孔子については高校の漢文で習ったことぐらいですが、この日本には深く儒教文化が根付いていて、論語の一節とかがちょくちょく巷間に上ります。
でも孔子の一生については、断片的にしか知りません。
と言うか非常におおざっぱですが、詳細不明のまま吾十有余に学に志し、三十にして立つ、四十にして迷わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲するままにして矩を超えずぐらいの知識でしょうか。
今回は宮城谷さんが描く孔子の一生を読んでみました。それにしても出てくる漢字が難しく、変換してもなかなか出てこないので苦労しました。
読んでみてわかったのですが、孔子が実際にどういう人生を送ったのか本当に無知でした。
それと同時に論語の言葉が結構折に触れ浮かんできて、そんなに一般教養はないのですが、孔子の考えに知らないうちに感化されていたと言うか思考の基底に組み込まれていたのを改めて感じた次第。
ところで儒家というと孔子が創立者かと思っていたら、そうではなくて「儒」とは埋葬を含めて葬儀を請け負う者たちとかで、貧しい家を支えるため孔子は儒者として働いた。勿論そこにとどまらず向学心に富む孔子は、葬礼について精究しようとして、書物を集め人に頭を下げている。その意望と知識欲に打たれ孔子のもとに礼を学ぶ弟子が集まってくる。
その頃同時に魯の下級役人に採用されて勤勉な役人となる。
因みに孔子は武人の父を持ち身長9尺6寸(2メートル16センチ)で堂々たる体躯、軽々と矛を振りかざす膂力を持っているとかですが、身長は少し盛ってあるかも、でも長身だったのは事実みたい。
役人をしつつ私塾で礼を教えていた孔子ですが、教師としては「どれほどつまらない男がわれのもとにきても、まじめな態度で問うなら、納得するまで十分に答えてやる」という姿勢を晩年まで崩していない。役人生活では老司書の好意から書写に励み学ぶことをやめない。そんな孔子に教えを乞う門弟が徐々に集うようになる。
やがて魯の内紛により国が乱れると、孔子は門人数名とともに魯の国から一時避難して周へと行く。周では老子に弟子入りし学びつつ、教場で門弟を教えて過ごすのだが、やがて魯の乱が終息とともに帰国する。帰国した孔子は、仲孫家に礼を教えるために出入りするようになり門弟は増え続け教場は活況を呈した。
しかし魯の政治の実権は陽虎が握るようになり、陽虎に邪魔者扱いされて、孔子は斉へ亡命せざるを得なくなる。斉では景公の信頼を得たのだが重臣の晏嬰からは疎まれ封土を得ることが出来ない。
魯では陽虎が内戦に敗れ斉に亡命してくるかもしれないとなり、孔子はこれを天命と思い五十にして斉を去り魯に帰る。
魯に戻った孔子は中都の宰に任じられる。ここで初めて孔子は行政の長として善政を実践することが出来るようになる。やがて中央の司法と警察の長官ともいうべき司寇に任じられる。孔子は魯を文化国家にすべく邑の城壁を取り壊す策を進める。だがそれは激しい抵抗に遭い、罷免され亡命せざるを得なくなる。
亡命先は衛。孔子自身は「我に1国の政治をまかせてくれたら、1年で可能にし、3年で成功させてみせる」と自信過剰気味だったのだが、新規の政治改革を断行するには強力な支援者がいると言うことには思いが至らない。結局衛の危機意識も競争心もない国としての実情と凡庸というより無道の霊公を見限り、衛を出て鄭、宋へさらには陳へと流浪の旅に出る。
やがて孔子一行は紆余曲折を経て命からがら魯に帰国。時に68歳となる。魯では大夫に処遇され門人たちもそれなりの要職に就くが、門弟や息子を亡くしていく。
そして孔子は73歳で没する。
孔子は、政争には敗れ行政トップとして手腕を振るうことは出来ず、魯を理想国家にすることも出来ず、長い亡命生活を送らざるをえず、ある意味挫折と失意の人生だった。権謀術策が飛び交い、力の対決が求められる時に孔子の思想は現実的ではなかったのだろう。漢の時代になり、国家秩序が安定した時に初めて儒教は国家統治の思想として入れられた。政治家としては早すぎた登場だったが、思想家としては必要とされた時代だったのか。
孔子は自分の著書というのはなく、後世の人は弟子が聞き取ったものをまとめた「論語」を通じて孔子の思想を知るのだが、そこはソクラテスと同じ。まあ、キリストも釈迦も自分の著書などはなく、弟子が効いたこと体験したことをまとめたものが残っているだけ。
宮城谷さんはあとがきで孔子の伝記は50歳、60歳では書くことが出来ず、70歳になってやっと書くことが出来た次第と書いている。
参考にしたのは白川静の「孔子伝」と書いてあったので早速借りてきましたが、文庫本と言えども300ページ余り。これはなかなか読むのに手強そうです。
でも孔子の一生については、断片的にしか知りません。
と言うか非常におおざっぱですが、詳細不明のまま吾十有余に学に志し、三十にして立つ、四十にして迷わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲するままにして矩を超えずぐらいの知識でしょうか。
今回は宮城谷さんが描く孔子の一生を読んでみました。それにしても出てくる漢字が難しく、変換してもなかなか出てこないので苦労しました。
読んでみてわかったのですが、孔子が実際にどういう人生を送ったのか本当に無知でした。
それと同時に論語の言葉が結構折に触れ浮かんできて、そんなに一般教養はないのですが、孔子の考えに知らないうちに感化されていたと言うか思考の基底に組み込まれていたのを改めて感じた次第。
ところで儒家というと孔子が創立者かと思っていたら、そうではなくて「儒」とは埋葬を含めて葬儀を請け負う者たちとかで、貧しい家を支えるため孔子は儒者として働いた。勿論そこにとどまらず向学心に富む孔子は、葬礼について精究しようとして、書物を集め人に頭を下げている。その意望と知識欲に打たれ孔子のもとに礼を学ぶ弟子が集まってくる。
その頃同時に魯の下級役人に採用されて勤勉な役人となる。
因みに孔子は武人の父を持ち身長9尺6寸(2メートル16センチ)で堂々たる体躯、軽々と矛を振りかざす膂力を持っているとかですが、身長は少し盛ってあるかも、でも長身だったのは事実みたい。
役人をしつつ私塾で礼を教えていた孔子ですが、教師としては「どれほどつまらない男がわれのもとにきても、まじめな態度で問うなら、納得するまで十分に答えてやる」という姿勢を晩年まで崩していない。役人生活では老司書の好意から書写に励み学ぶことをやめない。そんな孔子に教えを乞う門弟が徐々に集うようになる。
やがて魯の内紛により国が乱れると、孔子は門人数名とともに魯の国から一時避難して周へと行く。周では老子に弟子入りし学びつつ、教場で門弟を教えて過ごすのだが、やがて魯の乱が終息とともに帰国する。帰国した孔子は、仲孫家に礼を教えるために出入りするようになり門弟は増え続け教場は活況を呈した。
しかし魯の政治の実権は陽虎が握るようになり、陽虎に邪魔者扱いされて、孔子は斉へ亡命せざるを得なくなる。斉では景公の信頼を得たのだが重臣の晏嬰からは疎まれ封土を得ることが出来ない。
魯では陽虎が内戦に敗れ斉に亡命してくるかもしれないとなり、孔子はこれを天命と思い五十にして斉を去り魯に帰る。
魯に戻った孔子は中都の宰に任じられる。ここで初めて孔子は行政の長として善政を実践することが出来るようになる。やがて中央の司法と警察の長官ともいうべき司寇に任じられる。孔子は魯を文化国家にすべく邑の城壁を取り壊す策を進める。だがそれは激しい抵抗に遭い、罷免され亡命せざるを得なくなる。
亡命先は衛。孔子自身は「我に1国の政治をまかせてくれたら、1年で可能にし、3年で成功させてみせる」と自信過剰気味だったのだが、新規の政治改革を断行するには強力な支援者がいると言うことには思いが至らない。結局衛の危機意識も競争心もない国としての実情と凡庸というより無道の霊公を見限り、衛を出て鄭、宋へさらには陳へと流浪の旅に出る。
やがて孔子一行は紆余曲折を経て命からがら魯に帰国。時に68歳となる。魯では大夫に処遇され門人たちもそれなりの要職に就くが、門弟や息子を亡くしていく。
そして孔子は73歳で没する。
孔子は、政争には敗れ行政トップとして手腕を振るうことは出来ず、魯を理想国家にすることも出来ず、長い亡命生活を送らざるをえず、ある意味挫折と失意の人生だった。権謀術策が飛び交い、力の対決が求められる時に孔子の思想は現実的ではなかったのだろう。漢の時代になり、国家秩序が安定した時に初めて儒教は国家統治の思想として入れられた。政治家としては早すぎた登場だったが、思想家としては必要とされた時代だったのか。
孔子は自分の著書というのはなく、後世の人は弟子が聞き取ったものをまとめた「論語」を通じて孔子の思想を知るのだが、そこはソクラテスと同じ。まあ、キリストも釈迦も自分の著書などはなく、弟子が効いたこと体験したことをまとめたものが残っているだけ。
宮城谷さんはあとがきで孔子の伝記は50歳、60歳では書くことが出来ず、70歳になってやっと書くことが出来た次第と書いている。
参考にしたのは白川静の「孔子伝」と書いてあったので早速借りてきましたが、文庫本と言えども300ページ余り。これはなかなか読むのに手強そうです。
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