束芋のビデオインスタレーションを初めて見たのはたしか2001年の横浜トリエンナーレだったか、電車?が流れていく様に引き込まれたのを覚えている。ただ、そのときはビデオインスタレーションが多くて、束芋の作品だったかよくわからないが、単調な中にも惹かれる作品があり、もう一度見たいと思い探しているが、いまだにたどり着いていない。それはさておき、今回の束芋のテーマは「断面の世代」。
今回のテーマと記したが、束芋自身の問題意識が自己を「断面の世代」と規定することに本展の見所がある。「私が想定した、私を取り囲む入れ子になった球体状の世界を両手に収まるくらいの大きさで捉え、その世界に包丁を入れる。両手の中で切り口が露になり、私の目にはその断面が私を取り囲む世界を理解する上で役立つ二次元の地図となる」「二次元の地図の段階では判然としなかった地図上の要素が、時間軸にならべられることで、私にとって「キュウリ」や「かんぴょう」といった意味の形になっていく」「断面は、社会に属する個や時代に属する個の一端を浮かび上がらせることを信じ、私はそれを眺めてみたいと思う」(キーワード【断面】展覧会図録)。
1975年生まれの束芋は、自分の親の世代である団塊の世代が、太巻きの「キュウリ」や「かんぴょう」と違った個性の集合体が時代をつくっていったことに比し、自分たちは太巻きを断面で切った(時にうすっぺらな)一枚であるという。いろいろな要素はあるけれど、これといった強い自己主張や、かといって他の強い自己主張に対する共感もない。兵庫の平凡なサラリーマン家庭に生まれ、大阪の団地暮らしを経験している束芋はその平凡さが、世界でおこっている大きな出来事(束芋が小学生・中学生をすごした時代、80年代後半以降はソ連の解体、ベルリンの壁崩壊など東西冷戦が終焉するまさに激動の時代であった)とはかけ離れた、変わらない日常であることを醒めた目で束芋は見続けていたのかもしれない。
京都造形芸術大学の卒業制作であった「にっぽんの台所」にはじまり、「にっぽんの横断歩道」や横浜トリエンナーレで筆者が見たと思われる「にっぽんの通勤快速」など「にっぽんの」シリーズはもちろん、「団地層」や新聞の連載小説「惡人」(吉田修一原作)の挿絵など、どこかおかしさ、怖さ、シニカルな眼を持ちながら決定的な意図や構図といったものが見つけられない不安定さや不気味さがあふれている。それは、「惡人」に見られるように束芋の作品群が手や足など、ときには臓器といった体の一部を切り取って、それがメタモルフォーゼとなって他の物質に変転していく不可思議さばかりのせいではない。人間に拠り所などないのだというあきらめと、それでいて、その拠り所のなさこそが自己の存在証明であるかのような「断面の世代」故の大きな物語から遠い存在である自分たちを現している証なのだろう。
テレビも3Dの時代。日本が誇るアニメーションの世界では、表現できないものはないのではないかと思われるくらい緻密で、時にスタイリッシュである。それらデジタル世代のはずの束芋が描く風景は泥臭く、アナログを思わせる古くささでもある。しかし、束芋の手法は自ら描いた何百枚、何千枚ものコンテをパソコンに取り込んで、ととても高度で緻密なものである。ビデオインスタレーション作家というとパソコンに手慣れた、絵もあまり自分で描かないIT世代という偏見を見事に打ち壊す職人芸である。そう、束芋の部分、部分を描く、手や足、髪はどこかおどろおどろしいと書いたが、すぐれたデッサン力を背景にそれはそれで美しいのだ。
束芋の映像には奇妙なBGMはあるが、台詞はない。けれど、落ちてくる家具(にっぽんの台所)、人並み(にっぽんの通勤快速)、パンツから枝が生え、シャワーになり、その水泡の中から指が生えてくる様(惡人)など、これ以上に饒舌な表現もないと思えてくるから不思議だ。
今回のテーマと記したが、束芋自身の問題意識が自己を「断面の世代」と規定することに本展の見所がある。「私が想定した、私を取り囲む入れ子になった球体状の世界を両手に収まるくらいの大きさで捉え、その世界に包丁を入れる。両手の中で切り口が露になり、私の目にはその断面が私を取り囲む世界を理解する上で役立つ二次元の地図となる」「二次元の地図の段階では判然としなかった地図上の要素が、時間軸にならべられることで、私にとって「キュウリ」や「かんぴょう」といった意味の形になっていく」「断面は、社会に属する個や時代に属する個の一端を浮かび上がらせることを信じ、私はそれを眺めてみたいと思う」(キーワード【断面】展覧会図録)。
1975年生まれの束芋は、自分の親の世代である団塊の世代が、太巻きの「キュウリ」や「かんぴょう」と違った個性の集合体が時代をつくっていったことに比し、自分たちは太巻きを断面で切った(時にうすっぺらな)一枚であるという。いろいろな要素はあるけれど、これといった強い自己主張や、かといって他の強い自己主張に対する共感もない。兵庫の平凡なサラリーマン家庭に生まれ、大阪の団地暮らしを経験している束芋はその平凡さが、世界でおこっている大きな出来事(束芋が小学生・中学生をすごした時代、80年代後半以降はソ連の解体、ベルリンの壁崩壊など東西冷戦が終焉するまさに激動の時代であった)とはかけ離れた、変わらない日常であることを醒めた目で束芋は見続けていたのかもしれない。
京都造形芸術大学の卒業制作であった「にっぽんの台所」にはじまり、「にっぽんの横断歩道」や横浜トリエンナーレで筆者が見たと思われる「にっぽんの通勤快速」など「にっぽんの」シリーズはもちろん、「団地層」や新聞の連載小説「惡人」(吉田修一原作)の挿絵など、どこかおかしさ、怖さ、シニカルな眼を持ちながら決定的な意図や構図といったものが見つけられない不安定さや不気味さがあふれている。それは、「惡人」に見られるように束芋の作品群が手や足など、ときには臓器といった体の一部を切り取って、それがメタモルフォーゼとなって他の物質に変転していく不可思議さばかりのせいではない。人間に拠り所などないのだというあきらめと、それでいて、その拠り所のなさこそが自己の存在証明であるかのような「断面の世代」故の大きな物語から遠い存在である自分たちを現している証なのだろう。
テレビも3Dの時代。日本が誇るアニメーションの世界では、表現できないものはないのではないかと思われるくらい緻密で、時にスタイリッシュである。それらデジタル世代のはずの束芋が描く風景は泥臭く、アナログを思わせる古くささでもある。しかし、束芋の手法は自ら描いた何百枚、何千枚ものコンテをパソコンに取り込んで、ととても高度で緻密なものである。ビデオインスタレーション作家というとパソコンに手慣れた、絵もあまり自分で描かないIT世代という偏見を見事に打ち壊す職人芸である。そう、束芋の部分、部分を描く、手や足、髪はどこかおどろおどろしいと書いたが、すぐれたデッサン力を背景にそれはそれで美しいのだ。
束芋の映像には奇妙なBGMはあるが、台詞はない。けれど、落ちてくる家具(にっぽんの台所)、人並み(にっぽんの通勤快速)、パンツから枝が生え、シャワーになり、その水泡の中から指が生えてくる様(惡人)など、これ以上に饒舌な表現もないと思えてくるから不思議だ。
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