城郭探訪

yamaziro

野良田表の合戦 近江国(彦根)

2014年08月19日 | 古戦場

■ 肥田城水攻 ■
「肥田城の水攻め」は「野良田表の合戦」前年である永禄 2年(1559)に起きました。肥田城は六角氏の命により築かれた高野瀬氏代々の平地城館ですが、高野瀬秀隆の代に浅井氏通じため、 六角承禎の攻撃を受けました。肥田城守りは堅く、そこで一計を案じた承禎城下手帯に堤を築き(裏面地図参照 を築き、近くの宇曽川や 愛知川の水を堰き入れるという挙に出ました。こが「肥田城の水攻め」です。
 水かさは日に増して一帯が湖面のようなあり様となり、城中も水浸びた しとな ったようですが、洪水により堤が切れ、水攻めは失敗終わったと伝えています。

このとき築かれた堤は、近年の圃場整備で無くなるまで、その姿を見ることがきました。 で、その姿を見ることがきました。 で、その姿を見ることがきました。

■ 野良田表の合戦 ■
水攻めの失敗により、一時は退却した六角承禎ですが、翌年8月再び軍を整えて高野瀬秀隆攻めます。秀隆から知せを聞いた浅井長政は、 肥田城の西に所在する野良田集落の東南一帯で相対することになりました。

『江濃記』(近江と美濃の戦国時代抗争を記した軍記物)によると、浅井方は先手が百々内蔵助・磯野丹波守・丁野若狭守 、後手には浅井長政が諸将を 率いました。一方六角先手を蒲生右兵衛大夫 ・長原太郎左衛門、進藤山城守・池田次郎左衛門 らが務め、後手には楢崎壱岐守・田中治部大夫 、そして六角承禎自らが指揮に当たりました。

戦いは 、先手の百々内蔵助と蒲生右兵衛大夫によって火蓋が切って落とされました。当初、両者は互角の闘いを繰り広げましたが 、やがて 六角方の側面攻撃が加わって百々内蔵助は討死。このとを知った長政は檄を飛ばし、総攻撃命じました。

長政自らが先頭に立ち、野良田一帯が 大戦場になったようですが 、やがて六角方は総崩くずれとなって敗走しまた。 れとなって敗走しまた。 れとなって敗走しまた。
「肥田城の水攻め」と「野良田表の合戦」の2度の勝利により、浅井長政は犬上・愛知の2郡を手中納め、湖東平野に大きく勢力を伸張させることになりました。

彦根市教育委員会 文化財部課 文化財部課
0749 -26 -5833

参考資料:彦根市教育委員会文化財課

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清水城 近江国(彦根)

2014年08月19日 | 平城

堀痕は畑に・土塁痕の一部に竹が!

 畑地は一段低地になっており、堀が廻っていた跡を埋め、畑地としている 

お城のデータ

所在地:彦根市清崎町835 map:http://yahoo.jp/JUgiKk

現 状:民家(S家宅)・畑地

遺 構:堀痕、土塁痕

区 分:居館(平城)

築城期:南北期

築城者:

城 主:

廃 城:江戸期(一国一城令)・・・彦根藩

(一国一城令は慶長20年(1615)閏6月13日(1615)に江戸幕府が制定した法令である。土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令したが、法令の立案者は大御所徳川家康であった。その内容は、一国(この場合の「国」は令制国でもあり、大名の領国(後の藩)のことでもある)に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残してその他の城はすべて廃城にするというものである。

目標地:慈光寺・清崎町公民館

駐車場: 清崎町公民館に駐車場

訪城日:2014.8.18

お城の概要

清水城は、清崎町集落の東寄り、慈光寺の南東の一画にあったとされる。清崎町公民館の広場の東南(ヘンス越に見える)

比定地のほとんどは現在S家邸の敷地で、宅地は一般的な大きさだが、周囲の畑地や庭が異常に広い。

この周囲の畑地は一段低地になっており、堀が廻っていた跡を埋め、畑地としている

南西に土塁痕の竹藪が残存。

土塁痕 

歴 史

朝鮮人街道であった沿道に、旅人の道先案内として心強く建っていた道標も今は、歴史の一部としてひっそりと残っています。

詳細不明だか、日夏氏の所領地。

街道と宿場町の景観 清崎町

城址の巨大サボテン

慈光寺 慈光寺

江戸期の武家屋敷?

 清崎町公民館の広場の東南(ヘンス越に見える)

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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越川城 近江国(彦根)

2014年08月19日 | 居城

肥田城の支城として築かれたとされる城館

お城のデータ

所在地:彦根市三津町 map:http://yahoo.jp/XWyIat

現 状:集落・田畑

遺 構:城石碑 

区 分:居館(平城)

築城期:南北期 

築城者:高野瀬氏

城 主:久木氏

廃 城:江戸期(一国一城令)

 (一国一城令は慶長20年(1615)閏6月13日(1615)に江戸幕府が制定した法令である。土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令したが、法令の立案者は大御所徳川家康であった。その内容は、一国(この場合の「国」は令制国でもあり、大名の領国(後の藩)のことでもある)に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残してその他の城はすべて廃城にするというものである。

目標地:宇曽川左岸の三津町南信号

駐車場: 城祉碑前に駐車

訪城日:2014.8.18

肥田城の北側を流れる宇曽川の左岸道の北下に城址碑

お城の概要

越川城は、彦根市内の平地城館において最も著名な肥田城の北側を流れる宇曽川に対峙する位置にあった。

現在は三津集落が営まれ、比定地の田地は圃場整備されたのか城館の面影は全く残っていないが、平成22年集落南端の宇曽川堤防直下に城址碑が建てられた。

有名な肥田城水攻めは有識者によって何度か検証されているが、その時支城の越川城はどうだったのか登場することすらなく、本当に同時期に存在していたのか疑問が残る。

 城館比定地付近 圃場より2mの段丘上城祉碑前に駐車

歴 史

越川城は、築城年代等は不明だが肥田城の支城として築かれた。守備したのは肥田城主高野瀬氏の重臣久木氏とされているが、久木氏の居城は太堂城とも云われていて、その辺りも不明な点が多い。

 久木氏は高野瀬氏とともに江北浅井氏の傘下として、永禄2年(1559)肥田城水攻めや、その翌年の野良田表の合戦に従軍した。

 浅井氏滅亡後は主君高野瀬秀隆とともに柴田勝家に従った。天正2年(1574)信長の命により、勝家が越前一向一揆の鎮圧に出陣したため、久木氏もこれに従軍した。しかし安居の戦いで高野瀬秀隆とともに久木定邦・隆致は自害して果てた。

宇曽川と左岸の堤防道

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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甘呂城(甘露城) 近江国(彦根)

2014年08月19日 | 居城

河瀬大和守の碑甘呂神社の石碑の向こう側河瀬大和守の碑

お城のデータ

所在地:彦根市甘呂町 map:http://yahoo.jp/LiyM80

別 名:甘露城

現 状:集落

遺 構:城主石碑・池跡碑(甘呂神社内)、水堀痕、天九郎井戸

区 分:居館(平城)

築城期:南北期

築城者:河瀬大和守高秀

城 主:河瀬大和守高秀

廃 城:江戸期(一国一城令)

(一国一城令は慶長20年(1615)閏6月13日(1615)に江戸幕府が制定した法令である。土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令したが、法令の立案者は大御所徳川家康であった。その内容は、一国(この場合の「国」は令制国でもあり、大名の領国(後の藩)のことでもある)に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残してその他の城はすべて廃城にするというものである。

目標地:甘呂神社・甘呂公民館、願宗寺

城 域:願宗寺の南側集落一帯

駐車場: 甘呂神社前に駐車場

訪城日:2014.8.12

お城の概要

甘露庄
 甘呂は犬上川の下流に位置し、西は野田沼に接しています。甘呂は古くは甘露とも書きました。

京都の三千院に伝わる古文書には、正中2年(1325)の西南院新御堂領の1つとして「近江国甘露庄」と記されています。西南院は高野山の別格本山西南院のこと。当時、甘呂は西南院の新御堂の荘園でした。その後、甘呂の地は梶井門跡領の荘園として維持されたようです。

▲甘呂地図が、この辺りに町屋が形成されていた可能性が考えられます。

 城 域:願宗寺の南側集落一帯(遠望)

歴 史

河瀬氏、この甘呂城の築城期は不明だが、南北朝期か。

『江州佐々木南北諸士帳』に「甘呂住佐々木随兵 河瀬大和守秀宗」と見ゆ。

河瀬氏が築城。河瀬氏は、荘園の現地管理を委だねられた荘官であった。しだいに甘呂の地を本拠に築城し武士化した。
『江州佐々木南北諸士帳』を見ると、河瀬氏の名は甘呂のほか北河瀬や多賀の地にも認めることができ、一族とあろう。

江戸時代の地誌である『淡海木間攫』には、河瀬氏・蓮台寺・大宇の3家が「犬上衆」と呼ば 浅井氏に従って姉川合戦で活躍したこと織田信長に よる小谷城総攻撃では浅井氏一族ともに討死したことなど が 記されています。 (彦根市教育委員会 文化財部文化財課)

地図を概観して最初に気づくのが、整然と碁盤の目に区画された土地です。この区画は、古代の土地区画制度である条里制地割で、1町(約109m)四方を基本単位としており、これを「坪」と称しました。坪には、それぞれ小字名が与えられていますが、小字名にはその土地の歴史を秘めたものが少なくありません。

甘呂城では、甘呂のどの辺りに城が存在したか?小字名に留意しながら甘呂集落の南端に「城畑」「城田」「城南」「城ノ西」といった小字名が集中しています。「城畑」「城田」の辺りを中心に、かつて河瀬氏ゆかりの平地城館と推測されます。

 さらに、現在の集落の中心付近は坪の地割をさらに南北に二分するように走る直線的な道路や水路が設けられ、間口を等しくする計画的な屋敷割となっています。規模はそれほど大きくありません。

集落の周囲には現存する甘呂神社のほか、「雪待寺」「善福寺」「大地庵」「光勝寺」「一町寺」「朱雀院」など社寺にちなんだ小字名が存在する。

 甘呂神社の南方に存在した細長い藪は、城を取り囲んでいた土塁の一部であり、甘呂神社の北方に現在も流れを刻む水路は、堀の役割を担っていた。
 甘呂集落の南端付近に城館を構え、その北に町屋を形成し、周囲には社寺を点在させ土塁や堀で囲った城。

 甘呂の地は、すぐ東南側を直進する下し も街道(古代の巡礼街道)が走っており、戦国時代には下街道に面して佐和山城や安土城・八幡山城など
の城が築かれ、幾多の武将が往来しました。

甘呂城も規模は小さいですが、下街道沿いの重要な位置に築かれた城。

願宗寺・・・願宗寺前を南に100m集落端に「天九郎井戸」

なお、小字「城南」の地には天九郎井戸と呼ばれる井戸が残っています。甘呂に住んだ刀工の天九郎俊と し長ゆかりの井戸と伝えています。

甘呂神社

 

甘呂神社の南側藪地・蓮池跡蓮池跡の碑

集落の西に竹藪残存、土塁痕・堀痕が確認できる。

集落の北側の水掘(犬上川~野田沼へ)、現状は灌漑水路、排水路。

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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太堂(たいどう)城 近江国(彦根)

2014年08月18日 | 居城

「大屋敷」遠景 

城のデータ

所在地:彦根市太堂町      map:http://yahoo.jp/lfpAQl

現 状:集落・藪地

区 分:城館

遺 構:土塁、堀痕

築城期:室町期

築城者:高野瀬氏の重臣久木氏

廃 城:織田信長の近江侵攻で廃城

城 主:久木定邦・隆致

駐車場:太堂町公民館駐車、浄称寺門前駐車可

訪城日:2014.8.17

「太堂町公民館」~集落内の約100m北方が「大屋敷」の藪地 

お城の概要

彦根市内では土塁が残る貴重な平城

太堂城跡
 「地券取調総絵図」には図のように条里地割ごとに小字名が付記されています。集落内ではさらに細かく小字名が記されていますが、集落の北東辺に「大屋敷」、その北側に「堀ノ岸」とあります(地図の実線や破線の丸で囲んでいるところ)。「大屋敷」は、絵図で藪やぶ地ち に色分けされています。

現在も藪地が少し残っており、一部で土塁や水路を確認することができます。「堀ノ岸」とあることから、水路は堀の役割を果たしていたのでしょう。「大
屋敷」一帯には土塁や堀で囲まれた屋敷、つまり平地城館(平地に築かれた城の機能をもつ館)が広がっていたと想定されます。

太堂城は、安食川が大きく蛇行する地区の南側に営まれている太堂町集落一帯にあった。

この集落のほぼ中央付近に小字「大屋敷」と呼ばれる藪地があり、南東辺には土塁が残っている。

また大屋敷の北側は「堀ノ岸」という小字名がついていることから、大屋敷は堀が廻らされた主郭で、それを中心とした平地城館が集落一帯に広がり、安食川を天然の外堀としていたと考えられる。

保食大明神の祠跡

倉庫の裏手に土塁が確認できる。倉庫の裏手に土塁が確認できる。

歴 史

太堂城は、築城年代は定かではないが、肥田城主高野瀬氏の重臣久木氏の居城であった。

久木氏
 この「大屋敷」と呼ばれた城館に住んだのが久木氏でした。久木氏は近くの肥田城城主であった高野瀬氏の重臣でした。

久木氏は、永禄2年(1559)の「肥田城の水攻め」や翌年の「野良田表の合戦」では、高野瀬秀隆の下で浅井方として活躍します。

その後、浅井氏滅亡とともに秀隆に従って織田信長の家臣柴田勝家えに仕えます。そして、天正2年(1574)に勝家が越前(現在の福井県)の一向一揆鎮圧のために出陣すると秀隆の下で従軍し、安居の戦いで秀隆が自害すると、久木一族の久木定邦に・久木隆致親子もこれに殉じたと伝えています。

 浄称寺門前駐車可 八幡神社跡碑

 安食川沿いの阿自伎神社御旅所

太子堂村から太堂村へ

 明治13年に刊行された『滋賀県物産誌』を見ると、太堂町はもともと「太子堂村」であったようですが、なぜか「子」の字を省いて太堂村と称するようになったと記してます。

 太子堂は聖徳太子の像を祀まつった仏堂のこと。これが地名になっているのは、当地にも聖徳太子ゆかりの仏堂が存在した可能性が考えられます。

その1つが太堂の集落の北を東から西に向かって蛇行して流れる水路です。この水路は安食川と呼ばれ、豊郷町の阿自岐神社境内にある庭園から湧わき出た水を水源とする水路であり、古くから当地一帯の水田用水として活用されてきました。
 もう1つが太堂の集落です。集落は条里地割の2区画程度に収まるものですが、区画内は条里地割の規制を受けつつも、集落の長い歴史の中で形成された変則的な道路や水路そして屋敷割りを確認することができます。

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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三ツ屋城 近江国(彦根)

2014年08月18日 | 平城

織田信長の攻撃により、落城し廃城

  

城のデータ

所在地:彦根市南三ツ谷町      map:http://yahoo.jp/XJlDfd

現 状:集落

築城期:文亀4年(1504)頃

築城者:田付(伊庭)景春

廃 城:天正元年(1573)景輔の時に織田信長の攻撃により落城し廃城

城 主:田付美作守景春・兵庫介兵景澄・兵庫介景輔3代の居城

区 分:城館

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.8.17

本堂の前に5m×5mの竹林、土塁痕・・・城郭遺構カ?

 

お城の概要

三ツ屋城は、南三ツ谷町集落内にあったとする城館である。中世城郭分布調査によると、蓮常寺の西方、集落の西端を比定。

集落は、周辺の田地より50cmの段丘にあり、集落内は民家が密集し、路地が不規則に折れ・交差する城内道の名残りのようにも見えるが、確かな城館遺構はない。

三ツ屋城の南方、田附町に接する付近には田付城があったとされる。距離にして300~400m、同時期に両城が機能していたのか、当所の田付城から伊庭景春が田付氏を継いだ時に移築したのか、その辺りの詳細が判らない。

蓮常寺 本堂前の庭園池

本堂西の土塁

本堂裏の土塁 本堂南の土塁本堂南の土塁・庭園井戸

歴 史

三ツ屋城は、田付美作守景春・兵庫介兵景澄・兵庫介景輔3代の居城とされる。

田付氏の祖は、淳和天皇の子守房親王とされ、守房親王は田附村の八幡神社の神官として当地に赴いたことに由来するという。
田付氏は代々近江守護佐々木六角氏に仕えた。文亀3年(1503)9代重房の時に軍律違反を理由に領地を没収され、その翌年六角氏は配下の伊庭景治に田付氏を継がせた。
以後景澄・景輔と六角氏に仕え、天正元年(1573)景輔の時に織田信長の攻撃により落城し廃城となった。
景輔は落城後、安芸広島城主福島正則に取り立てられた。正則改易後は砲術指南役として徳川幕府に召された。これがのちの徳川家三大砲術のひとつとなった田付流である。

また賤ヶ岳の七本槍の1人、脇坂安治の出自は田付家であるという。
安治の父安明は田付景治(春)の妹を妻にしていた。その義妹が田付源(孫)左衛門との間にもうけていた男子を養子としたが、その男子が脇坂安治だという。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭、ウィキペディア(Wikipedia)

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新海城  近江国(彦根)

2014年08月18日 | 平城

今でも集落全体が、見事な「お城壕」で囲まれている

堀跡を示す石碑 

お城のデータ

所在地::彦根市新海町   map:http://yahoo.jp/rQbHHM

現 状:集落

遺 構:城濠(堀)・石碑・現地説明板

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:佐々木六角の臣・新開源之丞

城 主:新開源兵衛尉家郷

目標地:報恩寺、新海公民館

戦 い:新開崩れ   〇佐々木六角 VS  ●比叡山

駐車場: 報恩寺・延命地頭駐車場

訪城日:2014.8.17

新海橋石碑と説明板 

お城の概要

新海は、「大浦屋敷」「北浦屋敷」「今浦屋敷」という 3つの小字名を持つ屋敷地から成り立っています。  いずれの屋敷も周囲には水路が発達してます、中でも大浦屋敷は、卵型の集落を取り囲むように水路が巡って見事な環濠を形成しています。地元ではこれ「お城濠」と呼んでおり、この屋敷一帯が新開氏の平地城館であり、「新開崩れ」の舞台もったと想定さます。

現在は、お城濠も集落内は埋められ、生活道路と化し消失したが、集落の用水路として「お城濠」残存している。

     

歴 史

新海村の開発と新開氏  新海の地は、彦根市南部を流れる愛知川の河口右岸に位置しており、北と東は 田附町に接し、西は琵琶湖に面しています。新海は「新開 」とも書き、新海の東側は、新しい開発地であることを示してますが、古代以来の整然とした碁盤目は、条理地割が認められるものの、それより西側では条里地割消え、湿地を埋め立てた水田や藪地そして砂質の畑地が広るなど、後世開発によって新く誕生た土地と考えら土地と考えられます。

この新海地を開発したは 、新開氏と伝えています。

 愛智家行の長男家仲を祖とする一族で、家仲以降代々が六角氏の命に で、家仲以降代々が六角氏の命に で、家仲以降代々が六角氏の命によ 当地の開発に努めました。16 世紀中頃には、山崎城主(彦根市稲里町)山崎 賢家の弟が新開氏を継いで源兵衛尉家郷と名乗りました 。

新開崩れ  新海には、六角氏配下の新開氏と延暦寺から派遣された法師の両者が居住していたわけですが、両雄並び立たずの諺のとおり、両者は反目 を強め、永禄元年(1558 )正月、ついに比叡山派遣の山法師である 岡田千甚坊が新開氏の館を襲撃します。当主が新開源兵衛尉家郷とその子源内 は殺害され、千甚坊は新開氏館に入りました。

このとを知った六角氏は、直ちに 種村城主(東近江市種町)三河守定和に命じ、佐生城主(東近江市佐生町)後藤但馬守、目賀田城主(愛荘町目賀田)摂津守らともに千甚坊の軍勢を攻め、激戦の末に千甚坊を討ち取りま し た。 この戦を「新開崩れ」と称しています。

栗見荘   新海は、現在の彦根市域に属している田附村と 新海は、本庄村、そして東近江市域の新村 ・ 宮西村、乙女浜・ 福堂村・ 川南村・福堂村・ 阿弥陀堂村 の10 村で栗見荘を構成していまた。栗見荘は比叡山延暦寺が 比叡山延暦寺が所有する荘園でした。 富永荘(長浜市高月町・ 木之本、木津荘(高島市新旭町)ともに「三箇荘聖供領(千僧供領)」と呼ばれ、 延暦寺の経済的基盤を担う特別な荘園でした。延暦寺からは代官として山法師が派遣されて居住し、年貢米の徴収業務などに携わっていました。

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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田附城(田付城) 近江国(彦根)

2014年08月17日 | 平城

徳川家三大砲術の田付流の祖である「田付氏の城館」

「地券取調総絵図」(明治6年)描かれた田付城跡

豊田神社から南の埋葬地(墓地)に向って伸びる道沿いであり、現在は圃場整備で水田に改変・消失したが明治6年の絵図にと周囲の田より一段高い畑地して描かれます。この地が、田付氏の平地城館が存在した所。 

お城のデータ

所在地:彦根市南三ツ谷町字増見  map:http://yahoo.jp/8eWVfI

別 名:田付城

現 状:田地

遺 構:石碑、現地説明板

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:田付小孫太宗重

城 主:田付景澄

廃 城:天正元年(1573)景輔の時に織田信長の攻撃により

目標地:豊田神社、田附集落北西の墓地

駐車場: 豊田神社参拝者駐車場

訪城日:2014.8.17

田付城は、北隣りに位置する南三ッ谷町字増見の地一帯に存在したと伝えます。

 
お城の概要
 
豊田神社から南の埋葬地「墓地」に向って伸びる道沿いであり、現在は圃場整備で開削・消失し水田に変わってます。明治6年の絵図には外周に水路がめぐる周囲より周囲の田より一段高い畑地して描かれます。この地が、田付氏の平地城館が存在した。
 
地元では当所一帯を「上屋敷」とも呼んでいた、その一隅には稲荷山という 丘があって稲荷神社が祀まつ られていました。かつは田付城の鎮守であったと伝わる。。稲荷神社御神体は、現在豊田神社に合祀しされています。
 
そのほか当所北には「裏門」「上出口」「下出口」「堀ノ角」「上堀ノ角」な ど 、田付城に関係すると考えられ地名が散見さます。
 
田附城は、田附集落北側の南三ツ谷町字増見にあったとされる。字増見は田附集落北西の「埋葬地」と称される墓地北隣の田園付近である。
 
また墓地の隣地に城主田付氏の祖、守房親王の碑・説明板が建っている。
 
 墓地内に建つ「守房親王之碑」現地説明板親王なので、墓地とは南隣の一角

 歴 史

田附城は田付小孫太宗重によって築かれたとされる。田付氏の祖は、淳和天皇の子守房親王とされ、守房親王は田附町の八幡神社の神官として当地に赴いたことに由来するという。

田付氏は代々近江守護佐々木六角氏に仕えた。文亀3年(1503)9代重房の時に軍律違反を理由に領地を没収された。

その翌年六角氏は配下の伊庭景治に田付氏を継がせた。

以後景澄・景輔と六角氏に仕え、天正元年(1573)景輔の時に織田信長の攻撃により落城し、田付城は廃城となった

景輔は落城後、安芸広島城主福島正則に取り立てられた。正則改易後は砲術指南役として徳川幕府に召された。これがのちの徳川家三大砲術のひとつとなった田付流である。

また賤ヶ岳の七本槍の1人、脇坂安治の出自は田付家であるという。
安治の父安明は田付景治(春)の妹を妻にしていた。その義妹が田付源(孫)左衛門との間にもうけていた男子を養子としたが、その男子が脇坂安治だという。

■ 田付氏 ■
この田付城を築いたされるのが田付小孫太宗重です。彼の先祖は淳和天皇の子守房親王と伝えており、守房親王が田附町に所在する八幡神社(若宮八幡)の神官として当地に赴 おもむいたこ とに由来するまのとを記念する「守房親王之碑」が、田付城跡に隣接埋葬地記念する「守房親王之碑」が昭和 45 年に建立されました。

宗重以降、代々が田付城主と して近江源氏佐々木一族に従ったようですが、宗重より9代の重房の時、 文亀3年(1503 )の春に軍律を犯しため佐々木一族の六角氏綱によって城と領地を没収され蟄居を命ぜられます。  因に房の子安重は、日野 音羽城主 蒲生賢秀に仕えました。 

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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平流(へるい)城 近江国(彦根)

2014年08月17日 | 平城

 平類城跡の小字「殿屋敷」

お城のデータ

所在地::彦根市稲里町小字殿屋敷   map:http://yahoo.jp/8eWVfI

現 状:グランド・稲里公民館及び横の公園

遺 構:グランドの段丘1m

区 分:平城

築城期:

築城者:

城 主:

目標地:稲里公民館

駐車場: 稲里公民館駐車場

訪城日:2014.8.17

 

平類城跡の小字「殿屋敷」

お城の概要

現在の稲里町公民館の西側にあったと云われているが、遺構は現存しない。稲里公民館及び横の公園は、今でも「殿藪」と云われ、数年前までは竹藪であったと云。

上平流村の小字図を見ていただくと 、域全体に整然と碁盤目に描かれた条里地割が広っています。  条里地割は、古代から中世にけて行なわれた土地区画制度基づくで地割で縦横の一辺を1  町(109m)に区画する大事業でした。

上平流村の内は条里地割が卓越して残 り 、北東の突出部を除いて村域直線の村界で限られた典型的な条里景観の村でした。

その景観は、近年の圃場整備で大きく変化しまたが、それでもほ場の方位や区画のあり方など 条里地割の面影を残しています。

歴 史 ■ 平城跡 ■

再び上平流村の小字図を見ていただくと、北東の突出部小字が「殿屋敷」なっています。現在はグラウンドとして整備されていますが、かつて一 段高い畑地や藪地が広っていました。当地は「 下街道 (古代の巡礼街道・江戸期の朝鮮人街道)に近く、街道を押える意図もあって平地城館が存在したと考えられますが、詳細は不明です。

平流荘 「上平流」の地名は古く、その起源 は当地に存在した 川原寺(弘福寺) の荘園であった 「平流荘」に由来しています。平流荘は大宝年間(701 ~704 年)以前天智天皇の勅施入 によって成立した荘園 伝えており、平流荘は当地一帯に広がる条里地割に先行して開発された荘園であった可能性も考えられます 。

■ 屋中寺廃寺と下 岡部廃寺■
上平流の西方には、古地図のよう に屋中寺廃や下岡部とい白鳳時代 ※3 にさかのぼる  寺跡が存在したと推定されています。これらの白鳳寺院は、日本に仏教が伝来して間もな く有力古代氏族※4 が建立した寺院で、門や 回廊によって四角く区画された内、 瓦葺の金堂や塔 、講堂どなどが整然と建ち並んでいました。

屋中寺廃は、上岡部町字一帯に所在した寺跡です。昭和2年の耕地整理際、礎石※5や 柱根 ※6そして多量の瓦が出土しまた。下岡部廃寺は、町東北にある墓地周辺の小字 「大村 」 の地に想定される寺院です。 天平勝宝3年( 751 年)に描かれた「近江国覇流村墾田地図」には「大村寺 」と記されており、下岡部廃村寺 」かつて大村寺と呼ばれいたようです。 やはり耕地整理で多量の瓦が出土しました 。屋中寺廃と下岡部廃寺から出土した瓦には、飛鳥の川原寺に葺かれていた瓦と同種の瓦が多く含まれており、平流荘に関連して川原寺の影響もと建立された古代寺院であったと考えられてます。

参考資料:彦根市教育委員会文化財課、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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史跡 彦根藩主井伊家墓所(清凉寺墓所)

2014年08月16日 | 遺蹟

清凉寺について

 祥寿山清凉寺は、彦根城下の東佐和西麓に位置し近くには龍潭寺や大洞弁財天堂など、井伊家にゆかりの深い寺院が宇を連ねてます。

清凉 寺は、慶長7年(1602)、彦根藩初代井伊直政の死去によりそ墓所として創建されました。

「 祥寿」の山号、「清凉」の寺号は、ともに直政の院号と道号「祥寿院殿清凉泰安大居士」に由来しています。清凉寺は当初、井伊家旧領の上野国後閑(群馬県安中市)にあった曹洞宗長源寺の末寺でしが、寛永8年(1631)、二代藩主直孝が上野国箕輪(みのわ)から高僧愚明正察(ぐょうしさつ)を招いて開山とし、明暦2年(1656)正察退隠のとき本末関係を改め、同国雙林寺(そうりんじ)となりました。こ の頃には清凉寺観もほぼ整い、幾多修行僧が集って隆盛期を迎えることになり、以後 、井伊家歴代の菩提寺として法灯を継いでいくことになる。

墓所について

 清凉寺の井伊家墓所は、寺域の最も奥まった本堂裏手に位置していす。山麓を石垣で段状に整えて墓所とし、手前歴代藩主の7基を連ね、その南側と奥には正室や側室など14 基、子息や子女など35基、そして該当者不明の3基が大小連なっています。墓石の合計は59 基で、その墓石形状は、藩主7基をはじめ 基をはじめ17基が無縫塔形位牌形が 位37基、五輪塔形が3基、そして 、 舟形と宝篋印塔が各1基という内訳になります。 供養塔は、改易されて井伊直孝預かりとなった 元小田原藩主大久保忠隣(おくぼ供養塔は、改易されて井伊直孝預かりとなった 元小田原藩主大久保忠隣(おくぼただちか)のもです。

 これらの墓石は、幕末に描かた「清凉寺御廟所絵図」よると白漆喰瓦塀や柵で区画され、各墓石を御霊屋で保護さている状況が確認きます。経堂はに存在しせんが、埼玉県所沢市に移築され現存しています。

 護国殿は初代直政と2代直孝の霊を祀るため、11代直中が建立した物です。建物の痕跡は明瞭に残っていますが、建物そのものは、やはり昭和35年に福井県敦賀市栄新町の天満神社移築されています。

 井伊家は国許である彦根の清凉寺と江戸世田谷豪徳を護持し、歴代の当主以下正室・側室、子息女ら井伊こ多くがこの2箇所の墓に埋葬されました。 4代当主直興については、仏教への信仰心が篤く、永源寺南嶺慧詢深帰依しため側室ともに永源寺を墓所しており、例外なっいます。

このように墓所が大きく国許と江戸に二分されているのは、参勤交代の制度の下に国許と居住すう幕藩体の江戸に居住に二分されているのは、幕藩体下の大名あり様を明瞭に示しているとえます。また、国許に墓所が滋賀県彦根市の清凉寺を基本とする状況は、井伊家が江戸時代通じて一度の所替えもなかった故に生じた結果であり、譜代大名筆頭として幕府政治を支えた将軍家側近の井伊特性に起因するものでしょう。

 このように国史跡井伊家墓所は、江戸時代の幕藩体制や大名文化を知る上で欠くことの できない貴重資産あると言えのす。平成 20 年 3月 28 日には、滋賀県彦根市の日には、滋賀県彦根市の清凉寺、東近江市の永源寺、東京都世田谷区豪徳寺の井伊家墓所が併せて国史跡に指定されました。


参考資料:彦根市教育委員会 文化財部 文化財課

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堀城  近江国(彦根)

2014年08月16日 | 居館

お城のデータ

所在地::彦根市堀町 map:http://yahoo.jp/3tmxUG

現 状:集落

遺 構:堀痕、鍵型城内道

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:堀次郎左衛門

城 主:堀次郎左衛門

目標地:妙徳寺

駐車場: 妙徳寺駐車場

訪城日:2014.8.12

クランク状に4回折れる通路

鍵型城内道

お城の概要

堀城は、中世城郭分布調査によると、堀町集落一帯に比定。妙徳寺の本堂裏に土塁や曲郭跡を残存す。

集落内を散策すると、狭い路地が何度も折れ曲がる城道の名残りのようにもみえるが、城館だったと思われるようなはっきりした区画はなく疑問が残る。

集落内の東西に車道は、水堀を埋めて生活道路に(側溝は堀の一部が残存する)

 

歴 史

「今井軍記」には、堀城(彦根市)  「文明四年八月十一日堀次郎左衛門城合戦」「文明十八年十二月二日堀の城に切入」と記す。

  河瀬 一帯は、中世になると河瀬荘 と呼んだ荘園が存在しまた。河瀬荘は川瀬馬場や南河瀬を中心、北は犬上川まで南は出町 、東は葛籠町、そして西は蓮台寺町辺りまで広がっていした。

河瀬氏の所領にて、宇尾城・蓮台寺城・河瀬城・南河瀬城(仮称)・甘呂城・・。堀城も河瀬氏の平城。

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

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蓮台寺城 近江国(彦根)

2014年08月15日 | 居城

お城のデータ

所在地::彦根市蓮台寺町 map:http://yahoo.jp/Pdoe7u

現 状:畑地・集落

遺 構:石碑・曲輪

区 分:居館(平城)

築城期:室町期

築城者:河瀬氏

城 主:蓮台寺房盛

目標地:蓮台寺、蓮台寺公民館

駐車場: 蓮台寺駐車場

訪城日:2014.8.12

 微高地の畑地と城址碑 

 

お城の概要

蓮台寺城は、蓮台寺集落一帯にあったとされる。
古図から考察される城館は、町名の由来となった蓮台寺の東側の路地で囲まれた一画に比定される。

またこの区画の北東に位置する畑地は一段高くなっており、こちらにも城館が比定できる。現在この畑地の南西端には「河瀬蓮台寺城址」の石碑が建つ。

蓮台寺

 蓮妙寺

歴  史

蓮台寺城は、荘官から武士化した河瀬城主河瀬氏から派生した蓮台寺氏の居城とされ、河瀬氏・大宇氏と共に「犬上衆」と呼ばれていた。

河瀬氏から分派した河瀬壱岐守一族が、この地を居城とし、やがて蓮台寺氏を名乗ったとされている。河瀬氏は古くから佐々木京極家と血縁関係にあり、室町中期の出雲・隠岐・飛騨守護・京極高光の次男高房も養子に入っている。

蓮台寺氏は戦国時代に入ると京極氏に代わって江北を支配した浅井氏の傘下に入り、姉川の合戦などで活躍したが、織田信長による小谷城総攻撃のときに浅井一族とともに討死したと伝えられている。

川瀬 一帯は、中世になると河瀬荘 と呼んだ荘園が存在しまた。河瀬荘は川瀬馬場や南河瀬を中心、北は犬上川まで南は出町 、東は葛籠町、そして西は蓮台寺町辺りまで広がっていした。

その川瀬馬場の地に城主に城館を構えたと伝るのが河瀬氏でした。河瀬氏は、古くから河瀬荘の現地管理を荘園領主から委ゆだ ねられた荘管であったよう すが、しだいに川瀬馬場を本拠とて武士化し、城館築くようになったと考えられます。この河瀬氏は京極氏の流れをくみ、蓮台寺氏、 大宇氏、そして多賀社の神官を兼ねていた多賀氏など一族でした。ここでは、蓮台寺氏と大宇を紹介することにしまょう。

■ 蓮台寺氏と蓮台寺城■

蓮台寺町は、河瀬氏の一族である蓮台寺房盛が居城とした地です。

蓮台寺氏は、京極の零落の後は、 浅井氏の被官(家臣)として村落支配に当たっていました。

町名の由来ともなった 蓮台寺は、河瀬一族によて創建され臨済宗妙心寺派寺院ですが、織田信長による破却って衰え、 本尊の大日如来も行方知れずとなっていとなってい ま した。江戸時代になり本尊を確認して故地にもどし、現在の寺観が整えられたようでで す。

蓮台寺町の集落東端 には、今も周囲より一段高くなった畑地が残ています。明治時代初期に描かれた「蓮台寺村耕地絵図」を見ると、周囲を大小の道によって区画された地所を確認するこ された地所を確認すること ができ ます(点線) 。

この辺り一帯 に蓮台寺氏の平地城館が存在した と 伝えています 。昭和38年、その一隅に関係者によって「河瀬蓮台寺城址」と記された 石碑が建てられまし た 。

集落の西に城郭遺構のような竹藪が残存します。

 

竹藪遠望

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、わやしの町の戦国(彦根教育委員会)

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大徳寺(家康宿所) 近江国(水口)

2014年08月14日 | 陣屋

家康も上洛の際に水口に宿泊する時は大徳寺に宿泊。

画像

お城のデータ

所在地:滋賀県甲賀市水口町本町 map:http://yahoo.jp/RvcV9B

現 状:寺院

遺 構:家康が腰掛け石、甲賀騒動義民慰霊五輪石塔

区 分:御茶屋御殿

開 創:1588年

築城者:豊臣氏(中村式部少輔一氏)

開 基:中村式部少輔一氏

開 山:叡誉上人 

目標地:大徳寺

駐車場:水口大徳寺駐車場http://yahoo.jp/33mkhD

訪城日:2014.8.13

山門画像本堂

お城の概要

元は禅宗の林慶寺と言ったが天正16年岡山城主中村一氏が同寺を香花院と定め、小田原の大蓮寺の僧叡誉に寺の建造を依頼し、浄土宗に改め浄慶寺と号しました。

  その後、僧叡誉が家康の幼児の学問の先生だった関係から、関が原の戦いの後、この寺に来て寺領29石余と金品等を寄付し、家康の「家」と松平の「松」の各1字をとって「家松山」と号せしめ、堂の増築もさせました。

 家康も上洛の際に水口に宿泊する時は大徳寺に宿泊をしました。慶長7年(1602)家康が当寺の2世岌誉の法話を聞き香木と法服を与え大徳寺と改めさせました。

 慶安2年(1649)三代将軍家光前例により寺領の永代免除朱印を与えました。江戸時代に2度、昭和に1度火災の難にあっています。

 山門の前の石垣はめずらしい積石法(植石伏)で小堀遠州の作といわれています。

 門を入って右の鐘楼前にある石は、家康が腰掛け叡誉上人といろいろ話し合ったと伝えられています

また境内左隅に大きな五輪塔は第17代僧光誉が刑死者の霊を憐れみその冥福を祈ろうとして弘化元年(1844)に建立したもので「世に尽くす甲賀の民のまごころのかたきしるしの石のあららぎ」と詠まれています。

なお、水口岡山城主長束正家と正妻栄子姫の遺児は、仏門に入って大徳寺の3世の還誉上人(岌閑)に栄進し、北脇に栄照寺を建て父母の霊を弔ったといわれています。

鐘楼前にある石は、家康が腰掛け叡誉上人といろいろ話し合ったと伝えられています

1842年に起こった甲賀騒動の義民の慰霊石塔があり、甲賀の民の赤心に現在も追悼会が営まれている。
<世につくす甲賀の民の赤心のかたきしるしの石のあららぎ>

画像甲賀騒動義民慰霊五輪石塔

歴 史

最初は禅宗の林慶寺であったが天正16年8岡山城主中村一氏が同寺を香花寺と定め、小田原の大連寺の僧「叡誉」に寺の建造を依頼し、浄土宗に改め浄慶寺と号した。
大徳寺と徳川家康との縁は深く、開山の叡誉住職が家康の重臣本多平八郎の伯父だった関係から、家康は上洛に際して水口に宿泊し家康の「家」の字と松平の「松」の字をとって「家松山」の山号を賜り、また慶長7年(1602)、第二世叡誉のとき大徳寺の寺号や香木、寺領等を寄進して大徳寺と改めさせた。大徳寺の寺紋は、徳川家の定紋である葵(あおい9を入れた立ち葵であり、山門には徳川家紋の三葉葵が刻まれている。
また、山門の前の石垣は珍しい積石法で、小堀遠州の手法といわれる。
境内には、鐘楼の傍らには「家康の腰掛石」、天保義民を弔う「五輪塔」が建つ。
1585年秀吉の命により中村一氏が甲賀支配の拠点として水口岡山城を築き、3代にわたって岡山城は続いたが1600年関ヶ原の戦いで西軍が

敗れると同時に廃城となっている。
1588年中村氏の菩提寺として浄慶寺が開創され、以降3代の岡山城主の菩提寺となっている。
1600年徳川家康が上洛の際、家康幼少時に教えた叡誉上人に会うべく浄慶寺に立ち寄り、家松山の山号を与えている。
1602年大徳寺と改名している。


寺名:大徳寺(だいとくじ)

山号:家松山 

宗派:浄土宗

開山:叡誉上人 

開創:1588年 

本尊:阿弥陀如来

石 塔:甲賀騒動義民慰霊五輪石塔

参考資料:甲賀市誌

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水口岡山城(水口古城山城) 近江国(水口)

2014年08月14日 | 戦国山城

水口岡山城 -近世甲賀の起点- 豊臣政権の近江における拠点城郭の一つです

「城山高く有らずとも 今の稚木の生い立たば やがて雲をも凌ぐべき 茂山なる日こそこめ」。巖谷小波(水口ゆかりの児童文学者)の作詞になる水口小学校の校歌ににも歌われる「城山」は、水口市街を見下ろすお椀を伏せたような「古城山」のことです。歌詞の通り標高289メートルと低い山ではありますが、独立丘であることから山頂からは眼下の水口はもとより、鈴鹿峠方面、日野、八幡方面まで一望することができます。

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町水口(甲賀郡水口町水口)    map:http://yahoo.jp/0cSWF4 http://yahoo.jp/o2o9eb

 別 名 :水口古城山城

現 状:城山・公園

遺 構:曲郭・石垣、土塁、枡形虎口。竪堀、堀切

区 分:平山城

築城期:織豊期 天正13年(1585)

築城者:豊臣氏(中村式部少輔一氏)

初城主:中村式部少輔一氏

城 域:300m×200m

標 高:282m    比高差:100m

目標地:水口小学校

駐車場:水口岡山城登城口駐車場http://yahoo.jp/33mkhD

訪城日:2014.8.13

御断り:写真は2011.11.9見学会で撮影したものです。

お城の概要

この山は古くは「大岡山」あるいは「岡山」といい、山上には「岡観音」と呼ばれた大岡寺があったと伝えられますが、

天正13(1585)年に、羽柴(豊臣)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城を築かせます。当時は「水口城」と呼ばれていました。近江東南部の支配とともに、鈴鹿峠をひかえ、東海地方への押さえが意図されたのでしょう。城主には一氏に続き増田長盛、そして長束正家と豊臣政権の「五奉行」があてられており、その重要性がうかがわれます。

標高282.9mの美しい山「古城山」と呼んでいますが、地元では「大岡山(おおおかやま)」と称しています。

 浸食されにくい石英斑岩からなる山で、廻りの柔らかい部分が浸食され残丘として古城山のみが孤立して残ってできたものです。

 天正13年(1585)、羽柴秀吉が甲賀郡と蒲生郡の一部を支配させるために、家臣の中村一氏に命じて築かせた山城で、当時は水口城と呼ばれた。

 天正18年(1590)中村一氏の駿河転封の後には増田長盛が、文禄4年(1595)には長束正家と、五奉行の一員があてられていることからも秀吉がこの水口の地を重要視していたことが窺える。

 これは秀吉が、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで織田信雄,徳川家康連合軍と和睦に持ちこんだものの、遠江から三河を領する徳川家康への牽制、および水口の地に城を築くことで東海道を押さえることを目的として築いたことは疑うべくもない。

 秀吉死後、慶長5年(1600)に関ヶ原戦いが起こると、長束正家は西軍に属したことで池田長吉らに攻められて水口岡山城は落城した

 山頂からは広い範囲が一望でき、南に東海道が通るという立地となっています。山上には「岡観音」と呼ばれた行基が開いたとされる「大岡寺」があったと伝えられていますが、寺院の遺構は何も残っていません。

本丸北側に残る石垣

 

縄張り図

歴史

水口岡山城跡は豊臣秀吉の家臣で三中老の1人に数えられる中村一氏(かずうじ)が築いた城です。一氏の後、五奉行である増田長盛や長束正家の居城となるなど、水口岡山城は豊臣政権の近江における拠点城郭の一つです。

その後関ヶ原の合戦で長束正家が西軍について敗戦後廃城となりますが、現在でも遺構がよく残っており、織豊期に築かれた城郭遺構残存します。

 天正13年(1585)7月11日、羽柴秀吉は関白の宣下を請け、9月9日に豊臣姓の下賜を奏請して勅許を得ます。中央での地位を安定させたとはいえ、未だ全国統一は成っていません。

 東には北条氏直、上杉景勝、徳川家康、伊達政宗といった面々、四国には長宗我部元親、九州には島津義久といった力を持った大名がいました。特に前年小牧長久手で戦った徳川家康はくせものでかなり気を遣っていたと思われます。

家康とは天正14年(1586)10月に権中納言を襲名させたことで一応講和が確定したとなっています。妹の旭を家康に嫁がせ、母親の大政所を人質に出すなどしたことはご承知の通りです。

 さて、この天正13年に秀吉は、近江の国の城割を大きく替えていきます。まず、安土城を廃城として八幡山に城を築き、城下町も移転させ甥の秀次を入れます。自身の居城である長浜城と美濃の境を監視する佐和山城はそのままにし、長浜城には山内一豊を佐和山城には堀尾吉晴を置きます。

 西の大溝城と坂本城を廃城とし、天正14年に新たに大津城を築き、浅野長政を置きます。そして、水口岡山城を天正13年に新たに築き中村一氏を置きます。各城に配置された武将は秀吉が信長の家臣時代に早くから部下として養ってきた者達であることが分かります。一説には、八幡山城の秀次の見張りのために諸城を配したと言われています。秀次が近江八幡43万石を領した時の秀次付き家老格に中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末・田中吉政が付けられたことからかもしれませんが、むしろ、それぞれ京の入り口の守護、伊勢・伊賀・美濃・北陸に通じる街道の要衝に位置しており東への備えであることが一目瞭然です。

 水口岡山城に配された中村一氏ですが、彼は初め瀧孫平次と称しており、元は甲賀53家の一つ瀧(多喜)氏の一族と言われています。秀吉の尾張中村の弥平次一政の家を継承してもらおうとして中村氏を名乗らせたと言われています。甲賀多喜氏の末裔であることが一氏に水口岡山城を守らせた要因であったかもしれません。 

次に水口岡山城の構造を見ていきましょう。
 山頂部は堀切などで区画された大規模な郭を複数配置し、本丸は北斜面のみ高石垣とし、南斜面は山の地形をそのままにしています。山腹にも郭や帯郭が設けられ、大規模な竪堀が造られています。本丸には天守台があり、山腹の南麓から西麓さらに北側へと堀を廻らせ城内外を区画し、城下との出入り口3箇所には枡形虎口を配しています。

 本丸一帯からは多量の瓦が出土しており、瓦葺きの建物があったことが窺われます。瓦の意匠は安土城天主仕(安土城Ⅰ型式)のものと同じですが、金箔は貼られておらず、瓦の胎土が荒く大溝城のものに近いことから大溝城の瓦を再利用した可能性があります。このように、中世の城郭に多用され織豊期から近世にかけて次第に淘汰されていった堀切や竪堀が多く造られる一方で、城下との境に堀を廻らせ出入り口を枡形にするなど、本丸の石垣や天守と併せて中世城郭から近世城郭への過渡期の城といえるものです。しかし、天正12年には、近世城郭の代表格ともいえる秀吉大坂城が完成していることから思うと、時代遅れの城とも言えます。

 近江には東からの進入路が幾つかあります。信長などがよく利用していた八風街道などもそうですが、おそらく徳川の大軍が通るとなると中山道か東海道しかないでしょう。秀吉は合戦に備える城として水口岡山城を造ったことは間違いないと思われます。中山道の口を押さえる佐和山城も本丸の天守台のみに石垣が使われています。秀次の八幡山城も山城で、城下町との境を堀で仕切り、いざというときは軍船で琵琶湖を渡り、各方面に挟撃にいける
立地です。大津城・長浜城も琵琶湖と直結する堀を廻らせて同じように軍船で挟撃隊を出せる位置にあります。陸と湖の両方に軍事拠点を置くという意図が見え隠れしていると思いませんか。(どうなんですかねえ秀吉君。)

 水口岡山城は天正18年、一氏が駿府に転封の後、増田長盛が入り、文禄4年(1595)に長束正家といった豊臣五奉行が宛がわれています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で正家が西軍に与したため池田長吉らに攻められ落城してしまいます。(やっぱり最後は家康軍にやられる運命なんだ。)その後、廃城となり石垣の石は寛永11年の水口城築城で再利用されたと伝えられていますが定かではありません。

 

この城は大きく、

(1)甲賀郡で最初の大規模な織豊系城郭である。

(2)中世以来甲賀郡各地に割拠した土豪・地侍集団である「甲賀衆」の在地支配が払拭された。

(3)水口が城下町として整備され近世甲賀郡の中心となった。などの歴史的意味がありますが、

慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で、三代城主であった長束正家が西軍に与したため破却されてしまいます。

近年の城郭調査により、山頂部には堀切などで区画された大規模な曲輪を複数配置し、とくに本丸には高石垣が築かれていたこと、山腹にも曲輪や帯曲輪、桝形を配し、竪堀なども見られることが分かってきました。また寛永期の絵図(幕府京都大工頭中井家文書)には、山上の「本丸」に「天守」とあるほか、南麓から西麓、さらに北側へと堀がめぐらせて城の内外を区画したこと、城下との出入り口として3カ所の枡形があったことが判明しています。城域の大半は未発掘ですが、本丸一帯からは大量の瓦が出土しており、瓦葺きの建物が並んでいたようです。

このように水口岡山城跡は、豊臣政権による近江南部支配の拠点であるとともに、規模が大きく遺構もよく遺っていることから今後の調査が期待される遺跡です。

市街地から水口岡山城跡を遠望市街地から水口岡山城跡を遠望

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀市誌7巻甲賀の城

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河瀬城  近江国(彦根)

2014年08月14日 | 平城

お城のデータ

所在地:彦根市川瀬馬場町      map:http://yahoo.jp/ZmSki1

築城期:南北朝時代(1336-1392)

築城者:池田(京極)定信

城 主:河瀬大和守秀宗、河瀬壱岐守とその孫の河瀬隼人正

区 分:城館

現状:集落・宅地

駐車場:川瀬馬場町公民館

訪城日:2014.8.12

 お城の概要

この河瀬神社道路を隔へだ てた西側は1段高くなっており、明治時代初期描かれた「川瀬馬場村地引絵図」 (図参照)を見ると、小字「辻」 (図参照)を見ると、小字「辻辺り一帯が道路や水によって一辺150mほどの方形に区画されています(図破線)。

区画内も東西に並行する2条の細い道など内も東西に並行する2条の細い道などによって比較的整然と区分されいます。あくでも推定しかあ りませんが、現在は住宅となっているこの区画内に、かつて河瀬城が存在した可能 の区画内に、かつて河瀬城が存在した可能性が 考えられます。

由緒

  創祀年代は不詳であるが、江戸時代までは「川桁神社」「桁の宮」「気多大明神」と称されていた。元亀元年(1570年)に河瀬庄の領主河瀬氏が社殿を修造するとともに供米田を寄進し、江戸時代を通じて彦根藩主井伊氏から崇敬され、大祭には奉行を差遣して祭事を警衛するを例としたという。

また、滋賀県教育課編『神社由緒記』によると、延宝3年(1675年)2月に河瀬荘の旧領主であった河瀬壱岐守とその孫の河瀬隼人正が相殿神を勧請して再興したという。

明治になって「河瀬神社」と改称し、明治5年(1872年)1月17日に郷社に列せられ、同9年10月21日に一旦村社に降格したが、同14年2月1日に再度郷社に加列、同41年4月29日に神饌幣帛料供進神社の指定を受けた。2012年の彦根市教育委員会文化財課の調査によると河瀬神社付近の遺構が河瀬城のものと推定されている。

社殿

 本殿は三間社流造。元治元年 (1864年)に京都市にある賀茂別雷神社の社殿を移築したものである。他に、入母屋造の拝殿や神楽殿等がある。

 お城の概要

河瀬城は、河瀬神社西側の集落一帯に比定されている。

元来、南川瀬町の法蔵寺付近一帯にあった城館が河瀬城とされてきたが、最近の文化財課の文献等の調査により、河瀬城と呼ばれた城館は川瀬馬場町に所在したのだと見直されている。

比定地は集落約150m四方の小字辻付近で、近年宅地開発・道路整備で、路地や水路整備によって整然と区画されている。

明確な遺構は鎮守の森に残る。河瀬神社は城主河瀬氏の庇護によって維持された河瀬氏ゆかりの神社であった。

河瀬神社本殿の西(鎮守の森内)に城郭遺構が残る。(近年の排水に開削部分もあるが)http://yahoo.jp/PX9I1Y

歴 史

南北朝時代に京極宗氏の子定信が池田姓を名乗って河瀬城を築き同時に天台宗遠久寺を建立したのが始まりである。貞貫、貞親、貞信と続いて一時期美濃に去るが、京極家5代道誉の活躍を支える大きな力となった。

その後は郡家を勤めていた犬上君の子孫にあたる河瀬大和守秀宗が1500年代前半に居城したとされる。同時期に出城として甘露城・蓮台寺城等を築いた。

駐車場:川瀬馬場町公民館

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭、ウィキペディア(Wikipedia)

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
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河瀬城
(滋賀県)
城郭構造 寺院一体型平城
築城主 池田定信
築城年 南北朝時代?
主な城主 河瀬大和守秀宗
廃城年 1500年代後半?
遺構 土塁?
指定文化財 彦根市史跡
再建造物 法蔵寺

河瀬城(かわせじょう)は、滋賀県彦根市にあった日本の城。

 

概要

南北朝時代に京極宗氏の子定信が池田姓を名乗って河瀬城を築き同時に天台宗遠久寺 (おんきゅうじ - 廃寺時期は不明)を建立したのが始まりである。[1]

その後は郡家を勤めていた犬上君 (いぬかみのきみ)[2]の子孫にあたる河瀬大和守秀宗が1500年代前半に居城した。

同時期に出城として甘露城・蓮台寺城を築いた。しばらくは出城である甘露城・蓮台寺城と共に周辺を統治していたが、1552年10月28日に三好長慶に攻められ八木城から敗走してきた香西・波多野連合軍を河瀬氏は匿い周囲を包囲されたため降伏した。

これにより城は荒廃しつつあったが、仏教に厚く帰依していた秀宗は1574年佐目にあった法蔵寺の移転を受け入れ寺院と城郭の一体化したものに変えていった。[3][4]

廃城は諸説あるが、関ヶ原の戦い以前1500年代後半ごろとされている。廃城後は法蔵寺が引き続き当地にあり現在に至っている。2012年の彦根市教育委員会文化財課の調査によると河瀬神社付近の遺構が河瀬城のものと推定され本項の遺構は南河瀬城のものと推定されている。[5]

河瀬氏

上述の犬上君が周辺一帯を治めていた背景からその末裔である河瀬氏は中世末期に多賀大社の大神主として実権を握っていた。

^ 広報ひこね 2012年5月1日号17ページ 連載企画 - わたしの町の戦国第22回 - 河瀬城 - 河瀬氏ゆかりの平地城館 - (PDF)

外部リンク

  • 彦根市立教育研究所 歩いてみよう調べてみよう わたしのふるさと 13.河瀬小(かわせしょう)れきしマップ (4)河瀬城(かわせじょう)跡(あと)