靖国神社で手を合わせ、亡き祖父のことを想いました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/73/3138e139b22f9e004d598d3ed9701da1.jpg)
太平洋戦争(大東亜戦争)で亡くなった祖父金太郎は、
ふるさとの愛する人たちに向けて何通かの手紙を書いていました。
もちろん多くは、妻ミチエに向けて書かれたものです。
その手紙の1通を祖母ミチエが生きていた頃、見せてもらったことがあります。
封筒裏の差し出しは、
北海道室蘭市海岸町22番地 栗林商船株式会社 海南丸
からになっていました。
手紙は見つかっていませんが、
そのなかみの一部を祖母は覚えていました。
祖母ミチエが晩年入院中、お見舞いに来ていた孫の美智子(私の妹)に、
金太郎から贈られた句をすらすらと口にしたそうです。
60年近く経つというのに。
「踏まれても 踏まれても
耐えてよ忍べ 道芝よ
やがて花咲く 春も来るらん」
「道芝」を妻「ミチエ」にたとえて言っています。
愛する妻を気づかう気持ちが、痛いほど胸に伝わってきました。
祖父金太郎は、海軍の物資を運んでいた海南丸に乗り込み、
太平洋側にある宮城県塩竃から、日本海側にある山形県酒田をめざしていました。
そして運命の昭和20年、5月13日。
どこのあたりで、どんなふうに撃沈されたかはわかっていませんが、
最後の時をむかえました。
定かではありませんが、父の予想によると、
津軽海峡付近で、潜水艦の魚雷で沈められたのではないかと言っています。
当時、津軽海峡付近でアメリカの潜水艦が多く目撃されていたそうですから。
浅野金太郎27歳。
終戦8月15日まで、あと3ヶ月、初夏のころでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/4f/5abf6664cb4df5311f38b969e260eda1.jpg)
このようなことを想いながら靖国神社を参拝しました。
胸に熱くこみ上げてくるものがありました。
先の戦争を結果論として話す人がいますが、
大切なのはその時々の現実だと思います。
祖父は、戦争で亡くなってしまいましたが、
祖父がいたから今の自分があるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/73/3138e139b22f9e004d598d3ed9701da1.jpg)
太平洋戦争(大東亜戦争)で亡くなった祖父金太郎は、
ふるさとの愛する人たちに向けて何通かの手紙を書いていました。
もちろん多くは、妻ミチエに向けて書かれたものです。
その手紙の1通を祖母ミチエが生きていた頃、見せてもらったことがあります。
封筒裏の差し出しは、
北海道室蘭市海岸町22番地 栗林商船株式会社 海南丸
からになっていました。
手紙は見つかっていませんが、
そのなかみの一部を祖母は覚えていました。
祖母ミチエが晩年入院中、お見舞いに来ていた孫の美智子(私の妹)に、
金太郎から贈られた句をすらすらと口にしたそうです。
60年近く経つというのに。
「踏まれても 踏まれても
耐えてよ忍べ 道芝よ
やがて花咲く 春も来るらん」
「道芝」を妻「ミチエ」にたとえて言っています。
愛する妻を気づかう気持ちが、痛いほど胸に伝わってきました。
祖父金太郎は、海軍の物資を運んでいた海南丸に乗り込み、
太平洋側にある宮城県塩竃から、日本海側にある山形県酒田をめざしていました。
そして運命の昭和20年、5月13日。
どこのあたりで、どんなふうに撃沈されたかはわかっていませんが、
最後の時をむかえました。
定かではありませんが、父の予想によると、
津軽海峡付近で、潜水艦の魚雷で沈められたのではないかと言っています。
当時、津軽海峡付近でアメリカの潜水艦が多く目撃されていたそうですから。
浅野金太郎27歳。
終戦8月15日まで、あと3ヶ月、初夏のころでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/4f/5abf6664cb4df5311f38b969e260eda1.jpg)
このようなことを想いながら靖国神社を参拝しました。
胸に熱くこみ上げてくるものがありました。
先の戦争を結果論として話す人がいますが、
大切なのはその時々の現実だと思います。
祖父は、戦争で亡くなってしまいましたが、
祖父がいたから今の自分があるのです。