これは、ふるさと佐田岬に残る、豊予要塞第二砲台あとです。
豊予要塞とは、大正8年(1919)に計画が出された、
愛媛県南予地方から豊予海峡をはさんで大分県東部にわたる広大な要塞。
各地の要所に監視所や砲台がおかれました。
瀬戸内海にある広島や呉の重要都市や工場などを守る目的だったようです。
この第二砲台は、昭和2年(1927)に工事が始まります。
直径30センチのりゅう弾砲4門がそなえられていました。
りゅう弾砲とは、簡単にいうと散弾銃が大砲になったようなもの。
現在は、台座のみ残っていて、そこに水がたまっています。
大砲の長さ5メートル。射程距離は、12㎞。
昭和9年に撤去、呉に運ばれ、解体し、
重要地点である大陸に運ばれたといわれています。
豊予要塞では、試験のため1発撃たれただけで、
実際に戦争に使われることはなかったようです。
しかし、その1発でごう音とともに、
近くの民家の窓ガラスが吹き飛んだといわれています。
太平洋戦争後は、ため池として使用されました。
砲台周囲は、敵に見つからないように、
迷彩がらでコンクリートが塗られていて、
これもまた貴重なようです。
岬人(はなんちゅう)
豊予要塞とは、大正8年(1919)に計画が出された、
愛媛県南予地方から豊予海峡をはさんで大分県東部にわたる広大な要塞。
各地の要所に監視所や砲台がおかれました。
瀬戸内海にある広島や呉の重要都市や工場などを守る目的だったようです。
この第二砲台は、昭和2年(1927)に工事が始まります。
直径30センチのりゅう弾砲4門がそなえられていました。
りゅう弾砲とは、簡単にいうと散弾銃が大砲になったようなもの。
現在は、台座のみ残っていて、そこに水がたまっています。
大砲の長さ5メートル。射程距離は、12㎞。
昭和9年に撤去、呉に運ばれ、解体し、
重要地点である大陸に運ばれたといわれています。
豊予要塞では、試験のため1発撃たれただけで、
実際に戦争に使われることはなかったようです。
しかし、その1発でごう音とともに、
近くの民家の窓ガラスが吹き飛んだといわれています。
太平洋戦争後は、ため池として使用されました。
砲台周囲は、敵に見つからないように、
迷彩がらでコンクリートが塗られていて、
これもまた貴重なようです。
岬人(はなんちゅう)