10月9日は愛知大学のオープンカレッジ受講のために愛知大学名古屋校舎のグローバルコンベンションホールへ。
13:00からの開講なので、早めにお昼を食べて12時には家を出て金山から名駅へJR、そこからあおなみ線に乗り換えてささしまライブ駅。あおなみ線は基本15分に1本なのですがホームに出ると丁度列車が出た後。名駅からセカセカ歩いて行っても15分くらいで着くのですが、敬老パスで無料なので、ここはあおなみ線の魅力に勝てません。
愛知大学は駅から直結なのでそのままグローバルコンベンションホールへ。
会場は200名定員ですけど、入場者は5~60名ほどか。その分隣を気にすることなく余裕をもって座れますけど、ちょっと寂しい。
講師は早川大介愛知大学経済学部教授。日本経済史・金融史が専門です。
さて、大河ドラマの主人公にもなり、新1万円札のモデルにもなり、なにかと今話題の渋沢栄一、派手な女性関係から結婚式の御祝儀には使えないとか、当時なら艶福家として非難はおろか称賛されていたのでしょうが時代は変わっています。それにしてもいろいろなことを考える人がいるものです。
渋沢栄一が生涯に関係した企業は、約500社にも及び、今も経済界に重きをなしている企業も多い。欧米の知識、技術を導入した新産業・鉄道・築港などインフラストラクチャーに関わるものが多い。今回の講義はグッと絞って第一国立銀行と大阪紡績(東洋紡)の2社について紹介しています。
明治初期の銀行制度の導入については,アメリカ型とイギリス型のモデルの採用について論争があり,結果アメリカのナショナル・バンク制度をモデルとする「国立銀行」制度を構想し、株式会社形式の民間企業で銀行券を発行する国立銀行を作ることに。第一国立銀行は1873年7月に設立され、大蔵省を退官した渋沢が総監役に就任している。渋沢は後続の国立銀行の設立を支援しており、銀行員の派遣、業務研修、定款・諸規則の雛形提供、出資と金融システムの整備を進めている。
今の都市銀行、地方銀行の淵源はここから来ていると思うと記入システムへの渋沢の貢献は計り知れない。
明治政府が近代工業化を進めるにあたり、最初は手掛けたのが生産が比較的容易な機械制紡績業なのですが、それを日本社会にちゃんと定着させるのは単純なことではない。最初政府主導で紡績機械を輸入し国産化を試みるけど失敗。その後殖産興業政策の一環で1880年代に官営模範工場・機械の年譜払い下げ・政府による機械代金の建て替えなどなどを行うのだが、いずれも経営不振になる。
ここで渋沢は外国の方法の受け売りではなく日本に適応したものを作らなければいけないと大阪紡績を設立。その際ロンドン留学中の山辺丈夫をリクルート。イギリスで紡績技術・経営を学ばせ、英国人技師を招聘し、技術指導させる。立地を考慮して機械原料にも日本に適したものを選択する。工場の運営・管理についても等級別賃金とか出来高給も導入し、工場規則による管理、寄宿舎の設置なども取り入れるなどしている。結果初年度から黒字で配当できるようになる。この成功を受けて紡績会社・紡錘数は急増。日本の紡績業は大きく発展していく。
新しい制度・技術を導入するにあたり、日本に適応したものにするには周到な準備と試行錯誤が必要。渋沢はその大切さをよく理解し、プロモーターとしてリーダーシップを持って活動し、日本の工業化過程で大きな役割を果たしている。
それにしてもなぜ渋沢がそういう視点と行動力を持ったのだろうか。豪農の家に生まれ、徳川慶喜につかえ、西欧外遊もしていると言う経歴が唯一無二の立ち位置にあったのだろうか。
終わって帰りは名駅まで歩いて帰ったのですが、歩いているのは普段ほとんど出会わない若者ばかりでこんなところを老人が一人歩いていいのか気後れしてしまいます。
13:00からの開講なので、早めにお昼を食べて12時には家を出て金山から名駅へJR、そこからあおなみ線に乗り換えてささしまライブ駅。あおなみ線は基本15分に1本なのですがホームに出ると丁度列車が出た後。名駅からセカセカ歩いて行っても15分くらいで着くのですが、敬老パスで無料なので、ここはあおなみ線の魅力に勝てません。
愛知大学は駅から直結なのでそのままグローバルコンベンションホールへ。
会場は200名定員ですけど、入場者は5~60名ほどか。その分隣を気にすることなく余裕をもって座れますけど、ちょっと寂しい。
講師は早川大介愛知大学経済学部教授。日本経済史・金融史が専門です。
さて、大河ドラマの主人公にもなり、新1万円札のモデルにもなり、なにかと今話題の渋沢栄一、派手な女性関係から結婚式の御祝儀には使えないとか、当時なら艶福家として非難はおろか称賛されていたのでしょうが時代は変わっています。それにしてもいろいろなことを考える人がいるものです。
渋沢栄一が生涯に関係した企業は、約500社にも及び、今も経済界に重きをなしている企業も多い。欧米の知識、技術を導入した新産業・鉄道・築港などインフラストラクチャーに関わるものが多い。今回の講義はグッと絞って第一国立銀行と大阪紡績(東洋紡)の2社について紹介しています。
明治初期の銀行制度の導入については,アメリカ型とイギリス型のモデルの採用について論争があり,結果アメリカのナショナル・バンク制度をモデルとする「国立銀行」制度を構想し、株式会社形式の民間企業で銀行券を発行する国立銀行を作ることに。第一国立銀行は1873年7月に設立され、大蔵省を退官した渋沢が総監役に就任している。渋沢は後続の国立銀行の設立を支援しており、銀行員の派遣、業務研修、定款・諸規則の雛形提供、出資と金融システムの整備を進めている。
今の都市銀行、地方銀行の淵源はここから来ていると思うと記入システムへの渋沢の貢献は計り知れない。
明治政府が近代工業化を進めるにあたり、最初は手掛けたのが生産が比較的容易な機械制紡績業なのですが、それを日本社会にちゃんと定着させるのは単純なことではない。最初政府主導で紡績機械を輸入し国産化を試みるけど失敗。その後殖産興業政策の一環で1880年代に官営模範工場・機械の年譜払い下げ・政府による機械代金の建て替えなどなどを行うのだが、いずれも経営不振になる。
ここで渋沢は外国の方法の受け売りではなく日本に適応したものを作らなければいけないと大阪紡績を設立。その際ロンドン留学中の山辺丈夫をリクルート。イギリスで紡績技術・経営を学ばせ、英国人技師を招聘し、技術指導させる。立地を考慮して機械原料にも日本に適したものを選択する。工場の運営・管理についても等級別賃金とか出来高給も導入し、工場規則による管理、寄宿舎の設置なども取り入れるなどしている。結果初年度から黒字で配当できるようになる。この成功を受けて紡績会社・紡錘数は急増。日本の紡績業は大きく発展していく。
新しい制度・技術を導入するにあたり、日本に適応したものにするには周到な準備と試行錯誤が必要。渋沢はその大切さをよく理解し、プロモーターとしてリーダーシップを持って活動し、日本の工業化過程で大きな役割を果たしている。
それにしてもなぜ渋沢がそういう視点と行動力を持ったのだろうか。豪農の家に生まれ、徳川慶喜につかえ、西欧外遊もしていると言う経歴が唯一無二の立ち位置にあったのだろうか。
終わって帰りは名駅まで歩いて帰ったのですが、歩いているのは普段ほとんど出会わない若者ばかりでこんなところを老人が一人歩いていいのか気後れしてしまいます。
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