藤沢周平さんの小説はかなり読んだつもりですけど、これはまだでした。その昔、係長時代によく読む本の話題になって当時の課長が時代ものが好きで藤沢周平が好きだと言っていたのですが、その頃の私は藤沢周平を知らなくて時代ものなんかは銭形平次とか水戸黄門の類かと思い口には出しませんでしたが小ばかにしていた記憶でした。でもなんかの拍子で藤沢周平の本を読んでみたら、たちまちその面白さのとりこになっていました。
「市塵」は藤沢さんのジャンルで言えば評伝物というべきものか、小林一茶を描いた「一茶」、長塚節を描いた「白き瓶」に次ぐもので、この作品は新井白石が主人公。
新井白石については教科書的な知識しかなく、その昔名著で読むべき本と言うことで「折りたく柴の記」を読んだ覚えはあるのですが、ほとんど記憶はない。
読んでみると新井白石はどちらかというと遅咲きの人。浪人暮らしで本所で私塾をやっていたところたまたま学問の師木下順庵の推挙によって37歳で甲府藩の儒者としての仕えることとなり頭角を顕していく。ここで切れ者と言われる間部詮房と親しくなり、二人で綱豊を補佐していくようになる。時の将軍綱吉は嫡子がおらず兄の子である綱豊が次期将軍の世子として西の丸に入っていく。間部は奏者番から用人となり綱豊の寵臣と言ってもよく強い権力を握ることになる。白石は儒者として綱豊に進講する中で政治的進言もすることで信頼を得ていた。
ちょっと意外だったのは、白石は体が弱くたびたび寫(激しい下痢?)に悩まされていて、出仕を休むことが多かったみたい。子どもも何人かできるのだが、多くが幼い時に亡くなり成人したのはわずか。江戸時代では、それなりの上流階級でも乳児死亡率も高くはしかなどの感染症も大きな脅威だったのが分かる。
将軍綱吉が亡くなり、綱豊改め家宣が将軍となると白石はその政治顧問のような立場になってくる。悪評高い生類憐みの令をただちに廃し、政治を刷新していこうとする。その面では白石は儒者にとどまらず、現実の政治を変えていこうとしている。そんな姿は儒者仲間からは世俗に交わっていると見られているし、儒者の頂点に立つ林大学守の権威に盾突くものとして反発を生む。それでも白石は自分の思うところを将軍に進言していく。朝鮮通信使の扱いについては両国対等の立場に立って在り様を改めていく。そこに至る白石の博覧強記というか緻密な論理構成はさすが将軍の信頼熱いご意見番。
そんな白石がある意味目の敵にしていたのが勘定奉行の萩原重秀。幕府財政を一人で切り回して将軍の浪費などの後始末をこなしていたのだが、その手法として貨幣改鋳により質を落として儲けを生み出していた。経済学的にはコメ本位制の体制の中で、次第に商業、家内工業が発展して社会を回すのには銭が必要になってきたことがある。金・銀の産出量が徐々に減ってきている中で銭の流通量を増やすには改鋳は避けられないこと。白石の視点は現実の経済とは少し遊離している感がある。幕府財政だけを考えても、年々諸経費高騰する中で豪華な行事を営み将軍の思い付きによる散財を繰り返しているのに収入はコメ生産による年貢だけではいくら新田開発しても追いつかない。本来ならば幕府の支出を抑え込んで収入の範囲内にしなければいけないのだが、誰も一旦緩んだ支出を制限しようとしないし、将軍のためにはさらなる支出を行う。白石も奢侈については意見書を何度も出しているのだが止めることは出来なかった。支出削減できない幕閣にとっては萩原の手腕は絶対に必要なもの。この後吉宗は享保の改革でゆるんだ幕府規律を引き締めようとするのだが、それはデフレ政策。今の視点で見れば萩原重秀の政策の方が理にかなっていたような気がするけど、これはこの小説とは別の話。
白石は間部詮房と二人三脚で家宣の厚い信任を得て幕府政治を実質的に動かしてきたのだが、家宣が亡くなり跡を継いだ幼い家継も夭折すると吉宗の治世となり権力の中枢からは遠ざけられる。身分がある訳でなく家宣の信任を得て儒者の政治顧問としての力でのし上がってきただけに落ちる時は早い。晩年の姿は権力の中枢にいただけに侘しい。
ところで解説は伊集院静が書いているのだが、内容はパリのバーで読んだ藤沢周平の小説「用心棒日月抄」の素晴らしさから始まり「市塵」の解説は解説というほどもない。伊集院らしいと言うのか。でもおかげで本棚から「用心棒日月抄」を引っ張り出して読むことに。藤沢周平は評伝物よりもこちらの方が面白い。私個人的には「蝉しぐれ」が最高傑作と思っています。
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