しまなみ海道の日帰り旅行。
途中、父母と様々な話をすることができた。
その1つが、「捨てるということ」。
我が実家の倉庫や屋根裏には、もう使わないだろうという物が積み重ねられている。
母が、「いつか使うことがあるかもしれない」と、捨てずに残している物がたくさんある。
さらに、「もらっておいたらいいかもしれない」と、余分にと思うものまで、もらってくる。
とにかく捨てられないのだ。
それが、私たちからすると、そのような物があるせいで、置き場もないくらい物にあふれていて、
片付けをしづらい状況をつくっている。
「いらん物は、どんどん捨てようや。亡くなってから整理整頓するのは大変なんやけん。」
という合理的な理由を話す。
過去、母が入院している間に、姉妹に帰ってもらいかなりの物を捨てたことがある。事後承諾で。
そして、また同じようなことを計画している。
「月末にみんなでいらん物を捨てて、家を整理整頓しようや」
父母も理にかなう話なので、強く反対することもなかった。
でも、その反応に何となくすっきりしなかった。
何だろう。この、もやもや感は?
【お腹いっぱいだけど、捨てられない】
今日、姉からのメールで、そのもやもや感がどうしてか、分かった。
姉は檀家になっているお寺の婦人会に参加した。
参加者は、母と同じ年頃の人ばかり。
そこで、子どもが実家の断捨離をすることについて話をしたようだ。
すると多くの人から、「本心は、捨てられることがとても嫌でストレスになる。できることなら、自分たちが亡くなった後にしてほしい。」
という本音が出たらしい。
自分(たち)は、どれくらい父母の気持ちに寄り添い、捨てることを考えていただろう。
戦中戦後の物不足で生まれ育った父母たち。
全ての物には、それを作り出すまでの苦労があり、豊かさがあって初めて手に入るものだった。
大事に大事に使いきり、そのおかげで暮らしていくことができた。
だから決して物を粗末にできない。それは、身をもって感じていることだった。
高度経済成長時代に生まれた自分(たち)は、そんな経験をしていない。
どんどん物は作りだされ、生活にあふれていく。
消費することが、豊かさの象徴のような感覚。
だから、捨てるということに違和感を感じない。
いや生活しやすくするためには、捨てなければならないとさえ思うようになった。
父母たちの感覚と大きくずれている。
自分(たち)は、物を捨てない父母を問い詰めることができるのか。父母の気持ちをないがしろにして捨てることをしていいのか。
これが、もやもや感のもとだった。
本当の豊かさとは、何でも手に入る生活ではなく、父母たちの思いそのものではないだろうか。
物の裏側にそれを作った人の姿が見える、それを使った人の姿が見える、という。
捨てることについて、しっかりと父母の気持ちを聞いてみたいと思う。
そうして本当の意味で、豊かな暮らしをしていきたい。
岬人(はなんちゅう)
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