今朝も「MLBオールスターゲーム2021」の大谷投手を見ましたよ!
「レッドカーペットショー」に参加した時の、濃紺スーツに純白Tシャツ姿も素敵でしたね~(^^♪
試合はア・リーグが5―2で勝って8連勝
ア・リーグの大谷投手は「1番DH」で出場し、特別ルールで1回裏の先発マウンドで三者凡退に押さえ、二刀流の勝ち投手になりました。
映画『るろうに剣心』の文字を見る度に、思い出すのが三井寺です。
滋賀県・三井寺は、映画『るろうに剣心』クランクインの地であり
作品の「はじまりの地」として、重要な役割を担っているロケ地でした。
三井寺さんの近くまでは、何度も行っているのですが
この日は三井寺さんの駐車場が、びわ湖花火大会のツアーバスの駐車場になっていたので、花火大会開催前に行ってきました。
「長等山園城寺(三井寺)」 2013年8月8日
天台寺門宗の総本山で、古くから日本四箇大寺の一つです。
天武天皇より「園城 (おんじょう)」 の勅学を賜り、「長等山園城寺」 と称したのが始まりです。 私たちが 「三井寺 (みいでら)」 と呼んでいるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に使われた霊泉があり、「御井(みい)」 の寺と呼ばれていたものを、後に智証大師 (ちしょうだいし) が、当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来します。
仁王門 (重要文化財)

宝徳四年 (1452) に建立で、浄城への表門として慶長六年(1601)に
徳川家康により甲賀の常楽寺より移築、寄進されました。
釈迦堂 (重要文化財)

室町初期の建築で、中世寺院の食堂 (じきどう) の様式を伝えるもので、釈迦堂杮葺きの屋根がとても美しくて優雅です。
本尊に清涼寺式釈迦如来像をお祀りしています。
国宝の金堂と、三井寺の名前の由来になった閼伽井屋

金堂(国宝)は当時の総本堂です。
本尊の弥勅仏は天智天皇が信仰されていた霊像で
秘仏として静かに祀られています。
現在の金堂は、豊臣秀吉の正室北政所によって慶長四年 (1599) に再建されたもので、三井寺境内でもひときわ大きく威容を誇っています。
桃山時代を代表する名建築で、本尊弥勒菩薩も安置されています。
閼伽井屋 (重要文化財)は
金堂西側奥に金堂と接して、慶長五年(1600)に建立されました。
内部には井泉が湧き (水の音が聞こえていました。)、天智天皇・天武天皇・持統天皇の産湯に使われたことが、三井寺の名前の由来です。
正面上部にある龍は、左甚五郎作の龍の彫刻として有名です。
※ 閼伽井(あかい)とは、仏前に供える功徳の水をくみ取るための井。
弁慶の「霊鍾の引き摺り鐘と、大鍋の汁鍋」

奥:弁慶の 「引き摺り鐘」
手前:弁慶の 「汁鍋」
●弁慶の「引き摺り鐘」 重要文化財
重量:600貫 (約2250㎏) 総高:199、1cm 口径:123、2cm
当寺初代の梵鐘で、奈良時代(8世紀)の作とされています。
承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に
琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。
山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると、『いの~・いの~』 (関西弁で “帰る~”の意味) と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」 と怒って鐘を谷底へ投げ捨て、鐘にはその時のものと思われる引き摺った痕やヒビが残っています。
この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象があり良くないことがあるときには、鐘が汗をかき撞いても鳴らなかったそうですが、でも良いことがあるときには自然に鳴るといわれています。
「園城寺古記」という戦国時代の記録には、文禄元年(1592)七月に鐘が鳴らなくなり寺に何か悪いことが起るのではないかと恐れた僧侶たちは様々な祈祷をおこなったところ、八月になってようやく音が出るようになったそうです。
建武の争乱時には、略奪を恐れ鐘を地中にうめたところ自ら鳴り響き、これによって足利尊氏軍が勝利を得たといわれるなど、まさに霊鐘というにふさわしい様々な不思議な事件をいまに伝えています。
●弁慶の「汁鍋」 (鎌倉時代)
重量:120貫 (約450㎏) 外口径:166、5cm 口径:123、2cm
深さ:93、0cm 口厚:11、5cm
江戸時代のガイドブック 「近江名所図会会」 にも「弁慶の汁鍋」としてされ、寺伝によると武蔵坊弁慶が所持していた大鍋で、三井寺の大鐘を奪い取った時に残していったものと伝えられています。
また、僧兵たちが用いたことから 「千僧の鍋」 とも言われ、鋳鉄製の大器で三段に鋳継ぎされ、上段には釜戸にかけるための上縁がついていました。
※ 霊鐘堂に、弁慶の「引き摺り鐘」と「汁鍋」は一緒に奉安されています。
「レッドカーペットショー」に参加した時の、濃紺スーツに純白Tシャツ姿も素敵でしたね~(^^♪
試合はア・リーグが5―2で勝って8連勝
ア・リーグの大谷投手は「1番DH」で出場し、特別ルールで1回裏の先発マウンドで三者凡退に押さえ、二刀流の勝ち投手になりました。
映画『るろうに剣心』の文字を見る度に、思い出すのが三井寺です。
滋賀県・三井寺は、映画『るろうに剣心』クランクインの地であり
作品の「はじまりの地」として、重要な役割を担っているロケ地でした。
三井寺さんの近くまでは、何度も行っているのですが
この日は三井寺さんの駐車場が、びわ湖花火大会のツアーバスの駐車場になっていたので、花火大会開催前に行ってきました。
「長等山園城寺(三井寺)」 2013年8月8日
天台寺門宗の総本山で、古くから日本四箇大寺の一つです。
天武天皇より「園城 (おんじょう)」 の勅学を賜り、「長等山園城寺」 と称したのが始まりです。 私たちが 「三井寺 (みいでら)」 と呼んでいるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に使われた霊泉があり、「御井(みい)」 の寺と呼ばれていたものを、後に智証大師 (ちしょうだいし) が、当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来します。
仁王門 (重要文化財)

宝徳四年 (1452) に建立で、浄城への表門として慶長六年(1601)に
徳川家康により甲賀の常楽寺より移築、寄進されました。
釈迦堂 (重要文化財)

室町初期の建築で、中世寺院の食堂 (じきどう) の様式を伝えるもので、釈迦堂杮葺きの屋根がとても美しくて優雅です。
本尊に清涼寺式釈迦如来像をお祀りしています。
国宝の金堂と、三井寺の名前の由来になった閼伽井屋

金堂(国宝)は当時の総本堂です。
本尊の弥勅仏は天智天皇が信仰されていた霊像で
秘仏として静かに祀られています。
現在の金堂は、豊臣秀吉の正室北政所によって慶長四年 (1599) に再建されたもので、三井寺境内でもひときわ大きく威容を誇っています。
桃山時代を代表する名建築で、本尊弥勒菩薩も安置されています。
閼伽井屋 (重要文化財)は
金堂西側奥に金堂と接して、慶長五年(1600)に建立されました。
内部には井泉が湧き (水の音が聞こえていました。)、天智天皇・天武天皇・持統天皇の産湯に使われたことが、三井寺の名前の由来です。
正面上部にある龍は、左甚五郎作の龍の彫刻として有名です。
※ 閼伽井(あかい)とは、仏前に供える功徳の水をくみ取るための井。
弁慶の「霊鍾の引き摺り鐘と、大鍋の汁鍋」

奥:弁慶の 「引き摺り鐘」
手前:弁慶の 「汁鍋」
●弁慶の「引き摺り鐘」 重要文化財
重量:600貫 (約2250㎏) 総高:199、1cm 口径:123、2cm
当寺初代の梵鐘で、奈良時代(8世紀)の作とされています。
承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に
琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。
山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると、『いの~・いの~』 (関西弁で “帰る~”の意味) と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」 と怒って鐘を谷底へ投げ捨て、鐘にはその時のものと思われる引き摺った痕やヒビが残っています。
この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象があり良くないことがあるときには、鐘が汗をかき撞いても鳴らなかったそうですが、でも良いことがあるときには自然に鳴るといわれています。
「園城寺古記」という戦国時代の記録には、文禄元年(1592)七月に鐘が鳴らなくなり寺に何か悪いことが起るのではないかと恐れた僧侶たちは様々な祈祷をおこなったところ、八月になってようやく音が出るようになったそうです。
建武の争乱時には、略奪を恐れ鐘を地中にうめたところ自ら鳴り響き、これによって足利尊氏軍が勝利を得たといわれるなど、まさに霊鐘というにふさわしい様々な不思議な事件をいまに伝えています。
●弁慶の「汁鍋」 (鎌倉時代)
重量:120貫 (約450㎏) 外口径:166、5cm 口径:123、2cm
深さ:93、0cm 口厚:11、5cm
江戸時代のガイドブック 「近江名所図会会」 にも「弁慶の汁鍋」としてされ、寺伝によると武蔵坊弁慶が所持していた大鍋で、三井寺の大鐘を奪い取った時に残していったものと伝えられています。
また、僧兵たちが用いたことから 「千僧の鍋」 とも言われ、鋳鉄製の大器で三段に鋳継ぎされ、上段には釜戸にかけるための上縁がついていました。
※ 霊鐘堂に、弁慶の「引き摺り鐘」と「汁鍋」は一緒に奉安されています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます