今回イギリスに行ったのは昨夏イギリスの田舎を回った際にポンドが余ったこと、田舎回りばかりでロンドンには寄らず、久しぶりにロンドンの美術館に行きたかったことによる。しかし、今回の大きな目的はテート・リバプールに行くことであった。ロンドンのデート・モダンがリバプールに分館を設えてもう随分になるが、結構話題になっていたので行ってみたかった。結論から言うとロンドンに比べると規模はさほどでもない。それよりもリバプール訪れた旅行最終日に体調を崩してしまい、テート・リバプールは半ばアリバイのごとく短時間でまわったのが災いであった。ただ、ちょうど特別展で2006年に亡くなったナム・ジュン・パイク展をしていて、日本ではあまり体系的、総合的にナム・ジュン・パイクを見ることがなかったのでそれはそれで興味深かった。「体系的、総合的」と記したが、もちろん英語説明を読む能力も気力もなかったので流しただけであるが。
ナム・ジュン・パイクはアジア出身(韓国系アメリカ人)で早くから成功した映像、インスタレーション作家ぐらいの知識しかなかったのだが、今回、パイクの多くの作品に接することができて思ったのは、パイクはやはアジアの人であること、作品の根底に流れるエッセンスには多分に日本を意識したものが含まれていることである。もちろんパイク自身、日本以外のアジアに対してその距離(感)に関わらず目を向けていたことは確かで、中国やパイクの出身である朝鮮半島やインドシナへまなざしも強く感じられた。それは、違う文化に対する等距離感覚や、ビデオをはじめとする映像技術は国境をたやすく超えることの証明であるのあろう。しかしパイクの描く世界はある意味コスモポリタニズムでもグローバリズムでもない。ましてやリージョニズムでもない。世界的に活動するアーティストに冠せられる呼称、「普遍主義が見て取れる」などと安易に言いたいのではない。むしろパイクはその逆である。個々の作品はいうなれば「ベタ」である。どこかで見たことのある、あるいはどこにでもいる「オッサン」が妙に叫んでいるのか、喚いているのか。または安っぽいテレビコマーシャルの羅列か。既視感。かなり違うとは思うが、最近ビデオアートの分野で注目している束芋の描く世界も妙にベタで、洗練さには程遠いのを思い出した。しかし、そのベタこそが新しい、見るものの新しいモノ好きを刺激するものがある。パイクの描く今となっては古めかしいビデオインスタレーションも「今となっては」古くない。
テート・リバプールの常設展は彫刻に重きをおいた展示となっていて楽しい。マイヨールやジャコメッティの近代彫刻の重鎮が並ぶ中に、コンテンポラリーアートがころがっているのは素敵な並びである。あわよくばもう少し広ければ。そして、せっかくの収蔵品であるのにテート・リバプールの図録がなかったのが少し淋しかった。もう二度と来る可能性が低かろうから。
リバプールで有名な美術館といえば規模の割にコレクションがいいザ・ウォーカー美術館。となりの博物館が水族館まで併設していて、こちらの方がより楽しめるかもしれないが、あいにく恐竜とか石の標本を見てもあまり興味がわかないので時間をかけなかったが、一見の価値ある博物館であると思う。ウォーカーは古い建物にどこか貴族のマナーハウスにありそうな一部展示の仕方がしぶい。作品の上に作品がと数点まとめられて展示されていてその説明書きも下部に写真付きでまとめて。おかげで、ラファエル前派をまとめて見る機会はテート・ブリテンしかないと思っていたが、なんのなんの、ウォーカーも軽視できない。ラファエル前派といってもロセッティはすぐにそのタッチで分かるがバーン・ジョーンズやミレイの絵はすぐには分からない。また、ラファエル前派ではないとされるが、同時代にビクトリア朝の作品を遺したウォーターハウスなども飾られており、すこしうれしくなってしまう。また、少ないながらレンブラントの自画像やルーベンスのほかに、ホガースやゲインズバラなど英国の重要な画家の作品も並んでいてうならされる。一品一作じっくり見るにはこれくらいの規模が実はいいのかもしれない。
(ロセッティ)
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