桐生トランピング情報

群馬県、特に桐生市周辺の山歩き情報をお届します。

高崎下田邸

2019-11-23 16:17:37 | ブラ歩き情報
2019年11月21日、高崎市箕郷町の下田邸を見に
行ってきました。また、近くの箕輪城にも寄ってきました。


旧下田邸書院及び庭園は、箕輪城主長野氏の重臣であった
下田大膳正勝の子孫が落城後この地に土着し、代官として
居を構えた屋敷跡で、高崎市の箕郷支所のすぐ傍にありま
した。広大な敷地跡が支所になったのですね。


下田邸へは、支所の建物側から入りました。


入口の所にあった水源。ここから出た水が邸内を流れて
渡って行きました。


書院前です。


ちょっと引いて左側の庭園も入れ込んで撮りました。


書院の庭側へ回って撮りました。


少し右に動いて庭を正面から撮りました。なおこの庭は、
あの忠臣蔵で有名な堀部安兵衛が築造したものだそうです。
「青翠園」との名がついていました。


庭の中を歩いて行きました。


木の間から書院を撮りました。


庭の小路が行きついた所から池越しに書院を撮りました。


紅葉が見事でした。


庭とは反対側に蔵がありました。何が残っているので
しょうね?


その蔵前から書院を撮りました。
下田邸を見終った後、近くの箕輪城も見て行くことに
しました。


箕輪城は、搦手口から入りました。最初に着いたのは
二の丸跡でした。


そこから右手へ回り、本丸跡に行きました。広いですね。


もう一度二の丸に戻り、左の方へ歩いて行きました。
写真は大堀切です。


その先が郭馬出で、その端が西虎口。再現された西虎口門
がありました。


門の表側。


また二の丸へ戻り、渡った大堀切の左に行った所が
三の丸跡。


三の丸から堀切へ下り、回った先の御前曲輪。ここから
本丸へ出て、二の丸、搦手口と歩み箕輪城を後にしました。

下田邸、江戸時代の屋敷の面影を十分残していました。
いままで近くを何回も通っていましたが、気が付きま
せんでした。今回山の仲間が教えてくれて、早速見に
行ってきました。







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京都・奈良その7-京都太秦・三十三間堂周辺

2019-11-14 09:33:01 | 旅行
2019年11月2日、京都・奈良の最終日は新幹線の発車
までの時間、京都市内の太秦、三十三間堂周辺を歩くこと
にしました。


最初はバスで太秦に行き、蚕の社を訪れました。正しくは
木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社と
いいます。境内に蚕の神を祀る摂社の蚕養(こかい)神社
あることから蚕の社と呼ばれています。


拝殿です。


この神社が注目を集めるのは、この変わった三柱鳥居が
あるからです。枯れた池の中に立っていました。酒造メーカー
のサントリーとも何か関係があるのかな、というのは私の
勝手なこじ付けです!?


蚕の社から歩いて広隆寺に行きました。広隆寺は、渡来人系
の氏族である秦氏の氏寺です。写真は、その楼門(南大門)
で、三条通りに面し、前を嵐電の路面電車が走っていました。


講堂(重文)です。


上宮王院太子殿(本堂)で、本尊は聖徳太子立像。


霊宝殿に行く途中で掲示されていた十善戒。一つ一つ
が得心のいくことばかりですね。


霊宝殿です。ここに国宝第一号の木造弥勒菩薩半跏像
(宝冠弥勒)や同じく国宝の木造弥勒菩薩半跏像(宝髻弥勒、
泣き弥勒) が安置されていました。その外にも国宝、重文
がいっぱいでした。


広隆寺の後、バス・電車を乗り継いで七条へ行き、
三十三間堂周辺を見て回りました。最初は養源院
でした。淀殿が創建、お江が再建。


本堂。俵屋宗達の唐獅子や象などの杉戸絵(重文)、
廊下天井の伏見城ゆかりの血天井などがありました。


次に真言宗智山派の総本山智積院に行きました。東大路通
を挟んで三十三間堂とは反対側。生垣の上に、何やら狛犬
らしきものが…


ここから中に入りました。


受付を済ませ、境内に入った所の講堂です。


庭園。


講堂の襖絵。


大書院に面した庭園。名勝指定されてます。


石庭もありました。


1975年再建の金堂。


不動明王が本尊の明王殿。


智積院を出て次の妙法院に向かって東大路通を歩いて
行くと出てきた(智積院)総門。


妙法院に着きました。天台宗の門跡寺院。天台三門跡の
一つで、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても
知られています。


国宝の庫裏。桃山時代の築造。


境内では紅葉が始まっていました。


本堂として使われている普賢堂。本尊の木造普賢菩薩騎象像
は重文。


こちらも重文の玄関。


妙法院の後、東大路通反対側(三十三間堂側)の方広寺へ
行きました。豊臣秀吉がいまは無き大仏を安置するため
に創建。写真はその本堂。


豊臣家滅亡のきっかけとなった梵鐘(重文)。撞木(しゅもく、
撞き棒)の斜め左に、「国家安康」「君臣豊楽」の銘が。
とにかく大きな鐘でした!


鐘楼の天井画。これも珍しいですね。


隣接する豊国神社の唐門(国宝)。


最後、鴨川を撮って(実際にカモが泳いでいました)今回の
京都・奈良の旅を終わりにしました。

京都・奈良、建物の外観などの紹介が主になってしまいまし
たが、実際は内部の国宝や重文の像や絵などをたくさん見て
きました。覚えきれるかちょっと不安ですが、今後そうしたもの
に目を触れる機会があったとき、思い起こすことができれば
いいな、と思っています。



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京都・奈良その6-奈良佐保・佐紀路

2019-11-12 16:02:08 | 旅行
2019年11月1日、京都・奈良の6日目は東大寺転害門
から西に延びる佐保・佐紀路、すなわち昔の平城京南一条
大路の沿線を見学してきました。


この日は近鉄奈良駅を降りて最初に奈良公園に向かいま
した。奈良国立博物館で開催中の第71回正倉院展を
見るためです。まだ時間が早かったため、並ばずに直ぐ
に入れました。


正倉院展を見てからバスで般若寺に行きました。般若寺は、
高句麗の僧・慧灌が創建し、聖武天皇が伽藍を建立したと
いわれています。写真は、受付から境内に入った所の光景
です。本堂とカンマン石が見えました。カンマン石は、身体
の悪い部分をあてると治るといわれている石です。


般若寺はコスモス寺とも称していますが、そのコスモスが
咲いていました。


本堂の周りには、江戸時代に奉納された西国三十三所
観音石仏がずらっと並んで立っていました。


こちらは笠塔婆(重文)です。宋人石工伊行吉(いぎょうきち)
が亡き父の供養のため建立したもの。


伊行末(いぎょうまつ)、息子伊行吉(いぎょうきち)らの手で
建立された十三重石宝塔(重文)。高さ14mと日本最大級
の多重塔。


こちらは国宝の楼門。裏からしか近づけず、外の駐車場
へ出て撮りました。


般若寺からまたバスで転害門まで戻り歩き始めました。
ここからが佐保路(一条通り)になります。しばらくして
横道の先に聖武天皇陵が見えました。


次に、また一部の区間バスを利用して不退寺に行きま
した。写真はその南門(重文)です。不退寺は、在原業平
が不退転法輪寺として開基したもの。南都花の古寺。


その本堂。業平自作の聖観音立像(重文)が本尊として
安置されていました。


境内の所々でこのような石碑を見ました。歌碑でしょうか。


多宝塔(重文)。一層のみが残存。


庫裏の傍にあった石棺。近くの宇和奈辺(ウワナベ)古墳
から発掘されたもの。


不退寺から退出するとき、受付の女性から「ここからの
景色が一番」と推奨され撮りました。多宝塔が見えます。
また、次の海龍王寺までの近道を教えてもらい歩き始め
ました。


途中で宇和奈辺古墳の横を通りました。全長255mの
大きな前方後円墳です。


海龍王寺にきました。光明皇后(聖武天皇妃)によって創建、
遣唐僧玄昉が開基。


十一面観音立像(重文)の本尊を安置する本堂。江戸時代
築造。


同じく重文の西金堂。


西金堂に安置されている国宝の五重小塔。金堂の扉が開いて
いて自由に見られようになっていました。


こちらは経堂(重文)です。


海龍王寺を出て、道を回って法華寺に行きました。法華寺
までが佐保路で、その先が佐紀路になります。法華寺は、
奈良時代には日本の総国分尼寺とされ、本尊は十一面観音、
開基は光明皇后、大和三門跡の一つで氷室御所とも呼ば
れています。


境内に入ってきました。テントに隠れた鐘楼は重文。


豊臣秀頼と淀殿が再興した本堂(重文)。本尊の十一面観音
立像(国宝)は光明皇后がモデル。普段は模刻像を拝観。


本堂裏の光月亭。現在の市内月ヶ瀬地区にあった
旧東谷家住宅を移築したもの。


一輪だけ咲いてた花。カキツバタの残りでしょうか?


花は他にもありました。


名勝指定の庭園。


法華寺から歩いて次の平城京跡に行きました。最初に
着いた所は広い平城京の東に張り出す形で位置する
東院庭園で、現在の迎賓館に相当する施設。


東院庭園を出て歩いてきて、振り返り撮った南面大垣。
長い築地塀で中程に建部門(東院南門)が見えます。


どこを歩いているか分からなくなるほど広く、遠くに
朱雀門が見えました。


ほぼ中央寄りの所の第二次大極殿跡です。


近くまできました。


第二次大極殿跡に上って撮った光景。広さが実感できま
すか?


こちらは復原された第一次大極殿。


第一次大極殿の前方に復元中の第一次大極殿南門。


その遥か前方の朱雀門。余りに離れているので望遠で
とりました。


平城京跡を出て、近鉄線反対側の西大寺に行きました。
東門から入りました。東大寺と比肩された西の大寺。


東門から入ってすぐの四王堂。ここを始めとして、聚宝館、
本堂、愛染堂と四カ所を見て回りました。


江戸時代に再建された本堂(重文)。大きな茶碗が置いて
ありました。


本堂前に残る東塔跡。その大きさから創建当時の寺の
規模が想像されました。


南門(重文)を眺めながら西大寺を後にしました。

今回は近鉄線奈良駅に近い所を見て回りました。皆由緒ある
所です。平城京跡は広かったです。歩きながら往時を偲びまし
た。また、近鉄線はその中を通っていて、電車の中から朱雀門
などが見え、いつか来たいと思っていたのが今回実現しました。





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京都・奈良その5-奈良山の辺の道

2019-11-11 13:50:19 | 旅行
2019年10月31日、京都・奈良の5日目は奈良の
山の辺の道に行ってきました。今回の旅の中では一番
長い距離を歩きました。なお山の辺の道とは、天理から
桜井まで大和を囲む東の山麓を伝う古い道をいいます。


朝JR奈良線の時刻に間があったので、その時間を利用
して伏見稲荷大社へ寄ることにしました。JR稲荷駅前
から表参道を歩いて行きました。


楼門(重文)です。その前に鎮座するキツネの姿がユニーク
ですね。


外拝殿(重文)、その後の内拝殿(重文)。内拝殿でお詣り
をました。


人気のある千本鳥居前まで行きました。時間の制約が
あったので、ここで引き返しました。


JR奈良駅で同じく万葉まほろば線(桜井線)に乗り換え
天理駅で下車、駅前から長いアーケードを通って、山の
辺の道の出発点である石上(いそのかみ)神宮へ向かいま
した。


アーケードが終わると、道沿に天理教教会本部が出て
きました。広い敷地に大きな神殿があって驚きました!


本部前の光景。天理幼稚園や天理小、天理大学、天理大学
附属参考館などがあるようです。


石上神宮にきました。神武天皇が東征した折に使用したと
いわれる神剣を祭神にしています。


参道を歩いて行くと、注連縄に囲まれた砂地にニワトリ
(御神鶏)が遊んで(そのように見えたのです)いました。
この神宮ではニワトリが神の使いなのですね。


楼門(重文)です。


楼門を潜った先が拝殿(国宝)です。神社建築としては
最古級といわれています。


楼門を出て、対面を上った所にある摂社出雲建雄神社。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である
出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしています。


後の位置にその拝殿がありました。国宝です。


戻る際、楼門がまるまる見えたのでもう一度撮りました。


石上神宮から山の辺の道がスタートするのですが、少し
コースをはずれて西山古墳を見に行きました。4世紀後半
に築造された前方後方墳です。大きな古墳でした。


西山古墳の後、山の辺の道には戻らず黒塚古墳に向かい
ました。バスで行こうとしたのですが、1時間に1本しかなく、
結局歩いて黒塚古墳に着きました。黒塚古墳は中国から
卑弥呼に贈られた三角縁神獣鏡が多数発見され話題を
集めた所です。


環濠に架けられた橋を渡って古墳を歩きました。橋が
突き当たった所が後円部ですね。


前方部へ歩いて行きました。


前方部の上から後円部へ戻りました。後円部の上に、
鏡が出土した石室の跡みたなものがありました。


古墳の傍に天理市立黒塚古墳展示館があって見学しま
した。そこでは、再現された石室を展示していました。


こちらは三角縁神獣鏡のレプリカ。三角縁神獣鏡は33枚
出土しました。


黒塚古墳の後、山の辺の道に戻り、崇神天皇陵に行き
ました。崇神天皇は大和政権の初代大王といわれている
方です。


陵前まできました。崇神天皇陵は、全長242mの巨大な
前方後円墳で、4世紀前半の築造といわれています。


ちょっと横に寄って、陵をよく見ました。


次に長岳寺に行きました。大門の前でネコが迎えてくれ
ました。長岳寺は空海創建のお寺です。


旧地蔵院(重文)。現在は庫裏として使っているみたいです。


旧地蔵院本堂の延命殿(重文)で、普賢延命菩薩を本尊と
する庫裏の持仏堂。


楼門(重文)。かつては上層に鐘楼が吊られていたために
鐘楼門と呼ばれ、日本最古の鐘門になるみたいです。


こちらが本堂。江戸時代に再建された建物。


傾斜部を少し上った所にあった大石棺佛。高さ2mの
石棺に彫られた石仏です。


山の辺の道を歩いて行くと絶景スポットの案内板があった
ので斜面を少し上り撮りました。中央に二つ並んでいる山
は、右が大和三山の耳成山、左が同畝傍山、間に林を挟ん
で左に離れた山が同天香久山です。分かりますか?


こちらは景行天皇(日本武尊の父)陵。大きな陵でした。
この後、また山の辺の道をはずれて纏向遺跡に行きました。


JR巻向駅横を通り、住宅地を行った先に見えてきたのが
纏向遺跡(辻地区)みたいです。纏向遺跡は、桜井市の
三輪山の北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代
前期にかけての集落遺跡で、女王卑弥呼がおさめた
邪馬台国の有力候補地にあげられている所です。


現在は、いろいろ発掘された後埋め戻されて説明板が
立つのみでした。


纏向遺跡の後、箸墓古墳にきました。箸墓古墳は、
宮内庁によって倭迹迹日百襲姫命(やまとととひ
ももそひめのみこと)の墓に指定されている全長
276mの前方後円墳です。卑弥呼の墓との説も
あって、論議が交わされていますね。


ぐるっと回って陵墓の前にきました。卑弥呼論争を思い
浮かべるようなものは何も見当たりませんでした。


また山の辺の道へ戻るべく道を急ぐ途中にあった
ホケノ山古墳。ホタテ貝型の前方後円墳で、纒向
古墳群の一つとして国の史跡に指定されています。
上に登ったら箸墓古墳がよく見えました。


山の辺の道へ戻った所の檜原神社。この後に出てくる
大神(おおみわ)神社の摂社です。ここまできたら大分
日も暮れてきてしまいました。


御神体は山中の磐座で、社殿もなく独特の形をした
三ツ鳥居が立つだけでした。


山の辺の道を先に急ぎ、狭井(さい)神社へきました。こちらも
大神神社の摂社です。


参道を歩いて行くと横手に赤い鳥居、赤い社がありました。
市杵島姫(いちきしまひめ)神社で、 海の神、水の神であり、
芸能をつかさどる弁天さんとしても親しまれています。


檜皮葺の拝殿。この裏に御神水の沸く井戸があったらしい
のですが、見過ごしてしまいました。


大神神社の拝殿(重文)。日本で最も古い神社の一つで、
背後の三輪山を御神体とするため本殿はありません。


ここを山の辺の道は通っていました。


大神神社の先の金屋の石仏にやってきました。


扉の鉄格子の間から高さ2mの泥板岩に彫られた
釈迦如来像と弥勒如来像を撮らせてもらいました。
山の辺の道は、この先海石榴市(つばいち)まで続くのですが、
暗くもなってきたのでここで終わりにしました。

山の辺の道、途中であちこちそれたりもしたので20km以上
は歩いたと思います。足にマメができてしまいました。でも、
日本の歴史のかなり古いところに触れられ十分満足しました。


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京都・奈良その4-京都哲学の道

2019-11-10 13:05:00 | 旅行
2019年10月30日、京都・奈良4日目は京都へ行き
ました。琵琶湖疏水関連の施設、哲学の道周辺を見て歩き
ました。


地下鉄東西線蹴上駅を降りて、疏水関連のインクラインを
見る積りが、結局遠回りして近くまできたとき、やはり疏水に
関係した施設でしょうか、趣のある建物が目に入りました。


反対側にインクラインの台車が見えました。


近くに寄って撮りました。琵琶湖疏水は、この台車に船を
載せて上下させるインクライン(傾斜鉄道)を運行していた
そうです。


すぐ傍に何やらプールみたいなものがありました。説明板
によると、東本願寺の防火用水のための水源地とのこと。
地下を通って約6.4km離れた東本願寺まで水を運ぶ
らしいです。


線路は南禅寺入口の方へ向かって延びているようです。


線路に沿って先へ歩いて行くと出てきた隧道。名前が
付いていたようですが読めませんでした。


金地院の東照宮(重文)前まで着ました。金地院は以心崇伝
が住んだお寺ですね。


その先の山門から中へ入りました。


こちらは明智門。明智光秀が大徳寺に建立したのを
こちらへ移設したみたいです。


開山堂。崇伝の塔所。何やら古めかしいですね。


小堀遠州作鶴亀の庭。特別名勝に指定されています。


次に、すぐ近くの南禅寺塔頭の天授庵に行きました。


受付の近くに咲いていた花。寺内所々に咲いていました。


本堂前庭(東庭)です。


こちらは書院南庭です。


天授庵を出るとすぐに南禅寺の三門がみえました。


こちらは三門の次の法堂。三門、法堂を見ながら水路閣
へ向かいました。


琵琶湖疏水が現在も流れる水路閣。前回は夕闇が迫る中
でしたのではっきりしませんでしたが、今回はバッチリ
見ました。


橋げたの重なり、独特の味わいがありますねー。


水路閣の奥、南禅寺の別院、南禅院へきました。南禅寺
発祥の地で亀山天皇の離宮でもありました。京都の三名勝
史跡公園の一つで、庭がきれいです。


池を見て回っているときに傍を通った亀山天皇分骨所です。


たしかに趣のある庭でした。


こちらは一山国師(元の渡来僧)塔。


南禅寺を出てから、山形有朋の別荘だった無鄰菴に
向かいました。


疏水の水を引き入れた庭がきれいでした。


敷地内の一角に立つ洋館。


その室内。日露戦争前に、明治の元勲が集まり
開かれた無鄰菴会議の舞台になりました。


無鄰菴を出て次の琵琶湖疏水記念館へ行く途中、
インクラインの終点らしき所を見ました。


こちらが琵琶湖疏水記念館です。南禅寺と京都市動物園
のちょうど中間地点に位置します。


館内の疏水工事などの資料を見てからテラスに出て撮り
ました。右が動物園側、左は無鄰菴があった方になります。


疏水記念館を出てから白川通りを真如堂(真正極楽寺)
に行きました。写真はその本堂(重文)です。


本堂前には江戸時代に再建された三重塔が立っていました。


次に金戒光明寺に行きました。浄土宗最初の寺院で、
大きな山門がありました。幕末には京都守護職の会津藩主
松平容保の本陣になりました。


法然上人の御影が安置されている御影堂。


こちらは法然上人御廟。


金戒光明寺を出てから、少し離れていますが歩いて哲学の
道に行きました。その出発点になる若(にゃく)王子橋です。


すぐ傍にあった熊野若王子神社。後白河法皇が熊野権現
を勧請したのが始まりです。


哲学の道は、この琵琶湖疏水分流沿いの道を南から北へ
歩きました。


しばらく歩くと右手に大豊神社がありました。ここは狛犬
ではなくネズミが神の使として鎮座しているので有名です。


そのネズミがいる大国社前まできました。


こちらは左のネズミ。


こちらが右。なかなか可愛い姿をしていました。


域内にはネズミだけでなく他の動物もいました。これは
ヘビです。


愛宕社の前にはトビ、日吉社前はサルでした。


哲学の道を進んで中間位の所を右に入って霊鑑寺へきた
のですが閉まっていました。年2度(3月、11月)しか
特別公開していないみたいです。


続いて安楽寺へも行ったのですが、ここも閉まっていました。


哲学の道最後の立寄り所、法然院へきました。


参道脇には(水晶らしい)幾つもの石が置かれていました。


茅葺の山門が風雅でした。


山門を潜った先に白砂壇(びゃくさだん)という白い盛り砂
がありました。間を通ると心身が清められるといわれて
います。


ゴールとなる銀閣橋に着きました。その後、予定はしていな
かったのですが、時間があったので銀閣寺(慈照寺、世界遺産)
を見て行くことにしました。


銀閣寺垣の間の参道を通って中門を入るとすぐに見る
ことができる銀閣(観音殿、国宝)、中世の楼閣建築を
代表する静かな佇まいをみせていました。


白砂を盛った向月台と、


同じく銀沙灘(ぎんしゃだん)。中国の西湖の風景を模して、
月を愛でるために造られたといわれています。


本堂横の東求堂。国宝です。足利義政が持仏堂として
建てた東山時代の遺構です。


錦鏡池。この池の周りを囲んだ庭園も、銀閣寺のすばらしさ
を表す構成要素になっていますね。


斜面を上った見晴台から見た風景。いいですね。

今回は通常の社寺に加えて、琵琶湖疏水関連などの近代化
へ向けて残された産業遺産や技術の跡もたくさん見てきま
した。こうしたものを見るのも楽しみの一つですね。
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