【〝考古ピアニスト〟伊賀高弘さんが演奏と解説】
京都府木津川市の中央交流会館(いずみホール)で21日、木津川市文化協会主催の講演・演奏会が開かれた。テーマは「西洋音楽との束の間の出会い~ピアノで語る信長・秀吉が耳にした音楽」。地元在住の伊賀高弘さんが織田信長・豊臣秀吉が聴いたかもしれないルネサンス期の西洋音楽を、解説を交えながらピアノで演奏した。ユニークなタイトルに惹かれ出かけたが、期待以上の見事な演奏と語りで実に有意義なひとときだった。
伊賀さんは自称〝考古ピアニスト〟というように本職は埋蔵文化財の調査・研究。1959年生まれで大学では日本古代史を専攻し、卒業後は京都府埋蔵文化財調査研究センターの職員として長く関西学術研究都市などの発掘調査に当たってきた。その傍ら、ピアノを京都市芸術大学の先生に師事して学ぶなどプロ顔負けの腕前を持つ。
伊賀さんはまず安土桃山時代の内外情勢の説明から始めた。大航海時代、宗教改革、日本へのキリスト教伝来……。その後、大友宗麟ら九州のキリシタン大名がローマに派遣した「天正遣欧少年使節」の足跡をたどる形でルネサンス期の音楽を紹介した。使節団は1582年に長崎を立ちリスボン、ピサ、フレンツェなどを経て85年ローマで教皇に謁見。その後、ヴェネチアやミラノ、リスボンを経由して90年に帰国した。少年たちは翌91年、京都・聚楽第で秀吉を前に西洋音楽を演奏したといわれる。
最初にピアノで弾いたのはスペインの作曲家・オルガニスト、アントニオ・デ・カベゾン(1510~66)の声楽曲。次いでローマ教皇庁の専属楽士だったパレストリーナ(1525~94)のミサ曲2曲をピアノと電子鍵盤のパイプオルガン音源で紹介した。彼のポリフォニー(多声音楽)は〝パレストリーナ様式〟として後の作曲家に多大な影響を与えたといわれる。「ポリフォニーは複数の旋律が積み重なって和声が作られる。その前の音楽は単旋律のモノフォニー、後のモーツァルトやベートーベンの音楽はホモフォニーといわれ主旋律に伴奏が付く」。
次に紹介したのはイタリアの作曲家アンドレーア・ガブリエーリ(1510~86)。サンマルコ大聖堂(ヴェネチア)のオルガニストで〝ヴェネチア楽派〟の創始者といわれる。ガブリエーリが作った曲は「信長・秀吉が聴いたかもしれない西洋音楽の最有力候補」という。少年使節の謁見のための音楽を作曲したという記録が残されているそうだ。その曲は不明だが、伊賀さんは「フランス風カンツォン」という舞曲をピアノで弾いた。
次いで、フランス国王ルイ11世のときルーブル宮殿の宮廷楽士として活躍したジョスカン・デ・プレ(1440~1521)。ガブリエーリよりかなり時代は遡るが、「少年たちが聚楽第で御前演奏したのはジョスカン・デ・プレの曲といわれている」。伊賀さんが演奏したのは「ミサ・パンジェ・リングァ―アグヌス・デイ」という曲。「テレビで秀吉の場面にグレゴリオ聖歌のような単旋律が流されることがあるが、秀吉が耳にした音楽はもっと複雑なポリフォニー音楽だったのではないだろうか」。伊賀さんはテレビの時代考証に疑問を投げかけた。
安土時代前半まで寛容だったキリスト教政策はその後、江戸初期にかけて禁教令やバテレン追放令が相次ぎ弾圧へ一転した。そして1616年には鎖国令。「弾圧政策は植民地化を恐れたことによるもの。だが、西洋音楽がバッハの登場などで一番〝進化〟した時代に、鎖国によって日本が立ち会えなかったのは不運というしかない」。伊賀さんはクープラン(1668~1733)など2人の曲に次いで、最後をバッハ「フーガの技法」のピアノ演奏で締めくくった。