喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

少年の日への想い ~家族や地域のあたたかい眼ざし~

2013-02-05 | ブログ
 愛媛県の「少年の日」誕生への熱い想いがそこにあった。
 
 当時の愛媛県青少年育成協議会会長 戒田敬之さんの青少年育成に対する想いを知った。


『昭和38年10月、愛媛県社会福祉協議会会長に就任しました私は、児童問題対策協議会において「子どものしあわせを守る県民運動」を提唱いたしました。
 (中略)

 私は第一回少年の主張大会における中学二年生の藤原さんの発表を忘れることができません。
藤原さんの家では、毎年元旦の朝家族そろって初詣に行くという体験談でありました。
その内容の一部を載せてみましょう。



 「・・・除夜の鐘を遠く近くに聞きながら、約四キロの夜道を町並みにそって歩くのですが、
途中幾度か寒さのため運ぶ足も遅れがちになります。
そのたびに心にむちうって、
「楽を求めながら目的を達しようなんて、少なくとも若いものの考える事ではない」
という父のことばや、
「苦しむところにこそ、その道は開ける」
などという母の意見にしたがって、決して車などの参詣はしません。

 私も同感で、水銀灯に光る白い息を手にはきかけはきかけ、さすような風に凍える手をこすりながら、黙々と歩いて道後の「いさにわ神社」に詣でるのです。


 
 父のことばをかりれば、神社にお参りするということは形の上だけではなく、
立志、感謝、心身の鍛錬といろいろの要素がふくまれているのだそうです。
そのような意味で、わが家で実行している初詣では、神社の社頭においてその年のしあわせを願うとともに、
新しい誓いを立てることだと私は思っております。

 私は神の存在についてはよくわかりません。
しかし、少なくとも神とは、人それぞれの心の中にあるものだと理解はしているのですが、
なにかに感謝し、なにかに誓いを立てることの喜びを、きょうこのごろになって強く感じているのであります。
 それはまた「少年の日」における、私たちの覚悟にも置き換えられると考えます。・・・」




 戦後の日本は、あまりにも行き過ぎた民主主義や、誤った進歩主義のため、
新しい世代に伝えてゆかなければならないわが国の美しい伝統や文化を破壊し、また忘れ去っているのではないかと、
ひそかに心配しておりました私は、この「第一回少年の主張大会」で発表された皆さんの主張を聞いて、これが杞憂であることを知りました。

 こうして、愛媛県における「少年の日」は着実に前進し、
全県的な祝日として愛媛県の地に定着していったのであります。
 昔の「元服」の故事が示すごとく、厳冬に咲く梅の花のように清らかで美しい、「14歳・少年の日」の諸行事は、
愛媛県においては、「成人の日」にも比すべき大切な行事となっております。

(昭和46年愛媛県青少年育成協議会発行「愛媛の少年たち」より抜粋)』

 子どもたちを家族が、地域が、あたたかい目で見まもっていく。
そんな、家族、地域にしていきたい。

                      岬人(はなんちゅう)

愛媛県の少年式のはじまり 

2013-02-05 | ブログ
 昨日2月4日、立春。
愛媛県の多くの中学校では、中学校2年生を対象に、少年式という行事が行われた。

 四国最西端の三崎中学校では、1時間の少年式。
その後、生徒のいる地区を全て歩き、ゴールは佐田岬灯台という行事を行われた。
30㎞ほどの歩き。

 また、お祝いとして全生徒、教職員、来賓に紅白まんじゅうが配られた。
今年は、二名津にある田村菓子補の昔ながらの紅白まんじゅう。



 何にでも興味関心を持つので、いつものように調べてみた。 
 「少年の日というのは、14歳になった少年少女を大人への階段を登り始めた大切な時期と考え、
自覚・立志・健康を3本の柱に、愛媛県が全国に先駆けて始めた行事」

 なぜ、この少年の日というものが誕生したのだろうか?
それは、
 「昭和39年、日本児童文芸家協会が提唱した「14歳立春式」
に賛同した愛媛県社会福祉協議会会長、戒田敬之氏の提唱により、
県民運動の一環として「少年の日」の実施計画に着手。

 愛媛県社会福祉協議会が主唱し、愛媛県、愛媛県教育委員会、愛媛県警察本部が後援となり、
「少年の日」の実施要網を作成。

 自覚・立志・健康を目標とし、毎年「立春の日」を「少年の日」と決定。
 全郡市町村社会福祉協議会あてに実施要網を送付し、県民運動として発足。
第12回愛媛県社会福祉大会において、「少年の日」を実践申し合せとして決議し、
以降県下全中学校において少年の日に「少年式」が行なわれるようになった。」

 とのこと。

 何にでもあてはまることだが、
それにどんな意味をもたせるか、どんな物語をつくるかで輝きがちがってくる。

 そんなことを大切にしたい。

 少年式誕生の秘話があった。

               岬人(はなんちゅう)

インフルエンザ(スペインかぜ)の怖さ 

2013-02-05 | ブログ
 2月3日(日)節分。
春の陽気に包まれ、家族そろってサンフルーツの収穫。
息子も中学校3年生ながら、受験勉強の合間に手伝い。
勉強よりも農作業が好きなタイプ。
 
 ところが夜になり、熱っぽい。
体温計で計ると39.2℃の高熱。
 門田医院に検診するとインフルエンザとのこと。
したがって昨日2月4日、少年式も出席停止。

 時間休をもらいながら看病。
夜、熱を計ると何と 「40.2℃」
見たこともない数字。



 その後も40℃前後の熱で一夜を過ごした。
薬や看病、本人の抵抗力もあり、今朝は38℃まで下がり、少し安心。

 というのも、先祖ひいじいちゃんである鶴松さんの息子が幼い頃、このインフルエンザで亡くなっており、
その小さなお墓がたっている。
 当時は、スペインかぜと呼ばれていた。



 スペインかぜは、1918年~19年にかけ、全世界的に流行した、インフルエンザの大流行(パンデミック)。
感染者6億人、死者4,000~5,000万人。
 当時の世界人口は約18億人~20億人であると推定されているため、
全人類の約3割がスペインかぜに感染したことになる。

 日本では、当時の人口5,500万人に対し39万人(当時の内務省は39万人と発表したが、最新の研究では48万人に達していたと推定されている)が死亡。

 最初に流行した米国でも50万人が死亡した。


 これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべての人の死因の中でも、
もっとも多くの人を短期間で死に至らしめた記録的なもの。


 
 我が家では、感染しないこと、感染させないことを徹底してやっている。