城郭探訪

yamaziro

仮称)南川瀬城 近江国(彦根)

2014年08月14日 | 平城

ウィキペディアでも河瀬城として記載されているが別所、(河瀬馬場町の河瀬神社付近)

1337年に、源平の戦いで活躍したといわれる那須与一の子孫の宗政が建てたといわれています。
那須与一は、源義経につかえた勇敢な武士の一人であり、屋島の戦いにおいて、平氏の舟のへさきにたてられた扇の的を見事にうちおとした話が有名)です。
また、俗に「白門」と呼ばれる本門には、左甚五郎が作ったといわれる「龍」の彫刻があり、これにまつわる伝説も残されています。
山門がたてられた当時、彫刻の龍は寺の南にあった堂前川に夜な夜な水を飲みに出かけ、村人たちをおそれさせました。
そこで、和尚さんの指示により龍の頭に五寸釘をうちこんだところ、おさまったということです。
現在は、浄土真宗本願寺派のお寺として、阿弥陀如来を本尊としてまつっています。
また、1603年につくられたといわれる枯山水の名庭が、今も一部が残されています。「ふるさと・かわせ」

 

お城のデータ

所在地:彦根市南川瀬町    map:http://yahoo.jp/nGU4E6

現 状:法蔵寺・宅地など

遺 構:土塁(消失か)

区 分:平城

築城期:南北朝時代(1336-1392)か

築城者:京極宗氏の子:定信が池田姓を名乗り池田定信姓

城 主:河瀬大和守秀宗

目標地:法蔵寺

駐車場:法蔵寺前に法蔵寺参拝者駐車場、妙境寺跡駐車場

彦根市史跡

訪城日:2014.8.12

お城の概要

仮称)南川瀬城は、法蔵寺付近一帯にあったとされる元来、河瀬城とされてきた城である。

最近の文化財課の文献等の調査により、河瀬城と呼ばれた城館は川瀬馬場町に所在したのだと見直されている

南川瀬城は、戦国期に戦場となり荒廃した河瀬城から移転した河瀬氏の新城か。

遺構等は確認出来ないが、法蔵寺は付近と比べ微高地となっている。

歴 史

南北朝時代に京極宗氏の子定信が池田姓を名乗って河瀬城を築き同時に天台宗遠久寺を建立したのが始まりである。貞貫、貞親、貞信と続いて一時期美濃に去るが、京極家5代道誉の活躍を支える大きな力となった。

その後は郡家を勤めていた犬上君の子孫にあたる河瀬大和守秀宗が1500年代前半に居城したとされる。

同時期に出城として甘露城・蓮台寺城等を築いた。河瀬氏は犬上君が周辺一帯を治めていた背景からその末裔である河瀬氏は中世末期に多賀神社の大神主としての実権も握っていた。

京極氏が衰退し、浅井氏が江北で勢力を拡大すると、河瀬氏及び支家は浅井氏の傘下となった。

天文21年(1552)に三好長慶に攻められ八木城から敗走してきた香西・波多野連合軍を河瀬氏は匿ったが、周囲を包囲されたため降伏した。

これにより河瀬城は荒廃したため、新たに南川瀬城に居城を移したと考えられる。仏教に厚く帰依していた秀宗は1574年佐目にあった法蔵寺の移転を受け入れ寺院と城郭の一体化したものに変えていった。廃城後は法蔵寺が引き続き当地にあり現在に至っている。

法蔵寺の門前(南西30m)に、武家屋敷か・・・個人住宅が残存します。

 

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、ウィキペディア(Wikipedia)

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

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河瀬城
(滋賀県)
城郭構造 寺院一体型平城
築城主 池田定信
築城年 南北朝時代?
主な城主 河瀬大和守秀宗
廃城年 1500年代後半?
遺構 土塁?
指定文化財 彦根市史跡
再建造物 法蔵寺

 

河瀬城(かわせじょう)は、滋賀県彦根市にあった日本の城。

概要

 南北朝時代に京極宗氏の子定信が池田姓を名乗って河瀬城を築き同時に天台宗遠久寺 (おんきゅうじ - 廃寺時期は不明)を建立したのが始まりである。

[1]その後は郡家を勤めていた犬上君 (いぬかみのきみ)[2]の子孫にあたる河瀬大和守秀宗が1500年代前半に居城した。

同時期に出城として甘露城・蓮台寺城を築いた。しばらくは出城である甘露城・蓮台寺城と共に周辺を統治していたが、1552年10月28日に三好長慶に攻められ八木城から敗走してきた香西・波多野連合軍を河瀬氏は匿い周囲を包囲されたため降伏した。

これにより城は荒廃しつつあったが、仏教に厚く帰依していた秀宗は1574年佐目にあった法蔵寺の移転を受け入れ寺院と城郭の一体化したものに変えていった。[3][4]

廃城は諸説あるが、関ヶ原の戦い以前1500年代後半ごろとされている。廃城後は法蔵寺が引き続き当地にあり現在に至っている。2012年の彦根市教育委員会文化財課の調査によると河瀬神社付近の遺構が河瀬城のものと推定され本項の遺構は南河瀬城のものと推定されている。[5]

河瀬氏 

上述の犬上君が周辺一帯を治めていた背景からその末裔である河瀬氏は中世末期に多賀大社の大神主として実権を握っていた。 

所在していた場所 

  • 近江国河瀬村南川瀬 (現滋賀県彦根市南川瀬町) 

関連項目

  • 法蔵寺 (彦根市)
  • 称念寺 (橿原市)
  • 日本の城一覧

出典

 ^ 日本城郭総覧220ページ 秋田書店

  1. ^彦根市役所 カルタで学ぶひこねのれきし
  2. ^ 『日本城郭大系』11滋賀県 新人物往来社
  3. ^滋賀県教育委員会編「旧愛知・犬上郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』5 1987年3月)
  4. ^ 広報ひこね 2012年5月1日号17ページ 連載企画 - わたしの町の戦国第22回 - 河瀬城 - 河瀬氏ゆかりの平地城館 - (PDF)

 外部リンク

 彦根市立教育研究所 歩いてみよう調べてみよう わたしのふるさと 13.河瀬小れきしマップ (4)河瀬城跡

 


水口古御殿 近江国(水口)

2014年08月14日 | 館跡

徳川和子入内のために幕府が築いた御茶屋御殿。

 

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町水口字御茶後(旧甲賀郡水口町水口字御茶後)    map:

現 状:旧甲賀病院

遺 構:

区 分:御茶屋御殿(宿館)

築城期:江戸期(元和6年)

築城者:徳川幕府

目標地:旧甲賀病院、水口神社

駐車場:旧甲賀病院前の路上駐車場

訪城日:2014.8.13

水口御殿概要図・・・は古城御殿

お城の概要

 水口古御殿は、旧甲賀病院敷地に築かれていた。 遺構は何も残っていないが、単郭方形で周囲に堀を廻らし、東に外枡形を設けた縄張りで、水口城本丸の縄張りとほぼ同じで、ただ規模が一回り小さな御茶屋であったとか。

水口神社参道

歴 史

 水口古御殿は、元和6年に徳川幕府によって築かれた。 徳川和子が上洛・入内する時に築かれてた宿泊施設「御茶屋」で、寛永3年には和子の父徳川秀忠も宿泊している。 寛永11年、三代将軍家光の上洛時に水口城が宿館として築かれ、古御殿は廃城となった。

(徳川 和子(とくがわ まさこ・かずこ、慶長12年10月4日(1607年11月23日) - 延宝6年6月15日(1678年8月2日))は、江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母。また女院として東福門院(とうふくもんいん)。

慶長12年(1607年)10月4日、徳川家康より将軍職を譲られた徳川秀忠と正室・江夫妻の間に7番目の子(5女)として江戸城大奥で誕生する。最初の名は松姫(まつひめ)(和姫(かずひめ)とする説もある)。慶長17年(1612年)には後水尾天皇が即位するが、大御所・家康は和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。入内は大坂の陣や元和2年(1616年)の家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたため延期された。

元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されるが、後水尾天皇の寵愛する女官四辻与津子(お与津御寮人)が皇子賀茂宮を出産していたことが判明すると入内は問題視される。翌元和5年には秀忠自身が上洛して参内し、与津子の兄弟である四辻季継・高倉嗣良を含む近臣らを配流し、与津子と所生の皇女梅宮らを宮中より追放することなどで合意した(およつ御寮人事件)。

元和6年(1620年)入内に先立ち、6月2日に従三位に除せられ、同月18日に後水尾天皇の女御として入内する。入内にあたっては主上に袷百と銀千枚、中和門院に袷五十と銀五百枚、近衛信尋と一条昭良(どちらも後水尾天皇の同母弟で、近衛家・一条家に養子に入っている)に、それぞれ帷子及び単物二十と銀百枚ずつの幕府からの献上があったが、土御門泰重はその量が少ないと日記に記している。入内の様子は二条城から盛大な行列を伴い、『東福門院入内図屏風』に描かれている。元和9年(1623年)には懐妊し、同年6月には秀忠と嫡男家光が将軍宣下のため上洛し、禁裏御領1万石を寄進される。同年11月19日には皇女 女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。

寛永元年(1624年)11月28日には冊立され中宮となり、同2年(1625年)9月には女二宮が誕生する。寛永3年(1626年)には秀忠・家光が上洛し後水尾天皇の二条城行幸が行われ、和子は同年11月13日には高仁親王を出産した。

しかし寛永4年(1627年)、高仁親王は夭折。この年生まれた男二宮も誕生直後に没した。寛永6年(1629年)には朝幕間で紫衣事件が発生し、同年10月8日に後水尾天皇は突然譲位し、女一宮に内親王宣下が下され、践祚する。同年11月9日には院号宣下があり、東福門院の号を賜る。翌寛永7年(1630年)9月12日、女一宮は即位し、明正天皇となる。

寛永11年(1634年)には新将軍となった兄の家光が上洛し、姪にあたる明正天皇に拝謁し東福門院の御所も訪れている。延宝6年(1678年)6月15日、崩御、72歳。京都泉涌寺月輪陵域に葬られた。

寛永11年、三代将軍家光の上洛時に水口城が宿館として築かれ、古御殿は廃城となった。 

旧甲賀病院前に



 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀市誌7巻甲賀の城

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苅間館 近江国(愛知川)

2014年08月12日 | 居館

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町(旧愛知川町)苅間  map:http://yahoo.jp/dMDCzw

現 状:集落・畑地

遺 構:近年の宅地開発や圃場整備で消失

区 分:居館

築城期:南北期

築城者:満島氏

城 主:満島孫市、西川備前守?

目標地:願生寺・苅間公民館

駐車場:苅間公民館路上駐車

訪城日:2014.8.12

お城の概要

苅間館は愛知川流域で近くに隣集落に、北に東円堂城・北東に平井城・東に畑田城、西に大清水城・北菩提寺城が有り、佐々木六角の臣の密集地にある。

苅間館は、現在完全に住宅地となり、土塁跡はある定かでない。城跡はその民家を含む6~7軒の民家が縄張りで、南北に長い変形をしている。

歴 史

近江愛知郡志には、満島氏は苅間村に館す家系を詳にせず。矢守杉立氏の臣なりと見ゆ。永禄三年八月野良田のの勝に乗せし浅井長政黨の高野瀬秀隆、八町の城主赤田信濃守定興等は平井氏攻めんとし途杉立石見守を矢守に攻む。満島孫市は平松城主中井氏と共に出て杉立氏を授(たす)けしに戦敗れて孫市死す

新開略記には、高宮三河守の臣馬場惣佐衛門 満島を打ち取り浅井長政より感状得たり見ゆ。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、近江愛知郡史

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愛荘町町内の埋蔵文化財 会

2014年08月11日 | 城郭・イベント情報

埋蔵文化財の取扱いについては、愛荘町教育委員会町立歴史文化博物館にお問合せください。

No遺跡名所在地種類時代立地現状
1 上三字遺跡 畑田・平居・苅間 条里跡 白鳳~昭和 平地 水田
2 愛知井遺跡 畑田・平居 水路跡 白鳳~昭和 平地 水田
3 畑田廃寺遺跡 畑田 寺院跡 白鳳~平安 平地 水田
4 畑田稲荷古墳群 畑田 古墳 中世 平地 水田
5 畑田城遺跡 畑田 城跡 中世 平地 水田・宅地
6 畑田北遺跡 畑田 散布地 平安 平地 水田
7 平居城遺跡 平居 城跡 中世 平地 水田・宅地
8 平居北遺跡 平居 集落跡 平安 平地 水田・宅地
9 苅間城遺跡 苅間 城跡 中世 平地 水田・宅地
10 東円堂城遺跡 東円堂 城跡 中世 平地 宅地
11 東円堂遺跡 東円堂 散布地 弥生~平安 平地 水田・宅地
12 東円堂北遺跡 東円堂 散布地 弥生~平安 平地 水田・宅地
13 塚原古墳群 東円堂・豊満 古墳 古墳 平地 水田
14 ミグルシ遺跡 豊満 散布地 弥生~平安 平地 水田・宅地
15 野々目廃寺遺跡 豊満 寺院跡 白鳳 平地 水田・宅地
16 泉町遺跡 愛知川 散布地 平安 平地 校地
17 愛知川館遺跡 愛知川 館跡 中世 平地 寺地
18 御墓遺跡 愛知川・中宿 墓跡 中世 平地 宅地
19 久遠寺遺跡 中宿 伝承地 中世 平地 水田
20 沓掛遺跡 石橋・市・長野・沓掛 集落跡 弥生~平安 平地 水田・宅地
21 市遺跡 豊満・市 集落跡 弥生~平安 平地 水田・宅地
22 市村城遺跡 城跡 中世 平地 水田・宅地
23 市西遺跡 沓掛 散布地 平安 平地 水田
24 磯部遺跡 石橋 散布地 平安 平地 水田・宅地
25 磯部館遺跡 沓掛・石橋 館跡 中世 平地 水田
26 戸ケ坪遺跡 川久保 集落跡 奈良~平安 平地 水田・宅地
27 山塚古墳 石橋 古墳 古墳 平地 水田
28 出路市遺跡 長野 伝承地 中世 平地 竹林
29 長野東遺跡 長野 散布地 平安 平地 水田・宅地
30 大門城遺跡 長野 城跡 中世 平地 宅地
31 なまず遺跡 長野 集落跡 縄文~奈良 平地 水田・宅地
32 堀城遺跡 長野 城跡 中世 平地 社地
33 長野遺跡 長野・川原 集落跡 縄文~中世 平地 水田・宅地
34 中村城遺跡 長野 城跡 中世~江戸 平地 宅地
35 福泉寺遺跡 長野 寺院跡 中世 平地 宅地
36 鋳物師屋遺跡 長野 製鉄跡 平安 平地 水田
37 八坂遺跡 長野 集落跡 平安 平地 水田
38 上夏目遺跡 長野 集落跡 平安~中世 平地 水田・宅地
39 川原遺跡 長野・川原 集落跡 平安~中世 平地 水田・宅地
40 狐塚古墳群 山川原・川原 古墳 古墳 平地 水田
41 興禅寺遺跡 山川原・川原 伝承地 中世 平地 畑地・寺地
42 柳遺跡 川原 集落跡 平安~中世 平地 水田・宅地
43 矢守遺跡 矢守 集落跡 弥生~平安 平地 水田
44 栗田西古墳群 栗田 古墳 古墳 平地 水田
45 栗田古墳群 栗田 古墳群 古墳 平地 水田
46 栗田狐塚遺跡 栗田 伝承地   平地 水田
47 元持遺跡 元持 集落跡 古墳~鎌倉 平地 水田
48 栗田城跡 栗田 城跡 中世 平地 水田
49 長塚古墳 長塚 古墳 古墳 平地 社地
50 大間寺遺跡 島川 集落跡・寺院跡 古墳~平安 平地 宅地・田畑地
51 島川城跡 島川 城跡 室町~江戸    
52 島川城跡 島川 城跡 室町~江戸 平地 校舎・宅地
53 塚越古墳 古墳 古墳 平地 水田
54 二ノ川取遺跡 島川 集落跡 縄文~中世 平地 水田・宅地
55 狐塚古墳 香之庄 古墳 古墳 平地 水田
56 高塚遺跡 香之庄 伝承地   平地 水田
57 妙園寺遺跡 香之庄 寺院跡   平地 山林・水田
58 大藪塚古墳 香之庄 古墳 古墳 平地 水田
59 小八木廃寺遺跡 香之庄 寺院跡 奈良 平地 宅地・水田
60 軽野正境遺跡 軽野 集落跡・製鉄跡 古墳・室町 平地 宅地・畑地
61 鷺俣遺跡 安孫子 散布地 古墳~中世 平地 宅地・水田
62 狩野城跡 蚊野 城跡   平地 水田・宅地
63 塔ノ塚遺跡 蚊野 寺院跡      
64 狩野遺跡 蚊野 城跡   平地 水田
65 毛入堂遺跡 蚊野 集落跡 古墳~中世 平地  
66 東出南遺跡 東出・安孫子 散布地 古墳~平安 平地 水田
67 安孫子北遺跡 安孫子・東出 散布地 古墳 平地 宅地・水田
68 安孫子城跡 安孫子 城跡 中世 平地 宅地・水田
69 目加田廃寺遺跡 目加田 寺院跡 白鳳 平地 水田
70 竹ノ尻遺跡 目加田 集落跡 縄文~白鳳 平地 水田
71 目加田城跡 目加田 城跡 中世 平地 水田
72 古戸遺跡 目加田 散布地   立地 宅地・水田
73 円城寺南遺跡 円城寺・常安寺 散布地   平地 畑地
74 深田遺跡 東出 散布地   平地 宅地・水田
75 常安寺西遺跡 常安寺 散布地 平安 平地 水田
76 雨降野遺跡 円城寺 散布地   平地 水田
77 円城寺北遺跡 円城寺・常安寺 散布地   平地 畑地
78 二子塚古墳 常安寺 古墳群 古墳 山麓 畑地
79 常安寺遺跡 常安寺 寺院跡   山麓 寺地
80 高坪山遺跡 常安寺 窯跡 古墳 山麓 山林
81 金台寺遺跡 岩倉 寺院跡   山麓 寺院
82 金剛寺野古墳群 上蚊野・蚊野外 古墳群 古墳 平地 畑地
83 竹原谷古墳群 竹原 古墳群 古墳 山腹 山林
84 光林寺遺跡 竹原 寺院跡 近世 山麓 畑地
85 金剛輪寺遺跡 松尾寺 寺院跡 中世・近世 山腹 山林
86 慶乗寺遺跡 松尾寺 伝承地   山麓 水田

http://www.town.aisho.shiga.jp/main/03_kyouiku/03_bunkazai/01_06_bunkazai.html


仮称)梅垣 奥ノ城 近江国(甲賀)

2014年08月09日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町滝 (旧甲賀郡甲賀町滝)    map:http://yahoo.jp/1zNWfN

現 状:森林

遺 構:曲郭・土塁、堀切

標 高:228.5m  比高差:30m

区 分:丘陵城

築城期:室町期?

築城者:多喜氏

目標地:梅垣城

駐車場:梅垣城の路上駐車場

  後世の宅地跡

お城の概要

梅垣城の北に伸びる、尾根続きに仮称)梅垣奥ノ城は位置する。

丘陵の舌状に梅垣城は、仮称)梅垣奥ノ城の出丸の様相の城構えで、防御性に乏しい。

まさに、詰め城の構えながら防御性は優れれいる。多喜城や岡崎城の様に、踏査漏れなら新発見である。

 

 

梅垣城:龍福寺を越え左折し、集落を抜けたところにY字の交差点を右に曲がります。

この交差点に「梅垣城」の道標があります。右折した正面の山が城跡です。

(山裾に説明板と滋賀県教育委員会の「文化財を大切に」という石柱が立っています。) 

この説明板の右手の道民家の間の道を入り左手の民家の庭先を通り10mも登ると虎口です。

 ・甲賀の城は、数が多いせいかそれとも私有地が多いせいか、整備されている城跡・説明板や碑のある城跡は少ない。

 ・滋賀県教育委員会の石柱はいたるところに立っているが、城名は書かれていない。

     山麓東側に滋賀県教育員会の「文化財を大切にしよう」の碑

 旧甲賀町で説明板の設置してある城は梅垣城・和田城・滝川城・佐治城・笹山城・最近高野城にはステンレスの駒札が新設された。(第二名神工事に発掘の恩恵か)                    最近高野城にはステンレスの駒札(説明板)「甲賀市史 甲賀の城(概要図つき)より」初めて見た!

尾根筋へ

歴 史

仮称)梅垣奥ノ城は、城であれば、多喜氏の城になりますが詳細は不明です。

尾根筋尾根の削平地尾根から池を望む 堀切

正面 梅垣城

仮称)梅垣奥ノ城

ガードレールの手前に駐車

 

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀市誌7巻甲賀の城

 

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油日館 近江国(甲賀)

2014年08月09日 | 居館

神社参道右手にある『油日館』石碑の裏(南側)に築かれていました。

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町油日字金剛寺 (旧甲賀郡甲賀町油日字金剛寺)    map:http://yahoo.jp/1zNWfN

現 状:竹林

遺 構:土塁、堀

区 分:居館

築城期:室町期?

築城者:上野氏

城 主:上野氏

目標地:油日会館、善徳寺

駐車場:油日神社参拝者用の無料駐車場

訪城日:2014.7.28

お城の概要

油日館は、甲賀郡総社油日神社の境内西側、神社の参拝者用駐車場から神社へと向かう参道右手に油日館の立派な石碑が建てられている。 この石碑の南側一帯に油日館が築かれていた。 県道の坂道脇から竹藪の中を見ると、館の土塁が一部残存しているのが確認することができる。

館は油日神社の前の道と県道131号線の交差点にある。

竹薮の中には土塁が残り、北側に堀跡と思われる窪地が土塁に沿って残っている。この土塁は北端のようで西端はL字に南側へ曲っているが若干残っているのみで大半は削られているようだ。

油日館は、油日神社の西側に位置し土塁囲みの曲Ⅰ・Ⅱで構成される複郭構造です。
 

歴 史

 油日館は、築城年代や築城者は定かでない。 油日城共々上野氏が城主であったと考えられている。

館は下屋敷、近くの丘陵にある油日城は詰め城、上野氏の館・城です。

駐車場:油日神社参拝者用の無料駐車場

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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大原忠道屋敷  近江国(甲賀)

2014年08月09日 | 居館

大原忠道屋敷跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町神小字今朝丸  (甲賀郡甲賀町神小字今朝丸)  map:http://yahoo.jp/UQoFeu

現 状:大原薬品の駐車場

築城期:

築城者:大原氏

初城主:大原忠道

区 分 :平城

遺 構 :消滅

目標地:佛性寺・大原薬品工業工場・奥殿屋敷(奥殿城)

駐車場:佛性寺・大原薬品の駐車場

訪城日:2014.8.8

お城の概要

忠道屋敷は 現在の大原薬品の駐車場になっているところにあった。、(「奥殿屋敷」は奥殿城・・・土豪屋敷の向かい)

近くに西ノ口城があることから、そこの城主かまたはそれに近い武士が大原忠道と名乗って屋敷を構えたといわれている。

 忠道屋敷も中世の平地城郭の面影を残した、神村一帯の豪族の城郭といわれている。

歴 史

中道屋敷は、築城年代や築城者等詳細不明であるが大原氏

同集落に、殿屋敷城とも東西に貫通する主要道に隣接する。同様の複数城郭遺構の存在した可能性を残す。

現在西ノ口には、周囲に土塁を積んだ屋敷跡が4箇所残っている。なお屋敷跡の隣には必ず竹やぶがあった。 

西ノ口城 近江国(甲賀)  奥殿城(奥殿屋敷) 近江国(甲賀)

参考資料:甲賀市史(甲賀の城)四七六頁、

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神保(じんぼう)城 近江国(甲賀)

2014年08月09日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町神保小字門ノ前  (甲賀郡甲賀町神保小字門ノ前)  map:http://yahoo.jp/WdTELG

現 状:竹林(筍山)

築城期:室町期

築城者:神保氏

城 主:神保兵内(甲賀武士・甲賀忍者)

区 分:丘陵上

遺 構:土塁、曲郭、(後世の)切通し

目標地:甲賀北保育園、日吉神社

駐車場:農道・路上駐車

訪城日:2014.8.8

甲賀北保育園の南側(佐治川沿いの農道に、駐車)佐治川を渡り 北側から登城http://yahoo.jp/jHY40T 尾根道(佐治川沿い)を城址へ

お城の概要

神保城は、杣川の支流の佐治川流域の甲賀・神保の大藪集落に接した丘陵上に位置する。周囲の地形は複雑で集落から10m~20mの小丘陵は広がっている。

 城は「城山」と呼ばれ比高20mの頂部に存在する。曲郭は尾根の自然地形に沿って削平され展開する。

中央不自然な堀切aがあるが後世に開削され切通しであろう(筍山として綺麗に整備され、集落からの登城路も整備されている)。尾根の東部に削り残した土塁bが残る。その西の曲郭部に微高差の高まりを確認できる。

歴 史

近江国甲賀郡に居住した神保一族もおり(甲賀五十三家のひとつに数えられている)、北山九家のひとつ」。

【六角氏と甲賀武士】

 甲賀武者 甲賀郡の山中に潜み、反撃のチャンスをうかがっていた六角軍は、長享元年十二月になって甲賀山中から幕府軍が撤兵し始めたころ、突如として鈎陣中に夜襲をかけた。『後法興院記』同年十二月三日条によると、「昨日、甲賀の諸勢、開陣の處へ、牢人数千蜂起し、頗難儀に及ぶと云々」とあり、また『甲賀二十一家先祖書』の中の「甲賀二十一家之由来」には、「六角高朝臣、甲賀之城主等を以て、先手として夜討也。此合戦に甲賀土武者五十三人の内、二十一人軍功著によりて、世に之を二十一家という」と記されており、六角高に従軍した甲賀武者たちの動向を知ることができるのである。特に高にとって甲賀の地は、逃避地として重要な位置であり、また甲賀郡内も土豪衆として結果を図る甲賀武者たちの活躍は、高方の軍事力に欠くことのできぬものであった。幕府の陣中を襲うことができたのも、その証左といえよう。

 さて、鈎陣中を攻撃した甲賀武士については、甲賀五十三家のうちに十一士が殊勲者として伝えられている。五十三家とは中世以降、小農民の急成長の中で生まれてきた名主層で、甲賀郡域に点在し、その地において勢力を、たくわえ特に戦国期において守護六角氏の麾下に属して奔走した。『青木八郎右衛門家文書』(甲西町)の、「甲賀侍五十三家」によると次の名前が知られる。

  大原源三 鵜飼源八 佐治河内 内記伊賀 服部藤太夫 神保兵内 岩室大学 和田伊賀 芥川左京 上野主膳

  大野宮内 美濃部源五 伴左京 隠岐左近 大河原源太 頓宮四方助 高峰蔵人 瀧勘八 山中十郎 池田庄左衛門 高山源太左衛門 多羅尾四郎兵衛 夏見覚内 岩根長門 野田五郎 青木筑後 葛木丹後 小川源十郎 上山新八郎 儀俄越後 黒川久内 中山民部 高嶋掃部 杉谷与藤次 山上藤七 宇田藤内 鳥居兵内 三雲新蔵人 大久保源内 小泉外記 土山鹿之助 八田勘助 倉智右近 針和泉 饗庭河内 杉山八郎 牧村右馬 上田参河 平子主殿 新庄越後 高野越後 長野刑部

 以上の交名は、六角高方に従軍した者たちである。それぞれの本拠とする場所を示したのが図37である。この五

十三家のうち、服部・青木・内貴の三家は、石部町内に住居を構えていたことがわかる。

 なお甲賀武士の評価については、貞享年間(1684~7)に編さんされた近江の地誌として有名な『淡海温故録』に、次のように記されている。

  甲賀武士は、累代本領を支配し、古風の武士の意地を立て、過奢を嫌い、質素を好み、大方小身故に地戦計りに出つ。然れども一分一並の武勇は嗜み、故に皆今の世迄相続し、家を失わず、国並の家々とは格別の風儀なり。世に甲賀の忍の衆と云ふは、鈎陣に神妙の働あり。日本国中の大軍眼前に見及し故、其以来名高く誉を伝えたり。元来此忍の法は、屋形の秘軍亀六の法を伝授せし由なり。其以来、弥鍛錬して伊賀甲賀衆誉多し。甲賀五十三家の目あれど、其家詳ならず云々。

集落側の(筍道)城道後世の切通し東の土塁 

神保氏は室町幕府管領畠山氏の鎌倉以来の譜代家臣で、畠山氏の領国越中、紀伊などの守護代を務めた。

 ・・・・長職の嫡子神保長住は武田派であったとみられ、越中を出奔して京に上り織田信長に仕え、越中帰還の機会を待った。

 やがて上杉謙信が急死すると、信長は長住に兵を与えて越中へ侵攻させ、長住は富山城に入城して神保家の実権を取り戻した。しかし天正10年(1582)3月、小島職鎮らが上杉方に呼応して一揆を起こし、長住は富山城を奪われ幽閉された。織田勢により富山城は奪還されたが、信長はこれに怒って長住を越中から追放し、越中守護代神保家は滅びた。

庶流の神保氏張の家系は佐々成政、徳川家康に仕えて旗本となったが、この家は後に平氏を自称した。一方長誠から分かれた紀伊守護代家の神保家も、豊臣家、徳川家に仕えて旗本として生き残った。

また近江国甲賀郡に居住した神保一族もおり(甲賀五十三家のひとつに数えられている)、これも越中神保氏と同族で旗本となっているが、この家は橘氏を自称した。 日本最大の書店街として知られる東京の神保町は元はこの地に旗本・神保氏の屋敷があったからだと言われている。

橋から遠景

バス停から農道を佐治川まで、正面は神保城の遠景 日吉神社バス停

神保氏について詳細は・・・http://senko.無料hp.com/2.html

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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市場陣山城(じんやまじょう)  近江国(甲賀)

2014年08月09日 | 平城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町大原市場  (甲賀郡甲賀町大原市場)  map:http://yahoo.jp/llevUF

現 状:竹林・宅地

築城期:室町期

築城者:大原氏

区 分:平城

遺 構:土塁、堀

目標地:JR甲賀駅

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.7.16

お城の概要

杣街道沿いで、JR草津線で分断され、宅地化が進み線路沿いに南側の一部に土塁・堀が残る。

JR草津線「甲賀駅」から北西へ約250m。甲賀駅から杣街道へ200m程西へ進んだ、線路沿い西の民家背後が城跡。

個人宅とJRの線路のために城跡に入りづらく、竹藪で昭和38年空撮の地籍図では東西50m南北80mの規模、JRと工場地(県道4号線側)・宅地化で改変は大きく、JR草津線の南側のみ残存する。

杣川の段丘に更に土塁を3mも盛土を積み上げ大規模な土塁を築き、竹林内に土塁と堀で固めている。

 市場陣山城は元々は陣山と呼ばれる複数の郭と、補陀楽寺境内となっている平城とで構成されていたようです。現在はJR草津線により分断され、さらに地形もかわってしまっているようですが

補陀楽寺は土塁がよく残されています。別名補陀楽寺城とも呼ばれるようですが、ちょうど同寺の境内を囲むように方形の二方面を高さ1メートル強の土塁がまっすぐに伸びています。
 場所はJR草津線「甲賀」駅から西へ300メートルほどのお寺境内です。このような土塁の城は実は付近にはごろごろしていますが。

歴 史

市場陣山城は大原氏の室町期に居城とされている。

織田信長により廃城とされた。

大原市場の管理と、杣川の水運・杣街道の陸運の監視・監督を担う城郭であったのカ?

市場陣山城は、補陀楽寺城とは、全く違った城郭・築城がされている。

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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多喜城(元・多喜北城) 近江国(甲賀)

2014年08月08日 | 丘陵城

高い土塁が残る多喜氏の戦国時代の本城。

この城は多喜北城と呼ばれていましたが、現在は「多喜城遺構」と変更されました。

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町滝字南平・滝迫 (旧甲賀郡甲賀町滝字南平・滝迫)    map:http://yahoo.jp/HryD7v

現 状:山林

遺 構:曲輪、土塁

区 分:丘陵城

築城期:鎌倉期中頃(1280年前後) 弘安7年

築城者:多喜彦太郎家継

城 主:多喜彦太郎家継

城 域:東西130m×南北100m

標 高:220m  比高差:20m

目標地:元龍寺

駐車場:愛宕社・元龍寺

訪城日:2014.8.8

お城の概要

多喜城には、5つの支城(多喜北城・多喜南城・梅垣城・青木城東城・西城)があり、今回訪れた多喜城が戦国時代の本城と云われている。

多喜城は、甲賀:多喜の片山集落の南方に位置し、祠(若宮社)があり。100m先の左手に山に登る石段があります。(登る口に滋賀県教育委員会の「文化財を大切に」という石柱が立っています。) これを登ると墓地があり、この墓地の背後をすこし登ると城址の堀切に出ます。堀切の左手が主郭です

 墓地周辺は寺跡だったようです。墓地の北側(城址とは反対側)も10mほどの高台になっていて、頂部は削平された感じで櫓台のような気がします。墓地より南側に20mほど登ると堀切状の箇所にでます。この左手の高まりを越えると主郭の削平地です。高まりは土塁で、主郭をコの字で巡ります。高さは5mほどあり、山肌を削り込んで作られているようです。主郭内は幅50mほどありそうで、奥行きは30mほどありそうですが、竹薮状態で見通せません。北側は崖になって落ちています。この城は多喜北城と呼ばれていましたが、現在は「多喜城遺構」と変更されました。滝公民館前に設置されている滝の史跡案内板では多喜城となってます、墓地まで城域。

城は滝集落の南側の丘陵の北端に築かれている。 北側から登って行くと墓地があるが、そこも城域で北側に土塁が残る。更に登ると竹薮となった平坦地があり、南側に高土塁が残っている。

滋賀県中世城郭分布調査には、多喜城の記載なく、多喜城は多喜北城の縄張りを。多喜北城はこの多喜城の南東側にあります。

甲賀市誌7巻(甲賀の城)には、多喜城・多喜南城・多喜北城の3城の標記があり(1984.3には現・多喜北城は踏査されていなかった)。

 多喜城は山の山腹にあり、主郭部にはコの字状に土塁が残っていて、特に主郭部東側の土塁は高さ約5m程の高さがある。 更に主郭部東側には2段の削平地があり、そこは現在竹藪と墓地になっていた。 

 

墓地から、登城し曲郭Ⅰの土塁上を南側の櫓台10m×5mを残す、此の南側は大堀切で遮断・・・・ここから元龍寺に下城した。

歴 史

多喜城は、弘安7年に多喜家継によって築かれた。  多喜氏は、伴四党(大原・上野・伴・多喜)の一つで、家継が多喜氏の祖とされている。 

多喜城は鎌倉期中頃(1280年前後)に多喜彦太郎家継によって築かれたと伝えられます。家継が多喜氏の祖と言われています。 多喜氏は伴四党(大原氏・上野氏・伴氏・多喜氏)の一つと伝えられます。 <梅垣城 現地案内板より参考>によって築かれたと伝えられます。

家継が多喜氏の祖と言われています。 多喜氏は伴四党(大原氏・上野氏・伴氏・多喜氏)の一つと伝えられます。 <梅垣城 現地案内板より参考>

多喜一族には、水口岡山城初代城主であった中村一氏(かずうじ)がいる。 多喜(滝)家 - 一族の著名人物として中村一氏・多喜勘八・瀧飛騨守がいる。

甲賀五十三家の1つは、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、甲賀二十一家の1つは、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

祠と元龍寺・・・多喜城と多喜北城の繋ぎ道(後世)

 

愛宕社横に駐車しました元龍寺にも駐車可

見学訪城には、登城路・土塁上は明確だが、曲郭内は竹林で不明瞭であった。墓地(北西側)から登城をおススメ。

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌7巻甲賀の城

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多喜城南 近江国(甲賀)

2014年08月08日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町滝小字滝迫(旧甲賀郡甲賀町滝小字滝迫)    map:http://yahoo.jp/7FqGrJ

現 状:山林

遺 構:曲輪、土塁

区 分:丘陵城

築城期:鎌倉期中頃(1280年前後) 弘安7年

築城者:多喜彦太郎家継

城 主:多喜彦太郎家継

城 域:東西130m×南北100m

目標地:元龍寺

駐車場:愛宕社・元龍寺

訪城日:2014.8.8

お城の概要

多喜城郭群には、多喜城と5つの支城(多喜北城・多喜南城・梅垣城・青木城東城・西城)があり、

多喜北城は、甲賀:滝の片山集落の南方、多喜城の南西に位置し、元龍寺の南正面の丘陵の竹林の背後に土塁・曲郭・櫓台び観音石佛を残す。

標高228mの丘陵の先端部に東西20m・南北40mの曲郭Ⅰは周囲を土塁を設ける。

その南東隅に櫓台(7m×4m)、ここに、観音石佛を残す。この西に大きな竪堀が。

曲郭Ⅰの虎口bは北側に開き、曲郭内の中央部には東西に段差が残る。更に20m下に曲郭Ⅱが25m×20mを測る

林道を登り、頂部に土塁を左へ

片矢登・・・櫓台へ

歴 史

  多喜氏は、伴四党(大原・上野・伴・多喜)の一つで、家継が多喜氏の祖とされている。 

多喜城は鎌倉期中頃(1280年前後)に多喜彦太郎家継によって築かれたと伝えられます。家継が多喜氏の祖と言われています。 多喜氏は伴四党(大原氏・上野氏・伴氏・多喜氏)の一つと伝えられます。 <梅垣城 現地案内板より参考>によって築かれたと伝えられます。

多喜一族には、水口岡山城初代城主であった中村一氏(かずうじ)がいる。 多喜(滝)家 - 一族の著名人物として中村一氏・多喜勘八・瀧飛騨守がいる。

甲賀五十三家の1つは、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、甲賀二十一家の1つは、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家を指し、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

多喜城と多喜北城の繋ぎ道に(祠と元龍寺)

元龍寺の正面に多喜北城(竹林の左上)

多喜北城遠景

多喜城・・・愛宕社から

愛宕社横に駐車しました元龍寺にも駐車可

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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羽田陣屋 近江国(八日市)

2014年08月05日 | 陣屋

 

仙台藩代官屋敷の大庄屋敷の長屋門が現存。

 

仙台藩代官屋敷…羽田陣屋近くに長屋門『大庄屋久保屋敷』

長屋門の内側門を入ると、正面に止め石!

長屋門『大庄屋久保屋敷』の表札(読めませんが)

 

 

羽田陣屋跡と遠景(雪野山城=木の向こう・・・後藤屋敷の詰め城)

お城のデータ

所在地:東近江市上羽田町 (旧八日市市上羽田町)    map:http://yahoo.jp/hjPmgf

現 状:田畑、宅地

遺 構:長屋門・大庄屋屋敷(末裔がお住まい)

区 分:陣屋

築城期:江戸期

築城者:仙台藩伊達氏

 

目標地:羽田神社

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.7.31

お城の概要

近江の羽田陣屋は江戸期に仙台藩の飛び地の管理の為に、羽田南方に寛文四年(1664)に創建された仙台藩屋敷で陣屋。敷地は東西54m・南北133.2mの煙硝蔵を持つ大規模なもの。

正保年間に近江国内の陸奥仙台藩領を管理するため置かれた陣屋で、明治初年に廃止された。

30間余、横70間余の敷地は矢来で囲まれ陣屋のほか兵具蔵・焔硝蔵・囲穀蔵・大庄屋会所・門番宅があった。現在は宅地や田畑になっている。

現在は集落の羽田神社より跡地は宅地・田畑の改変され、往時を偲ぶことは出来ない。

 

 

【万石堤と50年の森】

遺 構:土塁状の万石堤・現地説明板

駐車場:八日市福祉センター(ハートピア)の駐車場

ハートピア入口に説明板

今崎と今堀の村境を流れる蛇砂川は天井川で何度も反乱を起こしていました寛政三年(1791)八月の水害では、多くの家屋や田畑が浸水したため、住民は仙台藩に救助を願いでました。そこで、川の北側にある森を遊水地として、これを取り囲む五尺(約1.5m)、長さ三百六十間(約650m)の土手が築かれました。

  六十二万石の仙台藩が造ったので万石堤と呼ばれています。太平洋戦争中、八日市飛行場が拡張されたため、堤の大半は壊されて、今はその一部は八日市福祉センター(ハートピア)の北側に残っています。 中野地区まちづくり協議会(現地説明板)

  尚、仙台藩の陣所は東近江市(旧八日市市)上羽田に置かれいました。

残された万石堤と50年の森(川の北側にあるを遊水地)は荒廃・ゴミ捨て場と化していたが、2013~4年に中野地区まちづくり協議会によって整備され市民の憩いの場として生まれ変わりました。

歴 史 

仙台藩の陣所は東近江市(旧八日市市)上羽田に置かれいました。

江戸時代、仙台藩(62万石)伊達氏の飛び地(領地)であったため、万石堤と呼ぶ。  ハートピア入口に説明板 仙台藩は、江戸時代に主として現在の宮城県全域と岩手県南部(北上市まで)および福島県新地町を領地とした藩である。旧字では[仙臺藩。 居城は現在の仙台市にある仙台城で、石高は62万石。江戸時代全期を通じて外様大名の伊達家が治めた。知行地には茨城県・滋賀県に数か所の飛び地があった。

江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩と呼ばれることもある。

関ヶ原の戦いの功績により、慶長5年(1600年)に刈田郡3万8000石の加増を受けるが、政宗は不服を訴え続け、慶長6年(1601年)には近江国蒲生郡内5000石、慶長11年(1606年)には常陸国信太郡、筑波郡、河内郡内1万石、寛永11年(1634年)には近江国蒲生郡内5000石の加増を勝ち取った。この結果、陸奥国内の一円知行地に60万石、陸奥国外の飛び地として近江国に1万石、常陸国に1万石で合計62万石となり、これが幕末までの仙台藩の基本的な石高となった。

飛び地の近江国

旧  国郡     名継目判物旧高旧領取調帳
村数石高(表高)村数   石高(内高)
近江国 蒲生郡之内 18 8,842.794 18 12,220.49600
野洲郡之内 2 1,157.206 2 1,157.20600
小計 20 10,000.000 20 13,377.70200

近江国 - 蒲生郡と野洲郡とに9,999石2斗4升4合

蒲生郡内18ヶ村

  • 現・滋賀県東近江市の一部(青葉町石塔町市辺町今崎町今堀町沖野2丁目春日町上羽田町小今町幸町栄町昭和町聖徳町聖和町中野町西中野町東今崎町東中野町ひばり丘町蛇溝町八日市金屋1~3丁目八日市清水3丁目八日市野々宮町八日市東本町
  • 現・滋賀県近江八幡市の一部(桜宮町末広町鷹飼町出町友定町西生来町八幡町安土町内野安土町西老蘇安土町東老蘇
  • 現・滋賀県蒲生郡日野町の一部(北脇
  • 現・滋賀県蒲生郡竜王町の一部(橋本
  • 野洲郡内2ヶ村
    • 現・滋賀県野洲市の一部(市三宅小篠原) 

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、万石堤説明板

 

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水口城(碧水城・水口御茶屋御殿) 近江国(水口賀)

2014年08月04日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町水口字中邸(本丸部分) (旧甲賀郡水口町水口字中邸(本丸部分))    map:http://yahoo.jp/hjPmgf

別 名:碧水、御茶屋御殿

現 状:水口高校グランド・水口城資料館

遺 構:本丸跡(グランド)、水堀、土塁、乾櫓石垣、移築門

区 分:平

築城期:江戸期 寛永9年(1632)

築城者:徳川幕府

城 主:初城主:坪内玄蕃(城代)・水口藩:加籐明友

城 域:360m×360m

目標地:水口城、水口城資料館 

駐車場:水口城資料館・体育館無料駐車場

県指定史跡

訪城日:2014.8.3

お城の概要

水口城は明治維新後廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されたが、本丸跡地のみ保存され、水口高校のグランドとして使用されている。

 グランドの周囲には
今なお土塁が残り、その外周には水堀が巡り、北西角には乾櫓の櫓台が良好な状で残っている。
堀の水は湧水を利用しているといわれ、水深は15mもある薬研堀であるという。なお、水口城が碧水城とよばれる所以は涌水だけを使用していたためとされ、現在でも湧水の取り口や排水口は不明である。

 御成門付近の石垣と乾櫓の石垣は、中村一氏が築城した岡山城(水口古城)から運んだ石で積まれているとされる。

 大手門口の出丸部には、平成3年(1991)に模擬櫓(水口城資料館)が建てられている。
 なお、水口町蓮華寺の本堂に水口城の玄関が、大岡山(水口岡山城のある古城山)の麓の大岡寺に茶室が移築されている。

  

歴 史 

 水口は京から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに町並が形成されていたとされる。
天正13年(1585)羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展を見せた。

関ケ原合戦後、この地を幕府直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定し、家康自身もしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺などに宿泊している。

  江戸幕府3代将軍徳川家光が寛永11年(1634)に上洛の際の宿館として小堀遠州に築かせた水口城があります。その後、天和2年(1682)別名「碧水城」といわれた城です。

  寛永11年(1634)三代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせたのが水口城である。
近江には同じ目的で建てられたものが、柏原御殿、伊庭御殿、および永原御殿がある。

 水口城の築城は幕府の直轄で行われ、その作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(小堀遠州)があてられた。
延べ10万人の大工が動員され、本丸は京都二条城を小型にしたものと云われている。 しかし、その後家光は上洛することなく、幕府の管理下で城番が置かれた。なお、水口城は居館式城郭で本丸と二の丸曲輪だけで構成されていた

天和2年(1682)石見国から加藤明友が入封して水口藩2万5千石の居城となり、水口藩が成立、以後明治維新まで続いた。

 

水口藩加藤家文書

老中奉書老中奉書(天和3年に水口城の門の立替えを許可する内容
江戸時代、水口には水口藩が置かれました。それは天和2(1682)年に、石見国吉永(現島根県大田市)から加藤明友が、1万石加増の2万石で就封したことに始まります。加藤家は「賤ヶ岳の七本鎗」の一人として有名な加藤嘉明を祖とする外様大名で、明友を初代藩主として、明英・嘉矩(以後2万5千石)・明経・明熙・明堯・明陳・明允・明邦・明軌・明実と幕末まで藩主をつとめました(ただし藩主としては明英と嘉矩の間に譜代大名の鳥居忠英が一代入り、明英以降は譜代格となります)。

水口藩は小藩とはいえ、甲賀地域に城を構える唯一の大名であり、甲賀の歴史に大きな足跡を残していますが、家臣団の構成や藩政機構、明治維新期の動向など、藩政の実態は史料の不足から不明な点が多く残されていました。

 辞令辞令(写)(明治2年に加藤明実を水口藩知事に任じる

しかし、近年水口町内に大量の古文書が残されていることが分かり、その寄贈を受けたのを契機として、平成18(2006)年から4年をかけて詳細な調査を実施した結果、近世初期~大正期の総点数1万3983点にも及ぶ古文書群であることが判明しました。

「水口藩加藤家文書」と名付けられたこの古文書群には、実に多様な史料が含まれています。近世のものとしては、加藤嘉明へあてた豊臣秀吉・秀頼の朱印状をはじめ、徳川家康・秀忠以降家茂まで歴代江戸幕府将軍からの「御内書」(献上への礼状)約640通、水口藩の成立などを示す「老中奉書」約400通、幕府役人や他大名などからの書状約200通、加藤家が勤めた大坂加番などの軍役関係史料約180点、江戸藩邸でまとめられた藩日記、水口藩領の村絵図などがあります。

また近代以降のものとしては、王政復古の頃の水口藩知事任命書や、廃藩置県にともなう明治政府からの一連の通達類など、近代水口藩から華族加藤家への移行期に関するもの、また加藤家のみならず、華族全体の動向を知ることもできる書状・廻達文・記録などがあり、これらは、近世のものと合わせて、全国的にも貴重な古文書群であることが判明し、その成果は平成22年3月に甲賀市教育委員会が刊行した『水口藩加藤家文書調査報告書』にまとめられました。

 駐車場:水口城資料館・体育館無料駐車場

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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富川屋敷  近江国(甲賀)

2014年08月04日 | 平城

美濃部同名中を構成した富川氏の居館。

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町水口字美濃部 (旧甲賀郡水口町水口字美濃部)    map:http://yahoo.jp/hjPmgf

現 状:宅地

遺 構:土塁、土壇

区 分:平

築城期:織豊期

築城者:美濃部富川氏

城 主:美濃部富川氏

目標地:水口城資料館・水口高校

駐車場:水口城資料館・体育館駐車場

訪城日:2014.8.3

お城の概要

富川屋敷は、水口高校校舎南側の住宅地となっている一角にあった。 「城南地区老人憩の家」の南側に土壇の一部が残されている。 

木造橋の南西、水口城お¥のある段丘から一段下った南側集落内部に高さ4mの土壇があり付近が冨川屋敷である。土壇から南北に土塁の痕跡に見える。地籍図では土塁部分に南北に竹藪がL字に状に広がり東側の屋敷を囲んでいる。

一ノ井と馬渡川の交差する。北側に位置する。

歴 史 

富川屋敷は、築城年代は定かでないが富川氏によって築かれた。 富川氏は、美濃部同名中の一つ。

江戸中期の絵図の富川屋敷跡の名が見る

美濃部家は徳川家旗本として江戸幕府に仕えた。甲賀武士。甲賀忍を形成していた「甲賀五十三家」「甲賀二十一家」のうちの一家である甲賀地方の国人。(滋賀県甲賀市水口町の領主)。

美濃部家の 一族の著名人物として: 美濃部達吉・美濃部亮吉・美濃部洋次・古今亭志ん生・古今亭志ん朝・池波志乃・美濃部貞功・美濃部正;美濃部直彦・美濃部ゆう・美濃部達宏 がいる。

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

           本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


美濃部古屋敷 近江国(甲賀)

2014年08月04日 | 平城

水口高校敷地内

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町水口字美濃部 (旧甲賀郡水口町水口字美濃部)    map:http://yahoo.jp/hjPmgf

現 状:高校・宅地・水口城

遺 構:土塁

区 分:平

築城期:室町期

築城者:美濃部氏

城 主:美濃部氏氏

目標地:水口城資料館・水口高校

駐車場:水口城資料館・体育館駐車場

訪城日:2014.8.3

残存土塁

お城の概要

美濃部屋敷に水口城(水口御殿)が築城された。http://www.shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/22_kido.pdf図4 美濃部氏関係城館推定位置図(木戸雅寿)

美濃部氏の城館の跡地に徳川幕府は再び平城として城を築いたことも、今も水口の中心たることを考えてもその重要性が理解できるであろう。

美濃部古屋敷は、水口高校の校舎敷地から東側の住宅地辺りが城域であった。 水口高校から一つ東側の通り(南小路)沿い東側にあるアパート二棟の敷地北側に「L字」の土塁が竹藪の中に残る。 この土塁が美濃部古屋敷の東のライン。 また、南小路はアパートから南50m程でクランクに曲がっているが、ここが古屋敷の門跡の場所

鈴鹿峠から横田の渡しへと街道が走る結節点に当たる位置である。野洲川にもほど近く、交通の要所として人の往来と地域を抑えるには格好の場所であったといえる。

さて、美濃部氏の居館が近世水口城で破壊されていることが事実であれば、居館はすでに破壊されたことになり姿形を明確にすることは困難である。ただし、類推することは可能である。それを考えるヒントとなるのが、同じ柏木三家のひとつである植城の存在である。植城は、一族郎党の居館が連なったと考えられる複郭式の城館群(200m×約300m)を中心として、その外に出屋敷である方形城館(約50m四方)が付く形となることが近年の発掘調査等で判った。同じような地域的な位置関係と領主クラスの格からすると、同じような形態の城が考えられる。 

ここで問題となるのが、美濃部氏居館とは別に、それよりも南東にずれた位置に存在したと伝えられている「水口出屋敷」という方形居館の存在である。水口出屋敷跡については「美濃部出屋敷遺跡の調査」に詳しい。(ただし、残念ながら平成13年度版『滋賀県遺跡地図』には、遺跡として周知されていない。)出屋敷の位置は、水口城の西、「字八光」の位置である。報告によると、南正面、信楽街道が90度東に曲がるあたりに「木戸口」であったとされ、さらに左折して北上する八幡街道から慶長期の東海道、八幡宮までを北限とする方40m四方の敷地とされている。現況では前面の道からの平坦地が東海道で屈曲していることが分かる。土塁は東側の八幡街道沿いと西側の水口高校側の一部に、近世に小家臣団屋敷に分割されたにもかかわらず破壊されず近年まで残存していた。また、郭内は井戸の痕跡も認められている。また、水口高校の周囲にも土塁が残存している。布袋塚と呼ばれる塚も位置的に見て土塁の一部と考えられる。現在の梅ヶ丘辺り一帯が梅ヶ畑にあたり、美濃部一族の代々の屋敷が建ち並んでいた場所である。さて、美濃部氏の館を利用して水口城を築いたとするならば、その規模は、40~50m四方と考えられ、これらふたつの屋敷と隣接した関係になる。近世水口城の方角と美濃部出屋敷遺跡の方位が一致することを考えると、もとの美濃部館もその方向が一致すると考えられる。つまり、この辺り一帯に美濃部氏の居城が植城のような連結した城館群として存在していた可能性は高いと判断されるであろう

正面に、岡山城

歴 史

甲賀二十一家の一つ・・。柏木三家(山中十郎・伴佐京介・美濃部源吾)                                                     甲賀二十一家、五十一家として位置づけられるほど、郡中惣の中の甲賀武士として大きな役割を果たしていた。

『佐々木南北諸士帳』の美濃部源吾

『山中家文書』の中に見える美濃部茂(重)国、美濃部六右衛門尉、美濃部茂在、美濃部茂良、美濃部茂濃、美濃部治茂など

信長の家臣:美濃部茂濃・地茂は金指物番として信長の配下に組み込まれており

豊臣秀吉の家臣ともなっている。周知の通り、甲賀衆は天正13年(1585)に最終的に秀吉の勘気に触れ、惣中が改易され帰農させられてしまう。

徳川家康:美濃部茂濃は天正10年(1582)の本能寺の変の時に、世に言う「神君、伊賀・甲賀越」により、徳川家康を伊勢白子まで逃がした人物として名を残す。その功により、慶長5年(1600)に甲賀衆全体が赦免される。

 

美濃部郷から水口郷へ・・・参照資料http://www.shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/22_kido.pdf
『水口町志』⑷によると、水口という名称には、①この地の開発の祖であった水口神社の祭神でもある大水口宿禰命の名に由来する。②水口神社祭神大国主命(大己貴命)が神田に蝗が発生したときにも水口の祭りをして防いだことに由来する。③横田川の水口を設けていたことに由来する。などの説があげられている。これらはいずれも水の口としての意味合いを持ち、地名としての水口郷の名は室町期に成立するとされている。

残された文献からは、古代にあってこの地は山直郷(『延喜式』)に属しており、後に美濃部郷となり、菅原氏の荘園として栄えていたとされている。中世にあっては聖護院門跡の蔵田荘にも属し、その後に水口郷となったと考えられている。このように水口と美濃部、どちらが先かは明確ではないが、中世におけるこの地の出発点は、歴史的に見て美濃部であり、在地領主美濃部氏の領地であったようである

甲賀武士美濃部氏とその城館
(1)美濃部氏の出自について
美濃部氏に関わる文献資料(表1)は少ない。そこから、順序立てて美濃部一族の構成や動向をうかがい、その全てを明確にすることは出来ない。ここでは、郡史、町誌に述べられていることを中心に整理しておきたい。まず、その出自である。出自の伝承は、伝承年代に問題があるが、天満宮に伝わっている『美濃部天満宮社記』に詳しい。それによると、延喜元年(901)2月25日に起こった「昌泰の変」で菅原道真が失脚して大宰府に左遷になった時、一族や側近も同時に失脚し、その時に京を追われた5男(4男としている書物もあるが、5男が正しいと考えられる。)の菅原淳茂が、菅原氏の荘園であった美濃部郷梅ヶ畑の郷長、平左兵衛門為親の屋敷に逃れ娘婿となり、一子菅原三郎直茂をもうける。淳茂は延長元年(923)5月赦免となり帰洛することとなったが、子の直茂は美濃部に残り小字武島に居宅を構え、姓を地名の美濃部に代えて在地領主となった。ただし、正式な菅原氏の家系図には、淳茂の名はあるが、子の所には直茂の名は無い。これらは落胤伝説である可能性もある。それはさておき、淳茂は逃れていた時の延喜3年(903)に、父の死の冥福を祈るため心光寺を建立したとされている。心光寺は現在天神町に位置しているが、寛永10年(1633)水口城築城に際し、現在の地に移
転してきたものである。この時、木像を造り氏神として「美濃部天神」を祀った。このことから、美濃部氏代々の菩提寺となっている。そして、淳茂は帰洛後の延長4年(926)2月25日に61歳で没する。その子直茂は、天慶3年(940)に父の建てた天神社に社殿を造営した。このように、伝承では美濃部氏は菅原氏の末裔という出自を持っている家系である。家紋は「菊に􄽁」と「梅鉢」である

(2)中世における甲賀武士美濃部氏出自にまつわる伝承が途切れた後、最初に文献に現れるのは、建武年間に生存していた美濃部兵衛三郎元茂である。
この後、長享元年(1487)頃の名を記した『佐々木南北諸士帳』の美濃部源吾を始め、大永3年(1523)を初出に、元亀4年(1573)迄の期間の山中家文書の中に見える美濃部茂(重)国、美濃部六右衛門尉、美濃部茂在、美濃部茂良、美濃部茂濃、美濃部治茂など、系譜は明確ではないが「茂」の諱を持つ一族の存在をうかがい知ることが出来る。おそらく、この期間が最も美濃部氏が甲賀郡域で在地領主として活躍していた時期と考えられる。特に、永禄8年(1565)の山中氏・伴氏・美濃部氏のいわゆる柏木三家としての同名中の起請文は、地域的結束の形として位置づけられるものである。後に、甲賀二十一家、五十一家として位置づけられるほど、郡中惣の中の甲賀武士として大きな役割を果たしていたことは明白である。これらの状況から、鎌倉時代以降戦国期にかけて、美濃部氏は美濃部郷を支配していた、いわゆる甲賀武士の同名中であることは間違いがないところである。信長の近江侵攻後は、元亀4年で文書類が途切れていることでも、その名が織田方として出てくることでも、美濃部茂濃・地茂は金指物番として信長の配下に組み込まれており、信長の家臣であることは明白である。さらに、そのまま豊臣秀吉の家臣ともなっている。周知の通り、甲賀衆は天正13年(1585)に最終的に秀吉の勘気に触れ、惣中が改易され帰農させられてしまう。茂濃は天正10年(1582)の本能寺の変の時に、世に言う「神君、伊賀・甲賀越」により、徳川家康を伊勢白子まで逃がした人物として名を残す。その功により、慶長5年(1600)に甲賀衆全体が赦免される。この間の記録が途切れるのも頷けるところである。


(3)美濃部氏居館の位置と構造それでは、美濃部氏はどこに居館を持って、領域支配をしていたのであろうか。記録では、郷長の屋敷は「字梅ヶ畑」である。そして、美濃部氏の館は「字武島」とされている。現在のその位置は現水口城の位置、城の真下であったことがわかる。鎌倉から戦国期にかけての美濃部郷の中心地は、現在の水口の中心は水口城とその東隣であったことがわかる。中世時代の城もしくはその位置を戦国時代以降に利用することはしばしば見受けられる。それは戦略的にこの場所が重要な位置を占めていることを物語っている。この位置は、南北に近江八幡街道から信楽街道が、鈴鹿峠から横田の渡しへと街道が走る結節点に当たる位置である。野洲川にもほど近く、交通の要所として人の往来と地域を抑えるには格好の場所であったといえる。さて、美濃部氏の居館が近世水口城で破壊されていることが事実であれば、居館はすでに破壊されたことになり姿形を明確にすることは困難である。ただし、類推することは可能である。それを考えるヒントとなるのが、同じ柏木三家のひとつである植城の存在である⑸。植城は、一族郎党の居館が連なったと考えられる複郭式の城館群(200m×約300m)を中心として、その外に出屋敷である方形城館(約50m四方)が付く形となることが近年の発掘調査等で判った。(図3)同じような地域的な位置関係と領主クラスの格からすると、同じような形態の城が考えられる。 

ここで問題となるのが、美濃部氏居館とは別に、それよりも南東にずれた位置に存在したと伝えられている「水口出屋敷」という方形居館の存在である。水口出屋敷跡については「美濃部出屋敷遺跡の調査」⑹に詳しい。(ただし、残念ながら平成13年度版『滋賀県遺跡地図』には、遺跡として周知されていない。)出屋敷の位置は、水口城の西、「字八光」の位置である。報告によると、南正面、信楽街道が90度東に曲がるあたりに「木戸口」であったとされ、さらに左折して北上する八幡街道から慶長期の東海道、八幡宮までを北限とする方40m四方の敷地とされている。現況では前面の道からの平坦地が東海道で屈曲していることが分かる。土塁は東側の八幡街道沿いと西側の水口高校側の一部に、近世に小家臣団屋敷に分割されたにもかかわらず破壊されず近年まで残存していた。また、郭内は井戸の痕跡も認められている。また、水口高校の周囲にも土塁が残存している。布袋塚と呼ばれる塚も位置的に見て土塁の一部と考えられる。現在の梅ヶ丘辺り一帯が梅ヶ畑にあたり、美濃部一族の代々の屋敷が建ち並んでいた場所である。さて、美濃部氏の館を利用して水口城を築いたとするならば、その規模は、40~50m四方と考えられ、これらふたつの屋敷と隣接した関係になる。近世水口城の方角と美濃部出屋敷遺跡の方位が一致することを考えると、もとの美濃部館もその方向が一致すると考えられる。つまり、この辺り一帯に美濃部氏の居城が植城のような連結した城館群として存在していた可能性は高いと判断されるであろう。以上のこれらの関係を示したのが図3、4である。今後の精密な調査の手がかりとなすべく問題提起した。

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城、http://www.shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/22_kido.pdf

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