゛まるかん人゛プラトーク

元気とキレイを追求すると、人生は楽しく過ごすことと・・・!?

限界の先に<地方再生の道③>

2008-06-07 17:00:00 | 社会・経済

綱渡りの命                                                            「予防」へ住民と対話

100_0562 年に延べ百人を超える医学生が、長野県の奥                            深い山村にやってくる。鉄道も国道もない南相                            木村。人口1千人余りのこの村の国保直営診療                           所で、医者の卵たちはお年寄りの話に耳を傾け、                          村内の家々を訪ね歩く。

生活指導

「色平先生がね、しょっちゅう家まで診に来てくれ                           るからね。独り暮らしでも安心なんだあ」。診療所                          に顔を出した倉根ちづ(88)は医学生らの前でシ                           ワだらけの笑顔をつくった。色平先生とは、診療                           所長の色平哲郎(48)。10年前、約30㌔離れた                           佐久市の総合病院から派遣された。20年ぶりの常勤医だった。医学                          生らは色平が主宰する「塾」の参加者である。色平は着任以来、村に                           医学生らを招き、都市との橋渡しを続けている。地域医療をじかに知っ                          てもらうためだ。滋賀医大3年の平野雅穏(26)は「過疎地の医師を志                          しても、大学の勉強ではどうしたらいいか分からなかった」と色平塾に                          参加した動機を語った。コンビニもなく自給自足に近い暮らし。築100                           年の旧家でいろりを囲む。「こんな生活があったなんて」。村民の暮ら                           しぶりを肌身で感じ、都会育ちの医学生たちの顔つきは次第に変わっ                          ていく。県を挙げて予防医療を重視する長野は、高齢者一人当たりの                          医療費か゛全国で最も低い。色平もまた、その予防医療所での診察を                          終えると村内の家々を回る。お年寄りの体調に気を配り、茶飲み話を                          するように生活指導をする。「医者語だけじゃなく、ムラ語も分からない                          とね」。地域医療は医の技術だけでは太刀打ちできない-と色平は考                         えている。しかし、南相木村での色平の取り組みは、いつ崩れるとも                           知れぬ土台の上に立っている。色平を派遣した病院は研修医80人を                          含め2百人の医師が在籍し、県東部の医療の「最後の砦」。いまその                          病院では医師不足の地域からの患者が集中し、時に病床数を越える                          受け入れを余儀なくされるなど綱渡りの状況が続く。「過酷な現場の                           状況を嫌って研修医が来なくなれば南相木の常駐医派遣もできなくな                        る」。色平は懸念を口にした。

医局離れ

1月中旬、県南部の飯田市の市立病院を、厚生労働相の舛添要一か゛                            視察に訪れた。地域医療の現場を見終わった舛添の顔からは、いつも                            の愛想笑いが消えていた。「長野の医療は全国のモデルだと思ってい                          たが、医師不足がここまで深刻とは・・・」市立病院は地域の中核病院                          ながら、産科医不足のため4月からは「里帰り出産」の受け入れを休止                         する。周辺の医療機関でも、派遣医の引き揚げや医師の退職が相次ぐ。                        地方から医師が消える引き金になったのは、2004年度に導入された                          臨床研修制度だった。研修医は労働条件のよい都市部の病院に流れ、                        研修後も大学病院に戻らない医局離れが進んだ。大学からの医師派遣                         に頼っていた地方の医療機関はその影響を受け、拠点病院でさえ医師                           確保が困難に。残った医師も負担増に耐えかねて職場を去る「ドミノ倒                         し」が生まれた。舛添は視察後の住民との対話集会で「目先の問題もあ                        るけど、長期的問題も車の両輪でやる」と力説した。だが、国が緊急対                         策として導入した医師派遣制度は、派遣期間が最長でもわずか半年で                         しかない。昨年派遣を受けた後志管内岩内町の岩内協会病院では、ほ                         かの医師の確保ができないまま2月2日に派遣期限が切れた。厚労省                        は、異例の措置として派遣期間を3月末まで延長した。しかし、同病院の                        苦悩が消えたわけではない-「あらゆる手段を尽くして医師の確保に努                         めるが、現実派は厳しい」                     (敬称略)

コメント

限界の先に<地方再生の道②>

2008-06-07 16:00:00 | 社会・経済

鉄の街の希望                                                           挫折ばねに活路探る

100_0561 東京・本郷の東大キャンバス。社会科学研究                             所教授の玄田有史(43)は、書類の山から一冊                           の報告書を取り出した。表紙に「釜石に希望は                            あるか」とあった。釜石は、あの新日鉄の城下町。                          堅苦しい研究に不釣合いな「希望」の文字は、玄                          田らが唱える「希望学」の調査であることを示して                          いる。報告書には、昨春のシンポジュウムでのや                          りとりが収録されていた。なぜ釜石だったのか?                           玄田は言う。「製鉄所の合理化という挫折を乗り                           越えようとしているから」。そこで「地域の希望」を                          考えたかったという。

誇り刻む

昨年12月。JR釜石駅前広場の一角に、近代製鉄発祥150周年の                           記念碑が建った。「ものづくりの灯を永遠に」。釜石鉱山の磁鉄鉱で                           造った碑に、市民は鉄のまちの誇りを刻み込んだ。新日鉄釜石製鉄                           所ではいま、線材の好調な生産が続く。だが、「ヘルメット姿の作業                           員が闊歩した」(地元商店主)昔の熱気は町中にはない。1960年                            代に約8千人を数えた製鉄所の従業員は、89年の高炉休止を経て                           2百人を切った。市の人口も4万2千人と最盛期の半分以下だ。東                            北新幹線の新花巻駅まで百㌔近い道のり。高速道路も通っていな                            い。そんなまちで、聞き取り調査を続けた玄田ら大学の研究者たちは                          「困難に向き合う人々の気概」と出合うことになる。

連携が鍵

石村真一(54)が経営する石村工業の歩みは、高炉を活力源として                            きたまちの歴史と重なる。もとは構内設備業者。仕事はすべて新日                           鉄関係だった。「信じたくなかった」という高炉休止の後、工業用機器                           の製造下請けで生き残りを図ったが、中国製品との価格競争に苦し                           んだ。活路を開いたのは水産・林業など地場産業と連携したものづく                           りだつた。木くずのペレットを燃やすスト-ブは、北海道にも出荷する。                          電気を使わずに効率良く燃やせるのが特長で「いいものを作って売れ                          ばやっていける」。10人まで減った従業員は今、正社員で20人。近く                          発売するワカメ自動刈取り機も「省力化で漁業の後継者確保につな                           がれば」と期待をかる。市内では進出企業が14社を数え、2100人                           が働く。製造業に従事する市民も増加に転じた。一方で、国際競争の                          荒波に押され、撤退した企業も10社ではきかない。進出企業が採用                          するのは、新卒を除けば派遣や臨時従業員などが大半で、地元には                          「低賃金で使われるのなら、植民地と同じじゃないか」との不満がくす                          ぶり続ける。だが、火の消えた高炉が残した深い穴を埋めるのに、え                           り好みができるはずもない。同市産業政策課長の佐々隆裕(53)は、                          首都圏で企業誘致に靴底をすり減らす。大手企業や研究所、果ては                           産業廃棄物の処理業者まで。足まめな営業マンのように歩き回るの                          で、「公務員だと言うと驚かれる」と佐々は笑った。では、釜石に希望                          はあったのか-。玄田たちは調査の中間報告で、誘致企業と地場の                          連携や豊かな観光資源の活用などの課題を並べ立てた。まちを生き                           返らせようと懸命になつている人たちも、まだ力を合わせ切れていな                          い。だが、玄田は「ある」と確信する。「挫折を経験しなければ、希望                           は生まれてこないから」。苦境からはい出そうとする釜石の気概は、                           一度苦難をなめたからこそ。玄田はその姿の向こうに再生への道筋を                          見る。石炭、造船、漁業・・・。道内経済も基幹産業の衰退で低迷にあ                          えぐ。道は2008年度以降、4年間で10万人の雇用創出を目標に、                          企業誘致や中小企業の育成に力を入れようとしている。  (敬称略)

コメント