く~にゃん雑記帳

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<奈良大学考古学講演会> 「本音で語る! 縄文と弥生の世界」

2013年07月21日 | 考古・歴史

【4人の考古学者の講演とシンポジウム】

 奈良大学で20日、文化財学科考古学研究室などの主催による考古学講演会・シンポジウムが開かれた。タイトルは「本音で語る! 縄文と弥生の世界―有史以前の日本列島」。4人の考古学者がそれぞれの研究分野について講演、その後4人でシンポジウムを行った。多くの聴衆が会場の講堂を埋め尽くし最後まで熱心に聞き入っていた。

 

 最初に登壇した丹羽佑一氏(香川大学名誉教授)は「縄文時代の集落と社会」と題して講演した。多摩ニュータウン遺跡群(東京)を例に挙げながら「縄文時代の1つの集落の範囲は端から端までで約10キロと推測され、互いに家族構成なども知っているフェース・ツー・フェースの社会だった」「集落の中心に環状墓坑群があり、それとは別に住居のそばには連接墓坑群があった。埋葬される場所は血縁関係によって異なった」などと話した。

 泉拓良氏(奈良大名誉教授、京都大学大学院総合生存学館特定教授)は「縄文時代の暮らしとその変化」をテーマに講演した。人骨から得られる炭素・窒素の同位体分析によって「北海道縄文人の食生活は本州縄文人と少し異なり、(摂取していた)タンパク質が海産資源に偏る」ことが分かった。男女間の食生活の違いも明らかになってきたという。「男性は女性より海産物を多く食し、女性はドングリなど糖質類を多く摂っていたためか虫歯が多かった」。

 縄文文化を語るとき、よく引き合いに出されるものに東日本の〝サケ・マス文化論〟がある。サケ・マスという潤沢な食糧があったから繁栄したというわけだ。ただサケが遡上せず海から遠く離れた中部高地でも縄文文化が花開いた。泉氏はその理由について「海産資源ではないタンパク源があったからだろう。中部高地では縄文中期にいち早く大豆などマメ類の栽培が始まったと考えられる」と指摘する。ただ「最古のマメ類の現物は京都市聖護院遺跡で出土したアズキ。炭化した状態で出土した。アズキに関しては近畿地方で栽培化された可能性もある」。

 3番目に登壇した酒井龍一氏(奈良大名誉教授)の演題は「考古学徒に明日はあるか―弥生研究の場合」。酒井氏は最初に「ある」と結論を述べた。その理由として弥生時代の始まりや「最初の弥生式土器」といわれてきた遺物の製作時期への疑問などを挙げた。弥生時代といえば、紀元前3世紀に始まったというのが通説。ところが新たな水田遺構の発見などから最近では時代が遡り、紀元前10世紀という学説まで出ている。「弥生時代が一挙に2倍の1200年間に広がったわけで、弥生研究はまさに〝すき間〟だらけ」というわけだ。

 最後に元学長の水野正好氏(奈良大名誉教授、元興寺文化財研究所所長)が「縄文人の想ひ、弥生人の想ひ」と題して講演した。水野氏は縄文時代の土偶研究の第一人者でもある。素焼きの土人形・土偶は多くが東日本で出土しているが、完全な形での出土は極めてまれ。その点について水野氏は「もともと壊すことが目的。壊すことが蘇りにつながると信じられていた」などと〝故意破壊説〟を披露した。

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