子どもの頃から学ぶことに対してはあまり前向きではなかった。
だいたいの科目で「いかに要領よく覚えるか」ということを考え、実践していた。
高校入学祝いに「タイプライター」を買ってもらった。
今ではタイプライターを使っている人などほとんどいないだろう。いや、30年ほど前の当時でさえ僕以外に使っている人を見たことがなかった。
試験前になると英語の教科書に載っている文書をそのままタイプで打っていた。そうすると、教科書の内容を暗記することができた。
学内の試験ではこれが効力を発揮し、赤点や再試とは無縁だった…と思う。それでも、大学入試には通用しなかったな。
大学に入るとタイプライターを使うことはほとんどなくなり、今はもう持っているだけだ。
ところが、ひょんなことからタイプライターを使っていたことが役に立った。社会人になってすぐ、パソコンやワープロを使う仕事を任せられた。
その時、タイプ入力の際に身に着けた、ブラインドタッチによるローマ字入力が効果を発揮した。これをかな入力に応用することもできたが、今はローマ字入力だけにしている。
一昨日、正月2日の朝に
『学ぶことの意味を探して ~神田一橋 通信制中学の歳月~』という番組を再放送していた。
実はこの番組を録画していたのだけど、慌ただしくしているうちに視ることができていなかったので、再放送はありがたかった。
番組は、中学に通えなかった高齢者のための通信教育中学校に通う方々の紹介を通じ、学ぶことの意味を考えていく内容だった。
紹介されたお2人は僕の母より若い方だったけれど、苦労されて学ぶことができず、改めてこの中学に通われていた。
確かに、僕の母は「恵まれていた」と言っていた。決して裕福ではなかったけれど、祖父母は娘4人、息子1人を高校まで出した。
その昔、子どもが学校に通うことができたかどうかは、家庭の経済事情が大きかっただろうけど、それとともに、兄弟の多さや、特に女の子に対しては「学問なんかいらない」といった偏見があったと思う。
番組で紹介されたお2人も、その当時は学校に行きたいという思いはあっただろう。それでも、状況がそれを許さず、今に至ったのだろう。
それでも、この学校に通う方々は改めて学ぶ機会を求められた。それぞれに生活があるから、学び続けることは子どもたちと比べたら相当難しいだろうけど、彼らは学び続け、卒業され、更に高校に進まれた。
若い時には、学ぶことは「やらされている」感じがしていたけど、今思えば「もっと勉強しておけばよかった」という思いが強い。
そして、この番組を視てからその思いは更に強くなった。
「勉強なんて押し込むくらいでいい」という意見もあるけど、僕は気づきながらの学びのほうがいいと思う。たとえ時間がかかろうとも、その過程を通じて学んだことを自分のものにできた方がいい。
そんなことを思いながら、今年は僕も学びのための時間を取りたいと思っている。