して民間に就職する人が大幅に減って辞退者が激減、名簿登載者でも4月に採用できずに1年遅れになる人も。当然つぎの新規採用をできるかどうかと言うことみたいでした。
ともあれ就職はしなくてはいけないので夏休み前にリクルートから送られる採用予定企業の一覧の分厚い本を見ながら併せて大学の掲示板を見て就職企業をいろいろ考えていきます。
9月解禁なので1日から着なれない背広を着て企業回り。父はしがない自転車屋のおやじなので背広などは着たところを見たことがなく、その息子の私も当然ながらスーツ姿は様にならない。夏のくそ暑い中を何でこんなものを着るのかと思っていたのですが、同級生たちはちゃんと着こなしていたのでそれだけで負けた気がして劣等感を感じていたものです。
9月1日からは会社訪問ですが、事前に履歴書は提出していて一次試験は履歴書の確認と係長?面接。短期決戦で面接日は決まっているんで日程が重ならないように志望会社を決めて回って行きます。私は製造業に拘り金融とか商社は眼中になかったのでオイルショック後は余計厳しい現実。地元企業を含めて何社か回ったのですが、一次であえなく討ち死にというところも多々あって、落ち込みながら次を目指すしかない。
9月の第1週に決まらないと企業規模としてはどんどん小さくなってくるのですが、学部の掲示板をため息つきながら見ていると同じようにため息ついてみているのも何人かいて顔なじみに。そのうちに顔を見なくなったのでどこかに合格したのかと思いきや2次面接に立てつづけに落ちてショックで家で寝込んでいると言うのもいました。
それでも旧帝国大の強みで何社かは2次面接を突破して、いよいよ重役面接に。ここまでくると最終確認でほぼ決まるのですが、一応3社残っていました。
ところがここで某建設資材会社から重役面接に際して指導教授の推薦状を出してほしいと言われて困惑していしまいます。とにかく教授に頼んでみようとお願いしたら、どう書けばいいのかと言いつつ書いてくれました。
どうやら私立大学などでは推薦状の様式が決まっていて教授がサインして押印すればいいみたいなのですが、私のゼミは社会政策なのですが、同学年ゼミ生3人という弱小ゼミで教授は世事に疎く、学生の就職の世話などはしたことがないと思います。どう書けばいいのかとブツブツ言いながらその場で手書きで親切丁寧に書いていただき、会社に提出したらこんな推薦状は観たことがなくてよっぽど教授に見込まれていたと勘違いされたみたいです。もっともこの会社は結局辞退したのですが、そのおかげで書類一式を返してくれてこの推薦状は今も私の宝物になっています。
因みにゼミ生3人のうち政府系金融公社に入った人は優秀で多分学年でトップだったと思いますが、就職すると聞いて学部の事務長があんなに優秀な学生を大学院に行かせないで、院を志望するのは出来が悪いやつばかりじゃないかと教授に怒ったと言うエピソードがあります。それでもゼミ生3人の中で私が一番教授には愛されていたと密かに思っています。
閑話休題。他にも某ポンプメーカーも重役面接となったのですが、その日が何と統計学の試験の日と重なってしまいました。必修科目でここで落ちると卒業できないので日程変更をお願いしたのですが、聞いてもらえずに断念。ところがその重役面接を欠席したらその後もう一度日程を設定するので来てくださいと言われたのですが、ちょっと冷めてしまいご縁がなかったことに。この会社は学閥的には慶応系で名古屋から志望するなんて初めて位だったのですが、その分東京の学生しか目配りしていなかったみたいです。2次試験の日に新幹線代が出なかったので出ないのですかと請求した覚えがあります。
結局中堅化学メーカーに決まりかけたのですが、気分としてはちょっと不本意で、遅ればせながら公務員試験があったので受けてみたら合格だったので、学生課の事務からは仁義にもとることはだめだと言われながら、そちらに転進してしまいました。
1975年の就職戦線は本当に厳しい年で、大学の卒業生就職先を見てもそれまではほとんど行かないような企業にも就職しているし、就職浪人と言うかわざと留年したほうがよかったかもというくらいです。就職先としては金融機関が多かったのですが、その後のバブルの崩壊を見るとみんなどうだったかと考えてしまいます。
書いているとどんどん思い出すことが合ってまだまだ出てきそうですが、ひとまずこの辺で爺の思い出話はやめておきます。
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