く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<京都府立植物園の温室㊥> 「トーチジンジャー」と「ヘリコニア・ロストラタ」

2013年07月16日 | 花の四季

【トーチのように燃え盛る緋色の花】

 トーチジンジャーはインドネシアやマレーシアなど東南アジアに自生するショウガ科の常緑樹。葉っぱはショウガの葉を巨大化したような細長い形で、株元から直立する花茎の先端に鮮やかな緋色の花を付ける。真ん丸く直径は15cmほどもある。その花姿が燃え盛るトーチ(たいまつ)のように見えることからトーチジンジャーの名が付いた。赤のほかピンクや白花もある。

 和名は「カンタン」。この花をマレー語では「ブンガ・カンタン」と呼ぶ。「ブンガ」は花、「カンタン」はショウガを指す。和名はそこから来たらしい。トーチジンジャーの花はマレーシアやシンガポールの麺料理「アッサムラクサ」に欠かせない。つぼみを刻んで香味料として加える。ミョウガに似た風味と歯ごたえという。つぼみはカレーやサラダにも使われ、果実は果物に、種子は香辛料になる。

 【まるでオウムのくちばし、英名は〝エビのはさみ〟】

 ヘリコニア・ロストラタはオウムバナ科の1種。黄色く縁取られた赤い花がまるでオウムのくちばしのようにも見え、それが連なって下に垂れる。英名は「ハンギング・ロブスター・クロウ」。大きなエビのはさみというわけだ。花に見えるのはガクが変化した苞(ほう)で、本来の花は苞の中にある。バナナの近縁種で葉はバナナのように大きい。

 ヘリコニア属は中南米や南太平洋諸島におよそ100種が分布するという。ヘリコニアの名はギリシャ神話でミューズ(女神)が住むヘリコン山にちなむ。花の独特な形と目立つ色彩は受粉を媒介してくれるハチドリを引き付けるためといわれる。同じ仲間にロストラタと同じように花が下垂するマリアエやペンデュラなど。花が上に立ち上がるプシッタコルム、カリバエアといった品種もある。最近は国内でもエキゾチックな花姿が人気を呼んで、切り花として栽培され鉢物用の小型品種も出回っている。

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<京都府立植物園の温室㊤> 「ホウガンノキ」と食用果実「レンブ」

2013年07月15日 | 花の四季

【見た目も砲丸投げの砲丸にそっくり!】

 ホウガンノキ(砲丸の木)は南米熱帯地域原産のサガリバナ科の高木。幹から直接伸びる花茎に直径10cmほどの赤い花を付ける。その花の中央に2種類のオシベがあるのが特徴。1つは虫をおびき寄せるための見かけだけの長いオシベで花粉は出ない。もう1つは花粉が出る短いオシベ。温室などでの栽培下では結実しないため、毎年、職員が地道に人工授粉をしているそうだ。国内で花も実も見ることができる植物園は沖縄以外ではここだけという。

 植物園ではすでに花期は終わり、果実が実っていた。直径15~20cmほどで硬くて重そうな茶褐色。太い幹から直接真ん丸い大きな実がぶら下がっている光景にしばし目が釘付けに。まさに「砲丸の木」で、英語でも「Cannon ball tree(キャノン・ボール・ツリー)」。4年前、皇后美智子さまがご視察された際には自ら果実を手に取って持たれたそうだ。

【「ワックス・アップル」レンブ、実と花が同時に!】

 レンブ(蓮霧)はマレー諸島原産の食用果実で、台湾やフィリピン、マレーシア、インドなど熱帯~亜熱帯地域で広く栽培されている。沖縄でも「デンブー」と呼ばれハウス栽培されているという。花は白く、無数の長いオシベが放射状に突き出しているのが特徴。同じフトモモ科の仲間にグアバやフェイジョアなどがある。

 植物園を訪ねたときには多くの実を付け、まだ花も咲いていた。実は英名の「Wax apple(ワックス・アップル)」通り、小さなリンゴまたは洋ナシに似た形。表面にはワックスを塗ったような光沢があった。皮をむかないで、そのまま生食する。中身は海綿状になっており、サクサクとした口当たりで味は淡白という。

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<詩人・和合亮一講演会> 「福島に生きる 福島を生きる」

2013年07月14日 | メモ

【奈良女子大学で公開講座、詩の朗読も交えながら】

 東日本大震災直後から「福島」について発信し続ける福島市在住の詩人、和合亮一さんの講演会「福島に生きる 福島を生きる」が13日、奈良女子大学記念館で開かれた。震災6日目から始めたツイッターへの投稿が全国的に大きな反響を呼んだ。「放射能が降っています。静かな夜です」「福島を生きる 福島に生きる 福島で生きる」――。和合さんは詩の朗読を交えながら、地震と津波と原発事故の3重苦に見舞われた故郷への思いを熱く語った。

 

 和合さんは1968年福島市生まれ。高校の教員として国語を教える傍ら、詩人としても活躍してきた。「AFTER」で中原中也賞、「地球頭脳詩篇」で晩翠賞を受賞している。震災以降の著作にツイッター投稿作をまとめた「詩の礫(つぶて)」や「詩ノ黙礼」「ふるさとをあきらめない フクシマ、25人の証言」などがある。

 震災発生時、和合さんは勤め先の県立保原高校(伊達市)で入試合否判定会議の最中だった。気がかりなのは足の悪い父と母のこと。実家に駆けつけ2人の無事な姿を見て「42歳の大人が大泣きしてしまった」。原発の水素爆発には「ああ、これで福島は終わりか」と思った。震災6日目、妻と息子を山形に避難させた。「1人になって初めて孤独の本質を感じた」。幸い電気はついた。パソコンを立ち上げツイッターにその時の状況と思いを投稿した。

 「私は作品を修羅のように書きたいと思います」「放射能が降っています。静かな静かな夜です」「あなたにとって故郷とは、どのようなものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです」「父と母に避難を申し出ましたが、両親は故郷を離れたくないと言いました。おまえたちだけで行け、と。私は両親を選びます」「腹が立つ。ものすごく腹が立つ」。そして最後に「明けない夜は無い」と打ち込んだ。

 その日から毎晩パソコンに向かい、最後は「明けない夜は無い」と締めくくった。「怒りと絶望と悲しみしかなかったが、最後には無意識にこう打っていた。思い返すと、光を探すための〝祈り〟だったのかもしれない。言葉を書くということはアグレッシブな行為で、気持ちも積極的になる。言葉は光を与えてくれるために存在するということをはっきりと感じた」。

 朗読した2つ目の詩は「高台へ」。南三陸町の防災無線で避難を呼び掛け続けた遠藤未希さんと、その記録映像を見て涙する母親の姿を詩にした。「<高台へ避難して下さい> 美しい凛とした声は、何百人もの命を救った…凛とした声明かりがもっと欲しい。もっと心の高台へと、誘ってほしい。黙礼」。和合さんは時に静かに、時に激しく詩を読んだ。会場のあちこちからかすかに鼻をすすり上げるような音が聞こえた。

 和合さんは郡山市の避難所で会った60代後半の女性の言葉が忘れられない。「言葉には橋がある。これを〝言の橋〟という。いい橋を架ければ、向こう側から歩いて来てくれる」。その女性は経営していた美容院で思い浮かんだ言葉をお客さんに〝プレゼント〟していたという。和合さんは「言葉は美しく、品があって、優しく、研ぎ澄まされたものでなくてはならない。癒す母親のような言葉、時には叱ってくれる父親のような言葉。私は福島から言葉の橋を架けたい。そして同じ歩幅で橋を渡っていきたい」と話す。

 最後に朗読したのは「決意」という詩だった。「福島を生きる 福島を愛する 福島をあきらめない 福島を信じる 福島を歩く/福島の名を呼ぶ 福島を誇りに思う 福島を子どもたちに手渡す 福島を抱きしめる/福島と共に涙を流す 福島に泣く 福島が泣く 福島と泣く 福島で泣く…福島を守る 福島を取り戻す 福島を手の中に 福島を生きる/福島に生きる 福島を生きる 福島で生きる…」。

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<BOOK> 「一冊の本をあなたに 3.11絵本プロジェクトいわての物語」

2013年07月13日 | BOOK

【歌代幸子著、末盛千枝子編集、現代企画室発行】

 東日本大震災で被災した子どもたちに寄り添って絵本で励ましたい――。「3.11絵本プロジェクトいわて」はそんな思いから震災直後、岩手県盛岡市でスタートした。「絵本を送って」という呼びかけは瞬く間に全国に広がり、多くの絵本が続々と届いた。それを子どもたちに届けるため、6台の「えほんカー」がいまも東北各地を走り回る。本書はノンフィクションライター歌代氏が2年余の絵本プロジェクトの活動と共感の輪の軌跡を、丹念な取材の積み重ねで追った感動の物語である。

   

 絵本プロジェクトの呼び掛け人は絵本編集者の末盛千枝子。長年、東京で出版社「すえもりブックス」を経営し、詩人まど・みちおの詩から皇后美智子さまが20篇を選んで英訳された『どうぶつたち(THE ANIMALS)』(絵・安野光雅)の編集を手掛けたことでも知られる。震災前年の2010年5月、東京から岩手県八幡平市に移住していた。彫刻家だった父・舟越保武(「長崎二六殉教者記念像」の製作者)がアトリエとして使っていた別荘を住まいとした。(名前の「千枝子」は高村光太郎が「智恵子」をもじって名付けたという)

 末盛には講演集『人生に大切なことはすべて絵本から教わった』という著書もある。震災直後、脳裏に浮かんだのは「子どもたちを励ますのに一番効果的なことは膝に乗せて本を読んでやること」ということだった。震災2週間後の3月24日、末盛は盛岡市中央公民館の館長ら3人と絵本プロジェクトを立ち上げ、メールなどで関係者への呼び掛けを始めた。

 それをマスコミではいち早く日本経済新聞が28日付の夕刊で報じた。その反響は大きく、2日後には「200以上のダンボール箱が届き、たちまち7000冊を超えた」。執筆したのは取材を通じて末盛と20年来の付き合いがあったベテラン記者だった。その記者は支局勤務時代の中越地震の経験から、怖がる子どもたちの心のケアには絵本の読み聞かせが効果的なことを知っていた。

 全国から届いた絵本はその年の9月末までに23万冊に上った。それを年齢別などに仕分けし、移動図書館車えほんカーに乗せて保育所や小学校などに届ける。絵本が着くと子どもたちは歓声を上げ「本当にもらっていいの?」と目をキラキラ輝かせた。「子どもたちが欲しがるのは、読んだことのない新しい本よりも、むしろ前に持っていたという本が大半だった」。ある保育所では男の子が「ぼく、大好きだったんだ」と『ぐりとぐら』を抱きしめた。

 今年1月末までに届けた施設と絵本は275カ所、10万240冊に達した。そのために延べ4600人を超えるボランティアが地道な作業に携わってきた。子どもたちの喜ぶ姿がボランティアのメンバーにとっても大きな励みになった。絵本を送ってくれた人たちには、震災後「何かできることはないだろうか」と自問していた人が多かった。それを絵本が橋渡ししてくれた。「顔は見えずとも、確かにつながれている人との縁の不思議さを、末盛は感じていた」。

 2012年8月、末盛はロンドンで開かれたIBBY(国際児童図書評議会、参加74カ国)の世界大会で絵本プロジェクトの取り組みを報告した。スピーチに続いて1輪の花を胸に歌い継ぐ『花は咲く』の映像と曲が流れる。「人生の総決算」というつもりで臨んだという末盛のスピーチの反響は大きかった。12月にはIBBYの会長たちが来日して活動を視察した。

 末盛の元には皇后さまから折に触れて絵本が届けられてきた。『龍の子太郎』『三月ひなのつき』『おおきなかぶ』『わたしとあそんで』……。「ともすれば震災の記憶が遠くなりかけていくなかで、もうちょっと頑張って続けるようにという激励のエールなのではと思ったのです。『ずっと見守っています』というメッセージが込められているようでした」。

 皇后さまから贈られた絵本14冊は盛岡市中央公民館の「絵本サロン」に並べられ、誰でも手に取って読むことができるという。サロンは「絵本の好きな人がほっとできる場所」として震災1年後にスタートした。昨年9月からは「出張絵本サロン」にも取り組んでいる。今年3月には同じ公民館で皇后さまからお借りした絵本の原画展も開かれた。

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<ヒマワリ(向日葵)> 真夏の青空に映える黄色の大輪

2013年07月12日 | 花の四季

【アメリカ原産、ロシア・ペルーの国花】

 キク科の中で最長の背丈と最大の花径を誇る、夏を代表する草花。一重咲きの大型種「ロシア」は高さが2~3mにもなり、直径25~30cmの大輪をつける。原産地は米国中西部で、アメリカ先住民は紀元前3000年頃から栽培していたという。日本には17世紀頃に中国を経由して渡ってきた。

 ヒマワリは花が太陽の動きに合わせて方向を変えるとして「向日葵」の漢字が当てられている。日光を好むのは間違いなく、ヒグルマ(日車)、ニチリンソウ(日輪草)の別名も持つ。英名も「サンフラワー」。ただ花が太陽に向かって回るということはほとんどなく、終日ほぼ同じ方向を向いたまま。花の種類は大別すると食用と観賞用、一重と八重、高性種と矮性種がある。花色は黄色~オレンジ色が主体だが、他に茶褐色や赤紫、乳白色なども。

 ロシアと南米ペルーの国花。ロシアは世界最大の食用ヒマワリの生産国で、中部から南部にかけて広大なヒマワリ畑が広がる。戦争によって引き裂かれた夫婦の悲哀を描いた映画「ひまわり」でもその光景が印象的だった(ただし撮影地はスペインとか)。ペルーの国花になっているのは古代インカ帝国でヒマワリが太陽神のシンボルとされてきたことによる。

 

 明るく力強いイメージから市や町の花に指定している自治体は実に多い。神奈川県座間市、千葉県船橋市、愛知県豊田市、京都府向日市、兵庫県小野市、徳島県阿南市、福岡県北九州市、宮崎県日向市……。ヒマワリ祭りもこれからが本番。「町の花」になっている兵庫県佐用町では24回目の「南光ひまわり祭り」が13~28日に開かれる。町内6地区の22ヘクタールに120万本のヒマワリが咲き乱れる。広島県三次市の「川とひまわりまつり」は20~21日。5会場合わせて100万本といわれる。

 

 座間市の「ひまわりまつり」は栗原地区が25~30日、座間地区が8月21~26日。首都圏随一といわれ、55万本のヒマワリが一面を黄色に染める。宮城県大崎市の「ひまわりまつり」は8月1~18日で、ひまわりの丘6ヘクタールに約42万本。静岡県袋井市では毎年8月、麦の刈り取り後に種を蒔くため、秋に「源氏の里ひまわり祭り」を開く。100万本以上といわれ、今年は10月26~27日に予定している。「向日葵の眼は洞然と西方に」(川端茅舎)、「われ蜂となり向日葵の中にゐる」(野見山朱鳥)。

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<伊勢神宮> 「遷宮の形は時代によって変化」(斎宮歴史博物館の榎村氏)

2013年07月11日 | メモ

【室町後期には120年余中断、信長・秀吉の後援などで復興!】

 20年に1度の伊勢神宮式年遷宮。10月初めには最も重要な「遷御の儀」(内宮2日、外宮5日)が行われる。第1回は持統天皇の時代の7世紀後半といわれ、今年で62回目。だが、この間、室町時代後期の長い中断もあった。大阪市内のホテルで10日行われた三重県観光情報提供会で「伊勢神宮の遷宮と斎王」と題し講演した榎村寛之氏(写真)は「遷宮の形は時代によって変化してきた」などと話した。

  

 榎村氏は三重県明和町にある「斎宮歴史博物館」の学芸普及課長を務める。斎宮は伊勢神宮に仕えた未婚の皇族女性「斎王」の住まい。東西2キロ、南北0.7キロの規模を誇り、斎宮跡は国の史跡になっている。「斎宮は7世紀後半に整備が始まり、780年頃に完成した」。県は建物3棟を原寸大で復元するなど歴史公園としての整備を計画している。

 「斎王は天皇1代に1人が原則で、天皇の譲位や崩御、斎王の親の不幸などで交代した。確認できる斎王は約660年間に60人余り」という。斎王は遷宮の儀式にも天皇の代理として出席した。旧殿に最後の拝礼を行う役目を担っていたという。「遷宮祭への斎王の参加は朝廷による遷宮重視の表れ」。だが、斎宮の制度は南北朝時代の14世紀前半に廃止された。

 遷宮自体も南北朝時代になると20年に1度という定例が守られなくなった。外宮の定期遷宮は1434年を最後に、内宮は1462年を最後に長い中断期に入った。その後、16世紀に入って内宮そばにあった尼寺・慶光院(明治の神仏分離で廃絶)の勧進活動や後奈良天皇の後援で1563年、外宮の遷宮が129年ぶりに行われ、さらに1585年には織田信長・豊臣秀吉の後援によって内宮遷宮が123年ぶりに行われた。神領民が参加する「御木曳」などの行事も中世以降に始まった。

 伊勢神宮は〝外宮先祭〟が原則だが、遷宮だけは室町時代に中断するまで内宮が外宮より2年早く行われていた。しかし、遷宮の再開はまず外宮から始まった。なぜか。榎村氏は「中世には外宮が(高天原に最初に出現した)天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)だと考える〝伊勢神道〟が一般的だったからではないか」と指摘する。外宮は内宮より同等以上の存在であるという考えに基づくというわけだ。

 今年は出雲大社でも60年ぶりに本殿の屋根を葺き替える「平成の大遷宮」が完了し、5月に「本殿遷座祭」が行われた。ただ伊勢神宮のように建物自体を定期的に造り替える神社は他にない。しかし「平安時代には定期造替する神社は伊勢神宮だけではなかった」。延喜式には「凡そ諸国神社は破るるに随いて修理せよ。但し摂津国住吉、下総国香取、常陸国鹿島等神社の正殿は、廿年(20年)に一度改造せよ」と記されていた。ちなみに「式年遷宮」という表現が文献に初めて登場したのは南北朝時代の康安元年(1361年)という。

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<京都園芸倶楽部> 公開講演会「シルクロードの薬草と文化」

2013年07月10日 | メモ

【本多義昭氏「シルクロードを代表する薬草はカンゾウ(甘草)」】

 財団法人京都園芸倶楽部の公開講演会が9日、京都府立植物園(京都市)内の植物園会館で開かれ、姫路獨協大学学長の本多義昭氏が「シルクロードの薬草と文化」をテーマに講演した。本多氏は洋の東西を結んだシルクロードを代表する薬草として、広く分布し多様な薬効を持つマメ科の多年草「カンゾウ(甘草)」を挙げた。

  

 本多氏は京都大学薬学研究科の元教授で、専門は有用薬物学や民族薬物学。長年、中近東や中央アジアなどの伝統医学や民間薬について調査・研究してきた。「薬物は命を養う貴重なものとして、古くからシルクロードを通じ盛んに交流されてきた」。奈良・正倉院には宝物と共に多くの薬物が収められ、吉田兼好は「唐のものは薬の外はみななくとも事欠くまじ」(徒然草120段)とまで記した。

 中東を中心に中世に広がった伝統医学を〝アラビア医学〟という。ギリシャ、ローマの古代医学に中国、インドから伝わった医学の知識も加えて発展させた。アラビア医学を代表するアル・キャンディの「処方集」には9世紀に医師が使っていた薬物319種と222の処方が記載されている。現ウズベキスタンは著名なアラビア医学者を輩出した地域だが、「その伝統医学は旧ソ連によって押しつぶされた」という。往時のアラビア医学が残っているのは「パキスタンと中国西部の新疆ウイグル自治区の2カ所だけ。アラブの世界には薬は残っていても(専門の)医者がいない」。

 本多氏はトルコでの現地調査をもとに、薬草のオノスマと漢方の紫雲膏の材料となるムラサキ(紫根)を例に挙げながら「遠く東西離れた所で、同じような塗り薬ができていたことに驚いた」という。また薬草の呼称の違いから「民間薬は土着のものだけではなく、その知識は人の移動とともに移っていく」ことも痛感させられたそうだ。

 シルクロード沿いに広く分布する特徴的な薬草としてオオバコ、イラクサ、カンゾウ、ハッカ、マオウの5つの植物群を挙げた。その中でも本多氏が代表格というのがカンゾウ。理由として①かめば甘く、見分けが容易②多く自生する身近な存在で、素人でも使える③薬効が幅広い――などを挙げた。

 カンゾウは古代ギリシャの医学者ディオスコリデスが「薬物誌」の中で多くの薬効に触れ、中国では「甘草」という名のいわれにつながる民話でも有名という。地元民や放牧民だけでなく、シルクロードの旅人の中にもお世話になった人が多かったのだろうか。カンゾウは今でも漢方薬には欠かせない原料。日本国内で流通している漢方薬のおよそ7割に配合されているそうだ。

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<アンビリバボー> えっ、本当? 朝定食A「20円」、カレー「100円」

2013年07月09日 | アンビリバボー

【某大学の学生食堂、ただし「学生限定」の割引】

 学生食堂に入ろうとして、入り口の「朝食100円引きセール」の看板に目が釘付けになった。「朝定食A」がたったの20円、「朝カレー」も100円――。ただし「本学学生さん限定!」とあった。レジ係の女性によると2年前の春からこの価格で提供しているという。「朝食を抜かないでしっかり食べてほしい」――この割引にはそんな大学側の〝親心〟が込められているようだ。

 

 この大学では学食の運営を給食事業者に委託し、事業者側は収益を上げる狙いもあって大学関係者以外にも開放している。私もこれまで何度か利用させてもらっていた。が、看板は見過ごしていた。気づいていても割引の対象外だが……。看板の下側にも「学生証のご提示をお願いします」とあった。

 朝定食Aは「ご飯とみそ汁、味付け海苔又はふりかけ」。極めてシンプルな内容だが、それにしても20円とはほとんどタダ当然。おかずが1品付いた定食Bは180円が80円に、おかず2品の定食Cは250円が150円に。カレーライスは200円が100円という。200円でも割安だが、それが100円とは! その差額は大学側が補助しているらしく、毎日20人程度が利用しているそうだ。

 朝食を抜く若者の〝欠食〟が問題になっている。内閣府のネット調査(2009年)では、朝食を「ほとんど食べない」または「週4~5日食べない」大学生が19.4%とほぼ5人に1人に上った。その割合は女子より男子学生のほうが高く、自宅通学より下宿・アパート住まいの学生が高かった。また学年が上がるにつれて割合が高くなった。

 欠食理由のトップは「もっと寝ていたいから」。次いで「身支度などの準備で忙しい」「食べるのが面倒」「朝食の時間がもったいない」「食欲がない」などだった。欠食は栄養バランスの乱れ、疲労感の蓄積、記憶力や学業成績の低下などにつながるともいわれる。国も食育推進基本計画の中で「欠食する国民の割合の減少」を目標の1つに掲げている。

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<相撲神社> 初の天覧相撲で当麻蹴速に勝った野見宿禰の顕彰碑を建立

2013年07月08日 | スポーツ

【八角親方ら出席し〝勝利之聖〟碑の除幕式】

 相撲発祥の地と伝わる奈良県桜井市穴師の相撲神社で7日、相撲の始祖・野見宿禰(のみのすくね)を顕彰する石碑「勝利之聖(ひじり)」の除幕式があった。日本書紀には2000年前の垂仁7年7月7日、この地で初めて天覧相撲が行われたとの記述がある。宿禰はその時、対戦相手の当麻蹴速(たいまのけはや)を破ったと伝わる。除幕式には日本相撲協会の八角信芳理事広報部長(第61代横綱北勝海)ら多くの関係者が出席した。

 

 相撲神社は大兵主神社の摂社で、大和の古代道路・山辺の道の近くにある。1962年には当時の時津風理事長(双葉山)をはじめ全幕内力士が参拝し、大鵬、柏戸の両横綱が土俵入りを披露した。それから50年になることから、市民有志でつくる「建立会」が中心になって記念碑の設置準備に取り組んでいた。

 

 石碑は台座も含め高さ2.5mで、日本画家・故長谷川路可(1897~1967)が描いた宿禰の躍動的な勇姿が刻まれている。東京五輪の主会場だった国立競技場に勝利のモニュメントとして掲げられている壁画と同じ図柄で、遺族の了解を得て使わせてもらったという。同時に地元ライオンズクラブ寄贈の「力士像」の除幕も行われた。

 八角親方らによる「勝利之聖」碑の除幕に先駆け、「相撲の聖地として長く語り伝えていきたい」という北の湖理事長の祭文が読み上げられた。八角親方も「相撲発祥の地として感慨深い」と祝辞を述べた。長谷川画伯の遺族、風巻義孝さんは図柄について「宿禰の左の手のひらが上を向いているところに、敗者への優しさが込められている」と解説していた。

 

 この後、記念の行事に移り、この日のために4月発足したばかりという「大和すくね相撲甚句会」による相撲甚句の披露、「卑弥呼太鼓」による和太鼓の演奏があった。この日はちょうど大相撲名古屋場所の初日。しかも蝉しぐれの猛暑。そんな中、背広姿の八角親方が途中で中座することなく、2時間余の記念式典を最後まで見守っていた姿が印象的だった。散会後、市民には地元特産の冷たい三輪そうめんが振る舞われた。

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<大和高田市> 「義経・与一・弁慶・静 合同サミット」を開催

2013年07月07日 | メモ

【ゆかりの全国8市町が結集、観光振興策を探る!】

 「義経・与一・弁慶・静 合同サミット」が6日、奈良県大和高田市のさざんかホールで開かれた。今回が8回目で、源義経、那須与一、武蔵坊弁慶、静御前にゆかりのある自治体が一堂に会して、地域が誇る歴史文化遺産を生かした観光のあり方を探るのが狙い。記念の講演・公演に続いて「伝統に由来する芸能と観光」をテーマに、全国8市町の代表者らによるサミット会議が行われた。

 大和高田市は静御前の母・磯禅師の生誕地といわれ、サミットには昨年初めてオブザーバーとして参加した。この他の参加市町は義経最期の地・岩手県平泉町、「勧進帳」の舞台・安宅の関がある石川県小松市、弁慶出生地といわれる和歌山県田辺市、能「船弁慶」ゆかりの兵庫県尼崎市、源平合戦の地・屋島があり那須与一ゆかりの香川県高松市、屋島の合戦に向け義経が軍船を集めた徳島県小松島市、義経が弁慶、静御前と共に逃れた奈良県吉野町。

 まず国学院大学講師・近藤好和さんが「義経・静の史実と伝承」と題して講演した。最初に古文書や吾妻鏡、義経記、平家物語などを基に義経の生涯を追ったが、「義経記などは信用できず、31年のうち確実な史料で裏付けられるのは5年分程度」とし、ジンギスカン説など多くの伝説が生まれたのもそのためという。静御前についても「鎌倉で頼朝や政子の前で舞ったのは史実だが、あとは伝承ばかり」。さらに「義経の正室・河越重頼女は義経が苦難の時にそばにいて、共に自害しており、義経にとって静御前より重要な女性だったのではないか」と指摘した。

   

 この後、記念公演として日本舞踊家で白拍子の伝承者・村山左近さんの舞、川村旭芳さんの琵琶などで「白拍子静の舞」、上原まりさんの琵琶の弾き語り「那須与一」(写真㊨)、花柳寿楽・楽彩さんによる「長唄橋弁慶」(写真㊧)があった。花柳寿楽さんは2009年に人間国宝だった祖父の名跡を継ぎ3代目を襲名した。この日は寿楽さんが弁慶役、楽彩さんが牛若丸役を勤めた。

 サミット会議ではまず参加各市町から地域おこしの取り組み状況が報告された。「源義経公東下り行列」の開催(平泉町)、「弁慶まつり」「田辺・弁慶映画祭」(田辺市)、「現代源平屋島合戦絵巻」(高松市)、「義経ドリームロード」(約10キロ)の整備(小松島市)……。小松市や尼崎市などからは小・中学生による「勧進帳」や能楽教室の開催など、子どもたちに伝統文化への関心と理解を深めてもらうための取り組みについても報告があった。

 国学院大の近藤さんは「弁慶と静御前は義経あってこその伝承。那須与一は後に伝承を持ち出して幕府にアピールすることで那須家の再興につながった」「伝承を大事にするということは人々の思いを大切にするということ」と指摘。宝塚時代に静御前役を演じたことがあるという上原まりさんは「当時の男性社会の中で女性はしなやかで、かつしたたかでもあったと思う」と話した。

 花柳寿楽さんはできるだけ題材の舞台になっている現場(例えば壇ノ浦など)に行って、そこで感じた実体験を基に演じることを心がけているという。また「文化・芸術は発信し続けないと届かない。ただ個の力では単発に終わってしまう。点から線、そして面へ広げていくことが大切で、サミットの開催もそこに意味があるのではないか」とも話していた。次回のサミットは来年、尼崎市で開く。

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<国立国際美術館> 「美の響演 関西コレクションズ」

2013年07月06日 | 美術

【関西の6つの美術館が欧米の代表作約80点を出展】

 大阪・中之島の国立国際美術館で「美の響演 関西コレクションズ」(15日まで)が開かれている。関西にある国公立美術館6館が欧米絵画や彫刻の代表作を持ち寄って一堂に展示するというユニークな試み。セザンヌやマティス、ピカソ、ロダンからマーク・ロスコ、ウォーホルまで、主に20世紀以降の美術作品約80点が出品されている。

  

  出展しているのは国立国際美術館のほか京都国立近代美術館、滋賀県立近代美術館、兵庫県立美術館、和歌山県立近代美術館、そして大阪市立近代美術館建設準備室。会場は「20世紀美術の幕開け」から、「彫刻の変貌とオブジェの誕生」「ヨーロッパの戦後美術」「戦後アメリカ美術の展開」を経て「多様化する現代美術」まで5つの区画で構成されている。

 出品作の中で最も制作年の古いセザンヌの「宴の準備」(1890年頃、上の写真㊧)はピラミッド型の珍しい構図。「自然の全てのものは球・円筒・円錐に基づいて肉付けされている」という言葉は、後のピカソらキュビスムの幾何学的抽象絵画に大きな影響を与えた。

 ピカソの「道化役者と子供」(1905年、上の写真㊨)は、親友の自殺に伴う暗く沈んだ「青の時代」(1901~04年)が終わり「バラ色の時代」(05~07年)に入った頃のピカソ初期の作品。「バラ色の時代」は道化師や芸人を多く描いたことから「サーカスの時代」とも呼ばれる。ただ、この絵はまだ青が基調で、道化師と子供の視線も別々の方向を向いて、どこか物悲しさが漂う。

   

 マティスは強烈な色彩から「フォービスム(野獣派)」のリーダーといわれた。だが、本人はこう呼ばれるのを好まなかったといわれ、後半生の作品もむしろ静かな落ち着いたものが多い。「鏡の前の青いドレス」(1937年、上の写真㊧)も青いドレスが画面の大半を占める大胆な構図だが、どちらかと言えば静的な印象を与える。ドレスの女性はモデルや秘書役として晩年のマティスを献身的に支えたロシア人のリディア・デレクトルスカヤといわれる。

 2度の世界大戦を経て無力感に包まれたヨーロッパでは戦後、パリで「アンフォルメ(非定形の芸術)」運動が起きた。中心となった画家はジャン・フォートリエ、ジャン・デュビュッフェ、ヴォルスらで、戦前の幾何学的な「冷たい抽象」に対し「熱い抽象」を標榜した。デュビュッフェの「愉快な夜」(1949年、上の写真㊨)は2人の子供が微笑みながら万歳をしているような構図。長く続いた戦渦から開放された安堵感を表しているのだろうか。

 近代彫刻の開拓者ロダンの「オルフェウス」(1892年)やマイヨールのブロンズ像「コウベのディナ」(1943年)、「シュールリアリズム(超現実主義)」の代表画家マックス・エルンストの「灰色の森」(1927年)、カンディンスキーの「絵の中の絵」(1929年)、米ポップアートの旗手ウォーホルの作品群なども出品されている。マイヨールの「コウベのディナ」は兵庫県立美術館所蔵。ギリシャのアルカイック彫刻のような素朴な像形で、作品名はモデルのディナ夫人が名付け親という。

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<アンビリバボー> 水辺に膝こぶのようなものがニョキニョキと林立!

2013年07月05日 | アンビリバボー

【大阪市大理学部付属植物園、ラクウショウ(沼杉)の〝気根〟だった】

 大阪府交野市私市にある「大阪市立大学理学部付属植物園」の園内を歩いていると、池の周りに膝こぶのようなものが林立していた。初めて目にする異様な光景。数えてみると、およそ100本もあった。この得体の知れないものの正体は? 説明書きなどで「ラクウショウ(落羽松)」というスギ科の針葉樹の気根(呼吸根)と分かった。

 

 ラクウショウは北米原産で、沼地や水辺を好むことから和名では「ヌマスギ(沼杉)」とも呼ばれる。「生きた化石」といわれるメタセコイアの近縁で、恐竜時代の地層からしばしば化石が出土するという。この気根のそばには直径が1mほど、高さが20m前後とみられるラクウショウの大木が5本生えていた。「落羽松」の名は秋に葉を付けたまま側枝ごと落ちる形が鳥の羽根に似ていることによる。

  

 気根の役目は根に酸素を送ること。湿地では根による呼吸が難しいため、水面や地上に気根を伸ばす。先端が膝こぶのように円錐状になっていることから「膝根(しっこん)」とも呼ばれる。ただ、ラクウショウは湿地のほか普通の土壌でも育ち、土壌の通気性さえ良ければ気根は出てこないそうだ。

   

 気根は高さが10cm~60cmとさまざま。その形も1本ずつ違っていた。石仏のような形、人やウサギの顔に似た形、人の手のような形……。見ていて飽きない。気根を発達させることでその土地・土地に順応し、人類誕生前から今日まで生き抜いてきたラクウショウの生命力にはただ感服するしかない。

 大阪の植物園で目にした直後、奈良の馬見丘陵公園の池のそばでも同じような気根を偶然に見つけた。植物園ほどの大木ではないが、ラクウショウに間違いない。小枝の先に直径2cmほどの球形の緑色の実を付けていた。これまでラクウショウの存在に気づかなかったのは単なる無知と無関心からだったのかもしれない。

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<ジミー・ツトム・ミリキタニ> 日系人強制収容を体験した反骨のホームレス画家

2013年07月04日 | 美術

【立命館大学国際平和ミュージアムで回顧展開催中】

 波乱の人生が米国映画にもなった反骨のホームレス画家、ジミー・ツトム・ミリキタニ(三力谷勤、1920~2012)の回顧展が、京都市の立命館大学国際平和ミュージアムで開かれている(20日まで)。第2次世界大戦中は米国で日系人強制収容所に送られ、戦後はニューヨークで長く路上暮らしを続けたジミー。回顧展には得意とした猫のほか、収容所や9.11同時テロ、故郷広島の被爆などを描いた作品30点が並ぶ。

  

 (㊧「猫とレッドスナッパー」、㊨「カニ」)  

 米国生まれのジミーは生後まもなく家族と共に日本に戻るが、18歳の時、画家を志し市民権を持つ米国に渡り、シアトルの姉の嫁ぎ先に身を寄せる。しかし、1941年の日米開戦で生活は一変。ジミーは他の日系人同様〝敵性外国人〟として強制収容された。米国への忠誠と従軍の意思を問う「忠誠登録」に同意せず、市民権放棄にも応じたため、戦後も48年まで収容され続けた。

  

(㊧「ツール・レイク1」、㊥「ワールド・トレード・センター2」、㊨「原爆ドーム」)

 その後、NYの裕福な老人宅で長く住み込み料理人として働く。だが、その老人の死によって職と住居を失ったジミーは、1980年代の終わり頃から路上生活を余儀なくされた。同時多発テロが起きた2001年9月11日もいつものように路上で絵を描いていた。その姿が映画監督リンダ・ハッテンドーフの目に止まった。リンダはジミーの数奇な半生を映画化し06年「ミリキタニの猫」として公開した。その映画は米トライベッカ映画祭で観客賞、東京国際映画祭「日本映画・ある視点」部門で最優秀作品賞を受賞している。

 回顧展の展示作品は1999年から2006年にかけて描かれたもの。戦中3年半にわたり強制収容されていたカリフォルニア州のツール・レイク収容所を描いたスケッチが4枚あった。人間の尊厳を否定した不当な扱いに、ジミーは亡くなるまで我慢ができなかったのだろう。同時テロで崩壊するワールド・トレード・センターや原爆ドームを描いた作品はいずれも真っ赤な炎に包まれている。

   

(㊧「コリアンタイガー」、㊥「猫と静物1」、㊨「秋の陽を浴びる猫」)

 こうした激しい作品とは対照的に、猫や花、自然の風景などを描いた作品はいずれもカラフルで優しい。作品の中には「日本画一位画家 川合玉堂」「木村武山 佛画 師事」などと記したものが目立つ。よほど両氏に心酔していたのだろう。「広島縣人」と記したものもあった。晩年は「雪山」の雅号も使った。その雅号はコロンビア大学に日本文化研究所を設立した角田柳作(1877~1964)から贈られたという。角田はドナルド・キーン氏の師として知られる。

 ジミーは82歳の頃、強制収容されて以来、生き別れになっていたシアトルの姉と50年ぶりに再開することができた。映画監督リンダの尽力による。晩年はNYマンハッタンの高齢者用アパートに住み、2年に1回、強制収容所の跡地巡礼ツアーに参加した。1年前の2012年7月にもツアーに参加し、同時に作品展も開いたが、その3カ月後に亡くなった。享年92だった。

 平和ミュージアムでは「丸木スマ展―生命(いのち)をみつめて」も同時開催中。丸木スマ(1875~1956)は70歳だった1945年に被爆し、翌年夫を亡くした。その後、「原爆の図」で知られる長男、丸木位里と俊夫妻の勧めで絵を描き始め、81才で亡くなるまで描き続けた。展示作品は「海の幸」「猫の家」「あじさい」「ピカの時」「ピカゆうれい」など12点。被爆した時、周りの人が「運命と思ってあきらめましょう」と慰めるのを聞いて、スマは「これは山崩れや地震とは違う。原爆は人が落とさにゃ落ちてこん」と反論したそうだ。

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<アンビリバボー> 全国47都道府県の〝ご当地カブリモノ〟がずら~り!

2013年07月03日 | アンビリバボー

【奈良県立図書情報館でチャッピー岡本の「世界スマイル計画5」展】

 たまたま行った奈良県立図書情報館(奈良市)で開かれていた催しにビックリ! 2階エントランスホールに全国47都道府県の祭りや名物、観光地などをテーマに、紙で立体的に作った〝ご当地カブリモノ〟が所狭しとずら~り。「世界スマイル計画5 チャッピー岡本のカブリモノとダンボール家具展」という催事で、ちょうど2日に始まったばかりだった(15日まで)。

    

 チャッピー岡本(写真㊨)は自称「カブリモノセラピスト」で世界唯一のカブリモノ作家とか。展示作品は奈良芸術短期大学デザインコースの学生の協力も得て製作したという。近畿各府県のデザインは大阪=ビリケン、奈良=大仏、京都=妖怪、兵庫=明石城、和歌山=パンダ、滋賀=井伊直孝(彦根藩2代藩主)。その他に北海道=ヒクマ、青森=ねぶた、東京=雷門、富山=チューリップ、岐阜=さるぼぼ、愛知=シャチホコ、徳島=阿波踊り、山口=鷺舞……。カブリモノの数々がホールを埋め尽くす様はまさに壮観。その中央にはダンボール製の机や本棚、椅子なども並んでいた。

 カブリモノはいずれも1シート1パーツで組み立てられるようにしているという。その見事な出来栄えに見学者も感心しきり。ニコニコしながら「これは○○」と言い当てっこをしている若い男女もいた。タイトルの〝世界スマイル計画〟も「カブリモノで日本を元気に! みんなを笑顔に!」という願いが込められているそうだ。

 チャッピー岡本は「カブリモノづくりを通して、自分自身を解放しストレスを発散してほしい」と全国各地でワークショップ「カブリモノ変身塾」を開いてきた。これまでの参加者は1万人を超えるという。今回も会期中の13~15日に開催の予定で、参加者を募っている。参加費は材料費込みで1人1000円。

 ところでチャッピー岡本って、どんな人? HPによると1966年岡山県生まれで、京都市立芸大美術学部(彫刻専攻)を卒業後、企画・デザイン会社に就職。その後、会社倒産を機に2001年から長年の夢だったカブリモノ作家に。03年には阪神タイガースの応援グッズとして作ったカブリモノが大きな話題を呼んだそうだ。

 これまでの受賞歴は世界パッケージコンテストでワールドスター賞、奈良県アイデアくふう作品展で知事賞など数知れず。著書に「カブリモノdeへ~んしん!」「おりがみで作る季節のカブリモノ」など。テレビなどメディアの取材・出演は100回を超えるという。そんな有名人だったとは知らなかった!

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<く~にゃん物語⑳> ウサギの楽園「大久野島」通信第6弾

2013年07月02日 | ウサギ「く~にゃん物語」

【どのエリアも元気な子ウサギたちがいっぱい!】

 広島県竹原市沖の瀬戸内海に浮かぶウサギの楽園「大久野島」。6月下旬に1泊2日で訪ねてきたという関西在住のK・Iさんご夫妻から楽園の近況報告が届いた。2月以来4カ月ぶりの再訪だったが、アジサイの花が見頃で、どこのエリアに行っても子ウサギたちがいっぱいいたそうだ。

  

 ご夫妻はいつもの通り、ウサギの大好物キャベツを両手に抱えて島に渡った。今回は合計8玉。楽園は梅雨の晴れ間の週末とあって、日帰り客も含め多くの観光客でにぎわっていた。島の海辺ではアジサイがちょうど満開。その近くにすんでいるらしい子ウサギたちが出てきて、キャベツをおいしそうにムシャムシャ食べてくれた。

  

 みんな、小さくて可愛いこと。上の写真㊧のように、アジサイの真ん丸の花と並ぶと、子ウサギの方が随分小さく見える。やや大きめの子ウサギの中にはアジサイの花を食べていたものもいたという。ウサギの天敵がいない大久野島には現在300匹前後が生息しているとみられる。だが「今回はとにかく子ウサギの多さにびっくりした」とのことでした。

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