喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

靖国神社にて祖父を想う

2013-02-23 | ブログ
 靖国神社で手を合わせ、亡き祖父のことを想いました。


 
 太平洋戦争(大東亜戦争)で亡くなった祖父金太郎は、
ふるさとの愛する人たちに向けて何通かの手紙を書いていました。

 もちろん多くは、妻ミチエに向けて書かれたものです。
 その手紙の1通を祖母ミチエが生きていた頃、見せてもらったことがあります。
封筒裏の差し出しは、
 北海道室蘭市海岸町22番地 栗林商船株式会社 海南丸
からになっていました。

 手紙は見つかっていませんが、
そのなかみの一部を祖母は覚えていました。
 祖母ミチエが晩年入院中、お見舞いに来ていた孫の美智子(私の妹)に、
金太郎から贈られた句をすらすらと口にしたそうです。
60年近く経つというのに。


 「踏まれても 踏まれても
    耐えてよ忍べ 道芝よ
      やがて花咲く 春も来るらん」


「道芝」を妻「ミチエ」にたとえて言っています。
愛する妻を気づかう気持ちが、痛いほど胸に伝わってきました。

 祖父金太郎は、海軍の物資を運んでいた海南丸に乗り込み、
太平洋側にある宮城県塩竃から、日本海側にある山形県酒田をめざしていました。
 そして運命の昭和20年、5月13日。
どこのあたりで、どんなふうに撃沈されたかはわかっていませんが、
最後の時をむかえました。

 定かではありませんが、父の予想によると、
津軽海峡付近で、潜水艦の魚雷で沈められたのではないかと言っています。
当時、津軽海峡付近でアメリカの潜水艦が多く目撃されていたそうですから。

 浅野金太郎27歳。

 終戦8月15日まで、あと3ヶ月、初夏のころでした。




 このようなことを想いながら靖国神社を参拝しました。
胸に熱くこみ上げてくるものがありました。

 先の戦争を結果論として話す人がいますが、
大切なのはその時々の現実だと思います。

 祖父は、戦争で亡くなってしまいましたが、
祖父がいたから今の自分があるのです。



靖国神社に祀られている祖父

2013-02-23 | ブログ
 2月17日(日)。
昨日の神楽坂は、郷づくりの大きなヒントを感じさせてくれた。
 この日の東京は、風も強くなく青空が広がっていた。 気温は、佐田岬に比べて低い。

 行き先は、まず靖国神社。
 地下鉄九段下駅を出て、日本武道館を左手に見ながら靖国通りを上って行く。
沿道には、つぼみの状態の桜が春を待っている。
靖国通りを5分ほど進むと右手に大きな鳥居が見えてきた。これが靖国神社。

 

 正面に近代日本陸軍の創設者で靖国神社の創建に尽力した大村益次郎(村田蔵六)の銅像がそびえている。
明治26年(1893)、日本最初の西洋式銅像として建てられた。
 江戸時代の終わりに、宇和島藩にも来て、兵制改革に関わった長州藩出身の才人大村益次郎(村田蔵六)。
像の下を通り奥へと進む。
 
  

 中央の二つの扉に、直径1.5メートルの菊花の紋章が取り付けられている神門をくぐり、
檜でできた3つ目の中門鳥居をぬけると、拝殿がある。

 

 

 たいへん多くの人でにぎわっていた。
靖国神社に関しては、賛否両論いろいろな意見があるが、これほどの人が訪れ参拝している現実がある。
 
 境内には、ソメイヨシノやヤマザクラなど約400本の桜があり、つぼみをふくらませ、咲く頃を待っていた。



 靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇によって建てられた東京招魂社が始まり。
明治12年(1879)に「靖国神社」と改称された。
 国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社。

 靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役、西南の役、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、太平洋戦争(大東亜戦争)などの国難に際して、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊としてお祀りされている。

 私の祖父(浅野金太郎)も昭和20年5月13日に戦死して、祀られている。
終戦3ヶ月前の初夏のころだった。

 靖国神社には、もちろん祖父のお骨などいっさいあるわけではない。
でも自分の先祖のことを何か感じたいという思いがあった。
 
 拝殿にて参拝し、戦争で亡くなった祖父のことを想った。