【「太子の日フォーラム」で清水昭博・帝塚山大学准教授】
聖徳太子の命日に当たる22日、奈良県斑鳩町で「太子の日フォーラム」が開かれ、帝塚山大学准教授の清水昭博氏が「法隆寺再建―若草伽藍から西院伽藍へ」の演題で講演した。清水氏は礎石などの調査から現・西院伽藍(写真㊨)のうち「五重塔の礎石は新調されたが、金堂・講堂・東室の礎石は焼失した若草伽藍のものを転用したものだろう」と述べた。
607年ごろ創建された法隆寺は670年、落雷で炎上した。日本書紀はその様子を「一屋無余(一屋余すことなく)」と記す。この記事の真偽を巡って、法隆寺再建・非再建論争が繰り広げられたが、1939年、西院伽藍の南東側で若草伽藍の跡が見つかり再建説で決着。さらに2004年にはその一角から大量の焼けた壁画片が発見されたことで、火災に遭ったという書紀の記述も裏付けられた。その後、関心事は今なお謎が多い罹災の状況や再建の実態などに移る。
西院伽藍の礎石については再建時に大和地方各地から調達したとも考えられる。だが、清水氏は材質や形状などを1つひとつ調査した結果、金堂・講堂・東室の礎石は若草伽藍のものを、それぞれの建物にリサイクルしたとみる。「火災に遭ってもかなりの石は使える状態だったとみられる。しかも近くのものを転用するのが手っ取り早い」。回廊の礎石も「再用品が入っているようだ」。
一方、五重塔の礎石は「いずれもきれいな柱座(柱を乗せるくぼみ)を持つ」うえ、若草伽藍の塔心礎そのものが別に残っているため、新調されたものに間違いないという。この塔心礎は再建・非再建論争にとっても重要だったが、一時期行方不明になっていた。県の記録で1877年に寺内で確認されていたが、その後持ち出され神戸などの豪邸で庭石になっていた。返却されたのは1939年。聖徳太子奉賛会などの働きかけで寄進され元の場所に戻された。
五重塔の完成は711年ごろといわれるが、心柱は年輪年代測定で594年と判明。その間100年以上の隔たりがある。寺で備蓄していた巨木という見方もあるが、清水氏は落雷による焼痕があることなどから「ひょっとしたら若草伽藍から移され再利用された可能性もある」と大胆に推測する。そして「太子の御心とともに『一屋無余』すべて若草伽藍から西院伽藍に伝えられたといえるのではないだろうか」と結んだ。