認知症になったら大変だ、脳を活性化しなければ、閉じこもっいては駄目だ。ごもっともなんですけど、定年過ぎても悠々自適とは行かず、なかなか大変だという気持ちも残ります。
そういう時ボケは異常なことではなくて、誰でも通る道なので、できるだけ先に伸ばして上手にボケるようにしましょう、と書いてあるとほっとします。
人間、自分が死ぬ時ボケていないと怖いですよ。私たちが死ぬ時は、やっぱり「ボケ」ていたい。自分が死ぬのも知らずに、息を引き取りたいものです。自分が死んだのも知らずに死ねるということが、実は「安楽死」ではないかとも考えています。
そうだよな~となんか妙に納得しますよね。
でもそうはいっても、できるだけ先延ばしするためにボケを追いやる暮らしをといっているのですが、やっぱりお役所勤めとか学校の先生は定年後ボケやすいと書いてあります。どうも公務員がボケ易いというのは臨床では定説みたいです。
こういう仕事についている人は、自分の趣味を持ち、余裕を持ち、人を許して、友達をたくさん持つことを心がけ笑って過ごせるようにしなさいというのですが、今更なんだかな~。
この本の著者の早川先生は、もう20年以上前になりますが「わらじ医者京日記」を書いていて、その頃読んだ覚えがあります。当時認知症なんて言葉もない頃、在宅医療に従事していると高齢化の進展とともに「ボケ」の問題に直面せざるを得なくなり、地域や家族のかかわりの中で、悩みながら一緒に取り組んで行く姿に感動した記憶です。
声高にこうしなければというのではなく、自分の周りの患者さんの生き様を紹介しながら、達者に老いて行くにはどうしたらいいかを優しい言葉で書いています。
とかく人生の終盤をどう生きていくかとなると説教臭くなるのですが、ここに書いてあることは、あるがままの人間模様を受け止めてくれてフンフンとうなずきながら、心にすとんと落ちてくるのです。
それにしてもやっぱり私はボケそうな性格ですな~。
そういう時ボケは異常なことではなくて、誰でも通る道なので、できるだけ先に伸ばして上手にボケるようにしましょう、と書いてあるとほっとします。
人間、自分が死ぬ時ボケていないと怖いですよ。私たちが死ぬ時は、やっぱり「ボケ」ていたい。自分が死ぬのも知らずに、息を引き取りたいものです。自分が死んだのも知らずに死ねるということが、実は「安楽死」ではないかとも考えています。
そうだよな~となんか妙に納得しますよね。
でもそうはいっても、できるだけ先延ばしするためにボケを追いやる暮らしをといっているのですが、やっぱりお役所勤めとか学校の先生は定年後ボケやすいと書いてあります。どうも公務員がボケ易いというのは臨床では定説みたいです。
こういう仕事についている人は、自分の趣味を持ち、余裕を持ち、人を許して、友達をたくさん持つことを心がけ笑って過ごせるようにしなさいというのですが、今更なんだかな~。
この本の著者の早川先生は、もう20年以上前になりますが「わらじ医者京日記」を書いていて、その頃読んだ覚えがあります。当時認知症なんて言葉もない頃、在宅医療に従事していると高齢化の進展とともに「ボケ」の問題に直面せざるを得なくなり、地域や家族のかかわりの中で、悩みながら一緒に取り組んで行く姿に感動した記憶です。
声高にこうしなければというのではなく、自分の周りの患者さんの生き様を紹介しながら、達者に老いて行くにはどうしたらいいかを優しい言葉で書いています。
とかく人生の終盤をどう生きていくかとなると説教臭くなるのですが、ここに書いてあることは、あるがままの人間模様を受け止めてくれてフンフンとうなずきながら、心にすとんと落ちてくるのです。
それにしてもやっぱり私はボケそうな性格ですな~。