く~にゃん雑記帳

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<和同開珎の発行> 新都平城京の造営・和銅改元と「〝三位一体〟の政策」

2013年02月24日 | 考古・歴史

【帝塚山大学市民大学講座で松村恵司・奈文研所長】

 帝塚山大学(奈良市)の市民大学講座が23日開かれ、奈良文化財研究所の松村恵司所長が「貨幣の発行と都城の建設」と題して講演した。その中で「新城平城京の造営と和同開珎(わどうかいちん)の発行と和銅改元は三位一体の政策として行われた」と指摘、和同開珎に先行する鋳造貨幣、富本銭についても「藤原京で東西2カ所に官営の市が設置され、貨幣経済の導入が富本銭の発行に結びついた」と述べた。

 日本の最古の鋳造貨幣は長く和同開珎といわれてきた。ただ和銅元年(708年)より遡る683年「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」(日本書紀)とあり、この銅銭・銀銭が何を指すかで論争となっていた。しかし近年の発掘調査で銅銭が富本銭、銀銭が無文銀銭であることが分かった。その発見に貢献したのが飛鳥池遺跡(写真㊨、奈良県明日香村)の発掘。この遺跡は富本銭の鋳造場所とみられ、富本銭のほか裁断された無文銀銭が出土した。

    

 無文銀銭はこれまで大和や大津京(667~72年)が置かれた近江を中心に17遺跡から出土している(写真㊧は大津市の崇福寺塔跡と出土した無文銀銭)。直径3cm前後で真ん中に小さな穴を持ち、重量調整のため表面に銀片が貼られているものが多い。「わが国の産銀の始まりは天武3年(674年)の対馬産銀。そのため、それ以前に流通した無文銀銭は新羅の銀銭である可能性が高い。7世紀の新羅の貢調使の来朝記録は34回に上る」。無文銀銭は国境を越えて流通した国際貨幣だったというわけだ。

 国内初の鋳造貨幣、富本銭は「大きさ、重さ、真ん中の四角、縁取りなどから、唐の『開元通寶』を忠実にまねたもの」と指摘する。藤原京に遷都したのは694年。その9カ月前には役人たちを「鋳銭司」に任命している。藤原京は国内初の中国式都城だが、官営の市を開くなど流通経済システムも中国の都を模倣した。それが富本銭という鋳造貨幣の発行にもつながったとみる。だが、藤原京は短命で終わる。凶作や飢饉、疫病の発生、文武天皇の死などで社会不安が高まったことによる。

 そんな中、708年の正月、秩父から和銅(国産銅)が献上されたため、それを記念して元号を和銅に改元する。さらに人心一新のため710年には平城京に遷都する。その建設費用捻出のために発行されたのが和同開珎だ。この銭文は「天下和同して坤珍を開く」を意味し、和同は天地・陰陽の調和のとれた状態を指す。改元の際の天皇の詔(みことのり)の内容と極めて類似するという。改元と遷都、和同開珎が三位一体で進められたとみるのもそのためだ。

 和同開珎の「珎」はかつて「寶」の略字とみなされ、「わどうかいほう」と読まれることが多かった。中高年者が多いこの日の受講者も大半が「わどうかいほう」と習ったに挙手した。だが、考古史料の研究などで和同は元号の和銅とは無関係で、開珎の「珎」も「珍」の異体字であるという説が有力になっている。松村氏も最後に「『わどうかいほう』と読んではいけない」と釘を刺していた。

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