ベルリンは「ベルリンフィルと子どもたち」でも書いたが、壁が崩れた後の東西ドイツの格差を如実に表している都市であると同時に、そうであるからこそ旧来の文化にとらわれない新しい発想の発現地でもある。主演のダニエ・ブリュールは、壁崩壊直後の混乱と連続性をファンキーに演じた「グッバイ・レーニン」でもあの力のある視線は本作でも変わりなく、魅せられる。
ベルリンは現代ドイツのコンテンポラリーアート、コンセプチュアルアートの拠点である。というのは、壁崩壊後、若者が住人のいない建物を占拠しその区画だけ言わば解放区にして、そこからさまざまなアートが誕生したという事実があるからだ。なかでも、私がベルリンを訪れたとき、そのアート発祥の象徴とされたタヘレスは、見るからにアバンギャルト、アナーキーな風情で、60年代末から70年代の抵抗する若者の残滓が匂ってくるかのようであった。
「ベルリン、僕らの革命」はジョン・レノン的非暴力革命の成就を願う若者の挑戦と、若いからこそ担うパートナーシップ(友情もヘテロの恋愛感情も)の狭間で揺れる青臭い青春ドラマである。しかし、70年生まれの監督ワイン・ガルトナーは革命の挫折も恋愛の失敗も描かなかった。たしかにeducators(主人公のヤン=ブリュールとピーターが金持ちの家に忍び込んでモノは盗まず、家具などをとんでもない配置換えをしては「ぜいたくは終わりだ」というメッセージを「教育者」名で残す)のアクションは荒唐無稽で、家賃が払えず家を追い出されるユールも不思議と現実感がない。そしてピーターと恋人同士だったユールがヤンとくっついた後のさわやかなピーター、誘拐される大金持ちハーデンベルクが昔革命指向の闘志であったことも都合良すぎる。けれどガルトナーはわざとこのような展開にしたという。あまりにもきれいな理想主義の革命指向も、カップリングにおける固定的概念からの解放という新しい価値観、考え方の提供であると。
確かに、60~70年代の学生運動の称揚は暴力主義的になったため敗北したとの解説が一般的であるが、むしろ逆で敗北しつつあったから暴力主義的になったのだ。日本では連合赤軍事件をとりあげた「光の雨」があるが、全共闘世代でもドグマティズムやジェンダーを超えられなかったのは事実で、その意味からも革命や恋愛について旧来の価値観(勝ちか負けか、モノガミーかなど)はあまりにも単純でもっと複雑、オルターナティブな提案もあっていいのではないか。
ヤンとピーターの革命は挫折したし、ユールとの恋愛もどうなるかわからない。けれどあれほど強固に見えた壁がわずかの間に崩れ去り、変化に対応できないと思われていた東ベルリンが今や現代アートの発祥地となっている(タヘレスは東ベルリンの中心、ミッテ地区にある)。
そう、ベルリンで試されたのは「僕らの」革命であって、それ以外の何ものでもないのだ。だからこそ、拡がらないし、拡がらないことこそ純粋の証でもある。
ベルリンは現代ドイツのコンテンポラリーアート、コンセプチュアルアートの拠点である。というのは、壁崩壊後、若者が住人のいない建物を占拠しその区画だけ言わば解放区にして、そこからさまざまなアートが誕生したという事実があるからだ。なかでも、私がベルリンを訪れたとき、そのアート発祥の象徴とされたタヘレスは、見るからにアバンギャルト、アナーキーな風情で、60年代末から70年代の抵抗する若者の残滓が匂ってくるかのようであった。
「ベルリン、僕らの革命」はジョン・レノン的非暴力革命の成就を願う若者の挑戦と、若いからこそ担うパートナーシップ(友情もヘテロの恋愛感情も)の狭間で揺れる青臭い青春ドラマである。しかし、70年生まれの監督ワイン・ガルトナーは革命の挫折も恋愛の失敗も描かなかった。たしかにeducators(主人公のヤン=ブリュールとピーターが金持ちの家に忍び込んでモノは盗まず、家具などをとんでもない配置換えをしては「ぜいたくは終わりだ」というメッセージを「教育者」名で残す)のアクションは荒唐無稽で、家賃が払えず家を追い出されるユールも不思議と現実感がない。そしてピーターと恋人同士だったユールがヤンとくっついた後のさわやかなピーター、誘拐される大金持ちハーデンベルクが昔革命指向の闘志であったことも都合良すぎる。けれどガルトナーはわざとこのような展開にしたという。あまりにもきれいな理想主義の革命指向も、カップリングにおける固定的概念からの解放という新しい価値観、考え方の提供であると。
確かに、60~70年代の学生運動の称揚は暴力主義的になったため敗北したとの解説が一般的であるが、むしろ逆で敗北しつつあったから暴力主義的になったのだ。日本では連合赤軍事件をとりあげた「光の雨」があるが、全共闘世代でもドグマティズムやジェンダーを超えられなかったのは事実で、その意味からも革命や恋愛について旧来の価値観(勝ちか負けか、モノガミーかなど)はあまりにも単純でもっと複雑、オルターナティブな提案もあっていいのではないか。
ヤンとピーターの革命は挫折したし、ユールとの恋愛もどうなるかわからない。けれどあれほど強固に見えた壁がわずかの間に崩れ去り、変化に対応できないと思われていた東ベルリンが今や現代アートの発祥地となっている(タヘレスは東ベルリンの中心、ミッテ地区にある)。
そう、ベルリンで試されたのは「僕らの」革命であって、それ以外の何ものでもないのだ。だからこそ、拡がらないし、拡がらないことこそ純粋の証でもある。